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糠漬けの研究:生命の生まれる所

糠漬けを初めて丁度1ヶ月が過ぎた。最初は単なる漬物かと思いながら始めたのだが、どうも「漬物」の意味を勘違いしていたようだ。母に教わったタクワンを思い出しながら、ぬか漬けを作りはじめた。驚いたのは「半額になったお寿司や春雨サラダ」を食べたくなくなったのだ。

味覚の変化は身体の中で何かが変わってきている事を意味している。

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50年前にはなかった病が蔓延中

その病は「病因」が見つからず「症状」だけが喧伝される。医学は投薬や手術で「症状」を治めるが治ることはない。死ぬまでの10年を何種類もの薬と繰り返される手術で過ごすことになる。

膠原病・難病・検査値の異常(血糖尿酸血圧脂血)、ガン、致命的な臓器組織の破損(精神・循環・消化・皮膚)それぞれに起こるが多くは「常在菌」か「自己免疫」が牙をむく。

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かく言う僕はII型糖尿病だ。2015年からの5年間の「食事探し」で糖尿病への不安は無くなった。おそらく僕の「幸運な病のレシピ」に従って生きることでピンピンコロリの人生の終わりは迎えられるだろうと思う。死ぬ瞬間まで心が狂うことないだろうと思っている。

しかし、まだ腑に落ちないことがある。わずか50年でこの「病因のない症状だけの病」がこれほど蔓延しているのかだ。様々な食事療法は有るがどうしても決定打には見えない。

発酵食品の「商品化」(手作りの糠漬けがあっという間に絶滅したこと)に焦点を当てるべきだと考えている。象徴的なメルクマールであるが、恐らく「象徴」などと言うよりも、もっと深い意味が有る。

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社会の変化が生んだ「病(身体の当たり前の反応)」。

この『「病因」が見つからない「症状」』は性別、年齢家庭の環境、関係なく襲いかかってくる。疫学調査でもビッグデータの解析でも納得のできる仮説はでてこない。

或るパターンでは自己免疫疾患であり別な場合は「通常ならば問題が起こらないような細菌」による感染症であったりする。「難病や膠原病」と言われる「病状」を見れば分かる。そして医学の対処は「野蛮で痛い」のだ。予防医学と銘打って「検査値」を下げようとするが、検査値と疾患の間の分子生物学的な因果関係は見つからない。無いものが見つかるわけがない。
医学は「過去の常識」から逃れることは出来ないから、新たなものを見つけられない。社会の変化がこの状況を生んでいるとは考えられない。僕は、「生活習慣」と役人が定義した「個人の責任」で起こる病ではなく、社会の変化により起こる問題と考えている。個人の責任で起こっているならばこれだけ広範囲に起こるとは思えない。抗えない構造的変化がここには有る。

「グローバリズムという『獣』」が私達を守っていた「家庭というシェルター」が記憶して維持してきた「食事」を食い散らかして(金儲けして)いるのだ。

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リンゴの糠漬けである、柿は駄目だったが、リンゴは美味い。

食事哲学者は社会の変化に答えを見た

多くの食事哲学者は社会の変化で苦しんでいる人を助けたいと思い命を削った。僕は尊敬している。石塚左玄先生は食養道からマクロビオテックすを生んだ。ライナスボーリングさんは分子強制医学を生んだ。しかし、時代は変わり、その時には有効であったかもしれない仮説は新たな変化には対応できていない。

この変化の本質はどこか?

医師や栄養士は言う。「バランスよく」「免疫力を高める食事を」「和食中心で」「肉ではなく魚を」「医学者が監修するメニューを」「トクホやサプリを十分とって」だそうだ。

もし身体が悪くなれば、医師の言いつけが出来ていなかった証拠になるのだ。詐欺師と一緒で絶対に間違えない。

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そして入院すると、病因での食事が原因で死んでいく。健康に死にたければ医者(専門家=病人で商売する職業人)に近づかないことだ。無論素晴らしいお医者さんもいるが、イリオモテヤマネコ並みであろう。

だから僕は医者の言うことなど信じない。自分の食事の信念を貫く。駄目だったら、それで結構だ。何せ僕にとっての「正しい食事」は僕にしかわからない。他人の言葉に命を預けるつもりはない。

食事を作るプロセスに有る。

1960年代に始まった食事の「医学的分析」は皿の上の食品の分析でしかない。「熱量」と言う1800年代の生化学の範囲から抜けていない。

2000年前後から生命科学は飛躍的に変わった。マイクロバイオームの研究、代謝学と分子生物学が結びついて細胞レベルでの分析が可能となった。

オートファジーは免疫というバズワードをもっと精度の高い生命のリサイクル(輪廻転生)として定義し直してくれる。

DNA自身が神のごとく言われていた遺伝学の分野でも、今ではエピジェネテック抜きでは意味がないことが分かられている。僕はセントラルドグマはすでに変化を余儀なくされていると思っている。

細胞レベルでDNAはプロトコルとして機能しているのだ。

無論、あらゆる科学はその時代の限界の中にいる。それは仕方がない、しかし、もっと現実を見て考えねば本当に大事なものは見つからない。栄養学は「政治的正しさ」を要求されたために行政の一部となり、変わることができなくなってしまったのだ。だから、最新の知見と言いながら、過去の考え方を補強する他ないのだ。

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パイコー(豚のバラナンンコツ)を糠に漬けた。10/23のことである。今日10/28に取り出して焼いてみた。香りが高く美味い。

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丸干し系の魚は糠につけておくと臭みが取れる。20時過ぎに「50%になるめざし」が6匹100円程度になるのだが、買いだ。壺から出した糠床につけると最高にうまい。3日くらいで、内臓が香り高くなっている。

僕は自分の身体と母の思い出を頼りに、食事を見つけようと決心した。

80年前は冷蔵庫などなかった。長期貯蔵技術もなかった。自分たちの生きている環境から食事を手に入れていた。「採集狩猟」的な食環境であったのだ。つまり、大地から食卓までの距離が実に近かったのである。

炭水化物は毒ではない、美味しすぎてかんたんに満腹が来るので商品化された諸くじに最適なのだ。そのために手間のかかるプロセスは消えていく。

なにせ私達は忙しい。夫が稼いでくるかねだけでは暮らせない、食事を革zるを得なくなったのは仕方がない。多くの企業が食事の売上で維持されている。今更元には戻れない。どうしたらいいのだろうか?結論にたどり着けるだろうか?

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糠床の研究

糠漬けというのは漬物(塩で漬けて細菌を殺して長持ちするようにしたもの)なのだと考えていたのだが、どうも違うような気がしてきている。

スーパーで弁当買っても入ってくるし、「商品としての漬物」は流通している。しかし、50年前の世界では、皆自分で漬けていた。それは単に野菜を塩で漬けて長期に保存するためのものである。商品化された食物は生命を身体に運んでこない。

もしかしたら、これこそが「病因のない症状」を生んでいると思い始めている。一人一人の持っている代謝系はみな違うから、症状の出方は違う。しかしながら「商品化された食事」と言うキーでつながると感じている。

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反芻動物は細菌を食べている。その細菌が動物の身体の内側で生きる。そして破壊されながら身体を構成する細胞の一部になっていくのだ。

植物は地中の水と様々な「ミネラルを埋め込んだ細菌=生体ミネラル」を取り込んでいく。生命はミネラルを使っていくが、それは長い進化の道のりの中で受け継がれていったものだ。オートファジーという考え方は細菌が細菌を分解して自分の一部に取り込んでいく過程である。

食事は、自動車にガソリンを補給するようなものではない。生命が形を変えて別なコロニーで生きることなのだ。

10月23日にパイコーを漬け込んだ。今日はは28日あので5日間糠につけていたのだ。腐るかどうか心配であったが、洗って食べてみたら驚くほど美味い。

糠漬け壺には野菜に入り込んだマイクロバイオームが放たれ、糠を材料に増える。あの壺の中に地球の人口を優に超える生命が生きる。そしてその細菌の身体を形つくる生化学物質は医学が解析していない価値を持つのだ。

魚や肉においても同じ様に生命を分解しながら自分自身を増やしていく。そのプロセスこそが重要なのだ。

僕は丸物の糠付けなどが好きだったので、時折買っていたが、売っている糠漬けとは全く違ったものになっているのに驚いた。

商品として流通するということは生命を絶たなければならないのだ。うんと近くで取られた食べ物(近海物のさしみや、地元の野菜)にはまだ生命が残っているのではないかと思う。美味しさには訳があるのだ。

すっかり、糠の中のマイクロバイオームが僕を操っている。

だいたい味覚が変わるということもすでに、僕を操っているということなのだ。ああ、ロトの辺り番号御告げしてくれないかね。

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このお話の続きです。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。