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「東京都同情塔」の考察 (※読み返しながら追記していく)

『東京都同情塔』は、九段理江による中編小説で、第170回芥川龍之介賞を受賞しました。この作品は、ザハ・ハディド設計の国立競技場が完成し、寛容論が浸透したもう一つの日本を舞台にしています。

「ホモ・ミゼラビリスト」

犯罪者の中には、本人の積極的な意思で犯罪を犯した訳ではなく、社会や家庭環境の影響で、犯罪を犯さざるを得なかった人達もいる。
例えば、万引きを行ったのは、何かを盗もうという悪意からではなく、万引きをするしか生きていけない環境の人達も確かに存在している。
そういう「同情」すべき対象の人達をホモ・ミゼラビリストとカテゴライズしている。

それが、このトーキョーシンパシータワー 東京都同情塔が作られた背景の1つである。

本書でも、カタカナ語、漢字を使うことで、相手に与える印象が変わってくることを指摘している。
「同情」と「シンパシー」では、同じ意味でも読者に与える印象が違う。
「同情」だと硬いイメージになりそこに強制力や圧を感じさせてしまうが、「シンパシー」だとゆるふわな感じになり読み手側が感じる圧が少ないため受け入れられやすい。
でも、ゆるふわなイメージになるのは、言葉の定義自体が曖昧になってしまっているから、都合よく理解させる余地が多いからなのではないだろうか。
言葉の意味の解釈を、ある程度の範囲の中で読み手に任せる。

言葉からイメージが形づけられるのなら、イメージを変えるには言葉を変えるしかない。
だから、「犯罪者」ではなく、「ホモ・ミゼラビリスト」という言葉を作って、犯罪者とは違ったイメージを持たせようとした。

「認識」と「行為」が世界を変貌させる

「理解も誤解も、あまり違いはないように思えるんだ」


押井守の映画 イノセンスで、荒牧課長が言った「理解なんてものは概ね願望に基づくものだ」というセリフがある。

言葉というのは自分の口を出た後は、どう解釈されるかは相手に任せるしかない。
自分の意図した言葉の意味で相手に理解されるわけではなくて、どんな言葉も、口を出た後は、相手の知識の範囲内で認知して、理解または誤解される。
だから、そこに大きな違いはない。

この言葉は、言葉を使った相互理解に対する相手に対する寛容の心を育むことにもつながります。
誤解は避けられないものと受け入れることで、相手の言葉や行動に対してもっとオープンになり、コミュニケーションを深化させるチャンスを得ることができます。相互理解のプロセスは、誤解を正すことから始まることも多く、その過程で互いの関係が強まることもあります。


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