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幸運な病のレシピ(1)マニュアルではないレシピ、「続ける」こと、食事の価値を信じること。

金を出せば、医師や栄養士の太鼓判付きの食事が手に入る。しかし、身体はいずれ衰える。薬を飲んで、検査値を正常にする。これを専門用語で「検査値正常の不健康」と呼ぶ。薬飲んで検査値を正常にして健康を自慢する。

検査値とは関係なく致命的な臓器の「傷み」は続く。やがて、後戻りの出来ない疾病が始まり、名医(笑)に診てもらうことになある。これを専門用語で「病気自慢の医者自慢」という。難病と診断され、最高の医療(笑)を贖う。昔は病気ではないと言われ、

今は片端から病名がつく。分子生物学的検査はあらゆる病気に特徴的な検査値をの異常を見つける。そして、分子標的型の薬は恐ろしくよく効く(検査値を下げる)。しかし、災厄はやがて近づいてくる。

検査値の異常

何種類もの薬を飲んで検査値を正常にして、同じような手術を繰り返して、「輸液(点滴)・経管(栄養)・胃瘻」で人生の終りを迎える。

今はそういう時代だ。統計的に私達は病院か施設で孤独に死ぬ。

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僕は「医師や栄養士の太鼓判の食事」に間違えがあると考えた。

例えば30種類のお煮しめや焼き魚が入っている幕の内を食べてみる。美味しくないのだ。特に煮しめの味の悪さは筆舌に尽くしがたい

1000円くらいの幕の内であっても、お店の仕入れ値は40%である。400円で材料から加工費(人件費)から容器代(後片付けコスト)運送費、すべて入るのだ。その上、商品である限り均一でなければならない。味も形も量もその商品(=弁当)を見ても同じでなければならない。

同じ形の食材を同じ大きさに切り、別々に蒸気で蒸して、強い味(誰もが美味しいと感じる)だし汁に浸してパッケージに盛り付ける。蒸気で蒸された素材は見かけは高級料亭なみだ。一見30種類の小綺麗な野菜・根菜、肉・魚が並ぶ。

しかし、その中には「生命」=「脂質の膜(細胞膜)でくるまれ、数千万から数億のタンパク質(酵素=代謝系)の含まれている水」が入っていない。食材の名前がついたミイラが並んでいるだけなのだ。

プロセスが重要

僕の作る煮しめはできるだけ素材のままに一つの鍋に入れて、最初は強く、アジを刻して、後にはゆっくり弱火でジックリと煮る。

素材の中から「生命」が少しずつ染み出して、煮汁を作る。そうしてもう一回、材料に入り込んでいく。母が作ってくれた煮しめの味だ。決して高級料亭風の旨さはないが、滋味に溢れ、嬉しくなってくる。

医師も栄養士も器の上の食材の数を数えて太鼓判を押す。作るプロセスには何も言わない。しかしね、数百の弁当を一気に作り競合と戦い勝たねばならないのだ。「商品化された食事」は私達を少しずつ殺す。

マニュアルではないレシピ

レシピというと、材料と手順が書かれたマニュアルと思うだろうが、僕はそうは思わない。

厨房仕事は定型化が難しい。食べられる食材も、食べる私達も生命だ。あまりに一人一人が違いすぎる。自分に合った食事を、違った季節に、毎回違った食材から作るにはマニュアルで救いようのない「何か」を掴まなければならないのだ。

毎回同じようにマニュアルをなぞっても、それは自分の味ではない。銀行型学習という。マニュアルに書いてあるとおりに出来ることが良しとされる。

それに比べて、今までできなかったことが出来るようになることこそが喜びであり、それを知ることが学習なのだという考えの方が好きだ。メタノイアと言う。ある日、開眼するのだ。今までできなかった事ができるようになる喜び。これこそが「学び」である。

学校では教えてくれない。



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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。