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静寂に身を浸すことで感じられた「小さな声」

ときどき自分の声が小さすぎて聞こえなくなるときがある。

綺麗だと感じていたものへの確かな思いも薄れ、本のページを開く余裕もなくなる。仕事に忙殺され、今日出す記事をあっぷあっぷと溺れそうになりながらギリギリのところで公開ボタンを押す。SNSに氾濫するまったくどこが真理なのかわからない真理が流れてきたり、キラキラとした画像に映し出される世界をぼんやりと眺めては酔いから逃げるように現実世界へ戻ってくる。疲れ果てた心と頭で何かを絞り出す元気もなく、また眠りに就いて、ぼんやりと朝を迎える。

もっと素直で社交性のある人間だったら、シンプルに人と接することができる人間だったらそんな世の中へ軋轢を感じなかったのかもしれない。そんな人間だったらどれほどよかっただろうかとこの面倒くさい自分の性格を何度も恨んだ。

快活で社交性もある、キラキラした人間にならなければならないのではないかとプレッシャーを感じていた時期が少なからずある。メディアの編集ディレクターという職業上、撮影や取材の現場ではあらゆるひとと話さなければいけないし、笑顔で大きな声で話さないとその場をつくるという意味でも成り立たないことは多々ある。

しかし、社会人を3年送ってわかったのはそう振る舞えないこともないが、根暗で声が小さいのでずっとその振る舞いをつづけていると壊れるということ。社内の朝会で一言話すだけで緊張する自分が、快活に爽やかに、誰とでも仲良くするというキャパはどうやら持ちあわせていないようだ。

最近、塩谷舞さんの新著『小さな声の向こうに』を読んだ。

世の中に溢れるあらゆる情報が濁流のように押し寄せ、もはやちっぽけなものしか持ち合わせていない自分はいとも簡単にその濁流の飲み込まれそうになる。その押し寄せる濁流が激しく、大きい音であるが故に、自分の中に存在している「小さな声」を聞く余裕もなくなってしまう。

そんなことを想いながら、この本を読むと、美しいものや空間から小さな声が聞こえるようになってくるというのはなんと素敵なことだろうと感じる。

この社会への違和を確かな言葉にしながら(自分にはぼんやりと感じている程度のものが、こと細かに言葉として紡がれる)、自らの姿勢や行動が記されている。そして、その先々で出会う人や場所がまた美しいのだ。

最後の方で出てくる「たとえ喧騒の中であれ、小さな声で、話してみること」というエッセイには、喧騒の中で話を聞いてもらうには『小さな声で話すこと。そうすれば周りの人は音量を下げ、耳を傾けて、あなたの声を聴いてくれますよ』という、劇団の演出家の言葉が回想されている。

小さな声。

この文章を読んだとき、自分がこれまで喧騒の中では大きな声で太刀打ちしないと生きていけないのだと感じていたことを思い返した。

たとえ周りの音が大きくとも、自分の中に確かに存在する「小さな声」はそのままでいい。大勢の場よりも一対一の会話が好きなこと、情報量の多い動画よりも静寂な文章が好きなこと、静かに佇む美しいものに惹かれること。そうしたものを流されずにもっていてもいい。

読み終えて、じんわりとそう感じた。

話は脱線するが、先週末上野の国立西洋美術館へ足を運んだ。気になっていた展示を見たいという理由もあったが、美術館の静寂な空間に身を浸したいという想いがあった。

自分はアートに明るい人間ではないので、見たからといってどんな意味なのかすべてを汲み取れるわけではないが、こんな背景があるのか、この色合いが綺麗ということを考えながら、自分の間合いで進んでいく約2時間はとても楽しい。

美術館を出て、上野公園に出るころには夕方に差し掛かっていた。

思えば今年に入ってからずっとどこかしら体調が悪くて、休日外に出るのが億劫だった。とはいえ自宅にいても、スマホを眺めれば大量に情報が入ってきてげんなりしてしまい、ますます病んでしまいそうだった。

久しぶりに外へ出てひとりで美術館を訪れ、触れた静寂な場所。

静かな空間に身を置いたからこそかもしれないが、自分のなかで蟠っていた感情がすとんと落ち着いた。

文章を書きたい、そんなシンプルな想いをひさびさに感じたのであった。

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