大学の「授業」.
「大学の授業」といういい方をすると,「大学では『授業』といういい方はしない.『講義』というのである」というニュアンスの言説をする方がいます.例えば,(少し古いブログですが)大学教員でも次のようなことを書いている方がおられます).
ここでは,「大学では、中学高校と違い、授業とは言いません。あくまで講義と言います。」とし,次のように述べています.
何故に授業という言葉を使わないか?
授業は、字の意味でいくと業(ワザ)を授けることです。
つまり、授業をするということは、相手に知識を与えようという意識が必要になります。しかし講義は、別に知識を与えることを目的とはしていません。自分の学説を論じてみたり、研究の一端を解説して、それを学生が一生懸命理解しようとするのが、講義なのです。(適宜改行は修正した.)
声を大にして申し上げます。
「大学は『授業』とは言わない。『講義』というのだ。授業と講義は違うのだ」というのは正確ではありません。
大学設置基準では,以下の通り定められています.
(教育課程の編成方針)
第十九条 大学は、当該大学、学部及び学科又は課程等の教育上の目的を達成するために必要な授業科目を自ら開設し、体系的に教育課程を編成するものとする。
大学設置基準では,大学で開講する科目のことを「授業科目」と称しているのです.これは今に始まったことではなく,昭和31年に,初めて制定された大学設置基準にも「第六章 授業科目」として,「授業科目とは,学科目,講座またはこれらの併用によつて編成される教育課程における授業の科目をいう.(第18条第2項,当時)」という規定が設けられていました.少なくとも,1956年以降,大学で開講されているのは授業科目という「授業」であるはずです.
そもそも,大学で開講されている授業科目は「講義」だけではありません.
(授業の方法)
第二十五条 授業は、講義、演習、実験、実習若しくは実技のいずれかにより又はこれらの併用により行うものとする。
少なくとも「講義」の他に,「演習」「実験」「実習」「実技」という科目が想定されています.このうち,もっとも「大学らしい」授業は「ゼミナール=演習」であり,「実験」です.
大学の大学たるゆえんは,「演習」「実験」等,学生が教員とともに「教育研究」に関わる点にこそあるのです.
一番大学らしいといえるこれらの授業科目が「講義」ではないのに、「高校までの授業とは違って、大学では講義というのだ」と言われても…という話です。
もちろん、高校までの授業と大学の授業では、その性質や内実が異なることは当然のことです.
なぜ,「大学では、中学高校と違い、授業とはいわない。あくまで講義と言う。」という誤った認識がまかり通るのでしょうか.
上で紹介したブログに,その理由の一端が垣間見えます.もう一度,引用します.
講義は、別に知識を与えることを目的とはしていません。自分の学説を論じてみたり、研究の一端を解説して、それを学生が一生懸命理解しようとするのが、講義なのです。
この教員は,「学生は,自分の学説や研究の一端を聞くために大学に来るのだ」と考えているのです.
しかし大学はそういう場所ではありません.
潮木(2008)は,次のように述べています.
それまでの伝統的な大学観,学生観,教育観,学習観では,大学とは知識を教える場であり,学生が大学へくるのは,その知識を学び取るためであり,教師とはそれを教え込むために大学にいるとされていた。(中略)
知識が進歩するとすれば,大学は何を教えなければならないのか。教えるべき知識が進歩する以上,すでにできあがった,既成の知識を教えるのでは,やがては通用しなくなる。そうであれば,大学が伝えるべきことは,いかにして新たな知識を発見するか,いかにして知識を進歩させるか,そのための技法である。
(中略)…フンボルトをはじめ,当時の思想家たちが構想したのは,こ うした大学観であった。(潮木,2008)
「大学が伝えるべきことは,いかにして新たな知識を発見するか,いかにして知識を進歩させるか,そのための技法である」とすれば,「自分の学説を論じてみたり、研究の一端を解説して」みたりしたところで,大学の役割を果たしたとは言えません.
「学生は,自分の学説や研究の一端を聞くために大学に来るのだ」というのは,「大学とは知識を教える場であり,学生が大学へくるのは,その知識を学び取るためであり,教師とはそれを教え込むために大学にいる」という「伝統的な大学観,学生観,教育観,学習観」を抜けていません.
「講義」こそ,フンボルトらが構想した大学の授業の姿からはもっとも遠い,「伝統的な大学観,学生観,教育観,学習観」の象徴なのです.
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