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「糖尿病デー」に思う(1):検査値は災厄の元凶ではない。

11月14日は世界糖尿病デーである。
2015年4月に眼底網膜症で失明すると宣言されて『この病』と食事で向き合うことを始めた。糖尿病について学び始めたところであった。
2015年の新潟市でのイベントに参加した。
今に至るまで様々なことがあったがこの日のことは忘れない。「商売人(糖尿病の指導医・メディカルキャピタリスト)」の言うことなど信用できないということを知ったのである。患者や家族、臨床医の苦しみを金に変えるマジシャンである。
とは言っても本人たちも本気で信じているのかもしれない。
おまけに懇切丁寧で腹が立つ。本人たちは患者は馬鹿だから丁寧に指導しなければならないと思っているのだろう。まあ、当たってはいるが........…。

会場では「インスリン注射」の出店が並び、お年を召した方々が会場いっぱいにた。大学病院の先生が講演があり、その内容は余りに人を馬鹿にしていて呆れ返った。「デブ猫の写真」を映し出して肥満が糖尿病の原因だと笑いを取り(デブを笑いものにするのはクソ野郎の証拠だ)、米の消費量は減っているから米は原因では無いという言葉で米どころのプライドをくすぐる。

会場のお年寄りは迷うことなく医師のコトバに従いなさいという講師の言うことにウンウン頷いておった。
会場では血糖値の検査や個人面談のブース、恐るべき合併症(合併ではないのだが..…)の展示があった。、採取後すぐに数字がわかる「A1c測定器」も並んでいた。
ロビーにはインスリンのメーカーや注射器のボーチを展示してある。
恐るべき商魂である。

心霊商法ならぬ診療商法である。どちらも騙される方が悪い。

講師の先生に資料を差し上げて糖尿病に関して疑問であったことを聞こうと思ったのだがメーカーの部長くらいの年齢の方と話し込んでいた。ニコニコと優しそうな笑顔で受け答えしてくれた。数枚の印刷したペーパー(後に本になる原稿)は受け取ってもらえなかった。
お話の相手の方はどこぞのメーカーの方であろうか、名刺ももらえなかった。彼らを責めるのは筋が違う。医学部の研究費は医師に薬を売らせて、その売り上げの一部が研究者へと還流する。残りはメディカルキャピタリストの豪邸になる。彼らはせいぜい小悪人である。
その金は「病を治してくれる」と思いこんでいる可愛そうな患者と家族の供出金である。

そして、自分は「糖尿病などという『病』」にはかからないと思いこんでいっらっしゃるのであろう。頭のよろしい先生であられる。

2017年に僕は本を出版するのだが、このときの体験が大きな転機となっている。とは言っても、まだまだ山あり谷ありであった。


インスリンという特効薬は「病」の本質を隠す


1920年カナダのトロント大学でインスリンは発見された。

膵臓のβ細胞が破壊されてインスリンが生産されないI型の患者には福音であった。多くの命が救われたのである。しかし、よく効きすぎる薬は「病」の本質を見えなくする。

インスリンは豚の膵臓から抽出されていた。1960年に分子配列が最初に解明された「ホルモン(よく効く薬)」であった。
やがて、この時代に「検査」をすれば将来の災厄が防げるとい道筋が作られる。マクガバン報告とが食事と医療の関係を研究の対象として、疫学的手法というフェイクが「医療」という権威を確立させるのである。予防医学という金のなる木を見つけるのだ。

1920年代は街の薬屋だった会社が大企業である。世界には3社インスリンを作る会社がある。

当初、日本にはインスリンは輸入が困難であった。
1980年代にインスリンは工場で生産できるようになる。数年うちに日本でもインスリンの自己注射が合法のものとなり、本来「食事」で向き合うべきII型糖尿病の患者にもインスリンは売られるようになるのだ。


インスリンとはなにか?
インスリンとは「身体というコロニー」の中に生きる筋組織・脂肪組織の細胞・組織に対してブドウ糖を取り込んでいいという許可を与える。だから血糖値は下がる。

筋組織と脂肪組織は貪欲なので血液中の「ブドウ糖」余りに多く吸い込んでしまう。ブドウ糖は速度の早い代謝(無気呼吸)に必要なので不足すると生命は動けなくなる。ミトコンドリアを通した呼吸においてはケトン体も使われるが、脂質は力はあるが瞬発力がない。脳死に至る低血糖はインスリンの注射で起こる。このインスリンが多くの細胞の連携を司るというプロセスは
脊椎動物全般に見られる「律」である。魚にも鳥にも全ての哺乳類にも見られる。脂肪組織と随意筋組織が発達したプロセスにおいて「ブドウ糖」と言う生命全般での希少な価値を貪欲に喰らう組織に首輪をつけたのである。

ミトコンドリアの有機呼吸には決定的な問題がある。酸素がなければ回らないのだ。実質的に酸素量がストッパーとなっている。遊離酸素を作り水素と炭素を回収しなければ「ATP<=>ADP+P」サイクルはまわらない。激しい運動をすると呼吸が荒くなるのは筋肉が一杯一杯になているのだ。一時期ゆり酸素がガンの元だ言われていたが、最近は言われない。なにせ細胞の中では毎瞬間作られているんのだから。
緊急時にはインスリンの許可なしにブドウ糖を吸い込んで筋肉は動く。これが火事場の馬鹿力である。火事でなくともいつで起こればいいのに。まあ、それも怖いか。

生命は還元(パーツに分解できない)不可能である

インスリンは血糖値を下げる唯一の「手段」というがそれは嘘である。
一定量以上になると尿になって糖分は排出される。当たり前の反応なのだ。筋組織においてもインスリンがなくともブドウとは取り込まれる。肝臓においてはグルカゴンという形でブドウ糖を取り込み血糖値は下がる。

人の身体は「単純な機械」ではない。確かにダイヤルを回せば数値は変わる。しかし、そのダイヤルが1億個あってそれの数値の状態で変化の割合が変わるとしたらどうなると思う?
糖尿病の研究者は次々に新たな機序を見つけたと大騒ぎする。それは浜辺の砂粒に一つ一つ名前をつけるようなものである。円周率をどこまで記録した所で同じ数列は二つと現れない。それは「生命」が二ツとして同じものがないということを意味しているのだ。
今に始まったことではない。古から、寓話に出てくる髭の長い賢者の姿である。しかし、自分の運命は分かないにと見える。


一番血糖値を下げる(上げない)のは「食事」なのだ。食事の中からブドウ糖を取らなくとも肝臓では「糖新生」によってタンパク質を材料に脂質を燃料としてブドウ糖を作る。入院するほどの低血糖(年間4万人)はインスリンの注射が起こしているのだ。

しかし、それ以上に問題が在る。「血糖値が血管を傷つける」というドグマである。医療関係者は「ブドウ糖」が毛細血管を破壊するから腎不全や眼底網膜症、壊死壊疽が始まるのだと口を揃えていう。
しかし、全身の血管は4万kmである。眼底や腎臓の毛細血管は距離的には大した比率を占めてはいない。
それよりも、「血液関門」と言われる特殊な形態であるほうが重要である。通常の毛細血管は血液を通す「穴」が空いているが、「血液関門」は厳しい選択透過をする。血管の膜に埋め込まれたタンパク質が特定のルールで生命を受け渡しているのだ。


そして、血管は常に新しく作り直されている。しかし、腎臓や眼底の眼底毛細血管は「壊れた状態が維持される」のだ。

この現象を僕は「いい職人がいないから上手く作れない」と考えている。いかに「栄養素」を透過しようとて、それを使い細胞に組み込む手段がなければ上手く再生されない。その役割は「立体構造を維持したタンパク・脂質」が担うのである。
食事が作られるプロセスが工業化され、
血液に「生命:立体構造を維持したタンパク・脂質」が流れていないと考えることで説明がつく。
1960年代以降の分子生物学的な生命感は「栄養素」さえあれば細胞は何でも自分で作れるというドグマを持つ。ヒト様は偉大だから下等な生物を「栄養素」迄分解して吸収するのだと考える。
サプリメントやトクホ微量ミネラル、次々と「栄養素」の過不足のを研究者は並べ立てる。しかし、その人生の末路は病院や施設の箱の中で管だらけにされて一人苦しみ続けるのだ。僕はまっぴらである。

この50年で食事の環境は大きく変わった。

食材は調理されることで適度に壊される。
他の生命には無害であっても人の身体というコロニーにはいってきた途端に問題をおこす「生命」は多い。
「豚のインスリン」が食事でそのまま入り込んできたら、人の脂肪組織と筋組織はブドウ糖を受け入れる許可をもらえるから、人は低血糖で死んでしまう。だからインスリンは注射で身体の中に招き入れられる。
「調理=消化」というのは長い歴史の中でヒトが世界を受け入れるために得た知恵の集大成なのだ。伝統的な調理方法には価値がある。

フードサプライチェンが食事を作る工程は、センターキッチンでの大量生産である。「過度な高温・濃縮・分離・抽出」のプロセスは食物連鎖のうちから受け取っていた必要な「生命」のか形を破壊する。
濃縮還元の100%ジュースや高熱で骨までバラバラにした缶詰、いずれも美味しくない(僕の舌では)。

最近の糖尿病の本(のレビュー)を読んでみると、まったく進化がない。2010年当時までは分子生物学上の機序が見つかると大騒ぎであった。ブドウ糖が細胞内で「終末糖化物質」となり細胞を破壊するとか、脳細胞を機能停止に追い込みとか恐怖のオンパレードであった。しかし、その思い込みを裏付けるエビデンスは見つかっていない。


この話続きます。

厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。