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恋と走ること

ちょっとだけ自分の内側の話を書きたい。(そもそも、ここは自分の内側を書き記してきた場だけど)ここ3年ほど付き合えそうな浮いた話があっては付き合えなかったり、付き合ったかと思えば数日で「やはり付き合えない」と言われることや自分から「やっぱりダメです」と断ったことが数件。案外自分はショックを受けていないのだけど、そのことを話した友人の方がショックを受けている場合が多い。もしくは、年上のおじさん、おばさんたちとの会話でネタにされることが多い。

去年くらいまでは「付き合えなかった」ネタで話が済んでいたけど、さすがに同じようなケースがここまで続くと、恋バナというより人生論的な部分で何か変わらないといけないことにはたと気づかされた。というのも、根本的な部分で自己肯定感が低く、孤独や不安感を誰かに受容してもらいたいと願っている部分が自分にはある。当然誰しもが持っている感情だと思うが、殊自分は自己肯定感が低いのと承認欲求が強いことを振り返っていて思い出した。承認欲求の強さと自己肯定感の低さはそうすぐには変わらないと思うが、故に恋愛依存(=この人なら自分を受け入れて貰えるのではないか)を引き起こしている。

それで、もう一つ気づいたことがあるのだが、"ランナーは孤独"だ。レース前の不安や、自分1人で走り切らなければいけない孤独感。その全てに対して自分1人で解消することが求められているわけではないが、最後に向き合うことや走ることで昇華するのは「走る自分」だ。分かりやすい例でいえば、新谷仁美選手がレース前の緊張で「走りたくない、逃げたい」と口にしてコーチの横田真人さんはひたすら寄り添うが、結局レースに出てその不安感を昇華させるのは当人である新谷さん。

何度も言うが、決して自分の中に渦巻く不安感を自分の中で解消させなければいけないと思っているのではない。また、横で寄り添ってくれる人が不必要なわけでもない。むしろ、寄り添う人が重要な存在ではあるが、最後の最後「えいやっ」と扉を開くのは自分以外の誰でもない。自分の足で走るほか方法はない。

「不安で誰かに助けてもらうのを待っている」自分を受け入れてもらうのは、幻想でしかなく結局最後は自分の足で自分の人生を走るほかない。「不安で仕方ないけど自分の足でもがいて、不恰好にも走り続ける」自分たちを互いに応援し合える人が居たらそれがいいじゃないかと思った。

孤独を向き合うこと。自分の醜さや弱い部分、できない部分と向き合うこと。

なんて自分は仕事ができないんだろうと日々ダメージを受けるし、自分より他の人の方がみんなから受け入れられている気もする。それでも、今日も自分は自分の足で走っていこうと思う。

地面に自分の足を着けて走り続けることの方が、自分にとっては大切で貴重なことだと知っているから。

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