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誰もがみんなサンタクロースになれる


子供の頃に一度だけ、玄関の扉からサンタクロースが入ってきた事がある。
ご丁寧に、きちんとインターホンを鳴らした上で。


思えばおよそ数日前、駅前の玩具屋になんとなく連れて行かれ、まんまと武者ガ○ダムのプラモデルを指さして、これが欲しい、とせがんだところで、父にあしらわれていた。

そして、来たるクリスマス当日、早めの夕飯を食べ終えた頃、玄関でチャイムが鳴ると、顔を見合わせた両親は、僕と姉に扉を開けるように促した。

姉と声を合わせてせーので扉を開けると、
赤い衣装に身を包み、顔いっぱいの白い髭に覆われた、
大きな大きなサンタクロースが現れた。
そして「メリークリスマス(カタカナ)」と言って、
僕と姉は綺麗にラッピングされたプレゼントを受け取り、いい子にしてるんだよと姉は頭を撫でられ(もちろん日本語)、
颯爽とトナカイの引くソリではなく白いハイエースに乗り込み帰って行った。

それ以降、我が家にサンタクロースが来た事はない。
当時から僕がものすごく薄味のリアクションをして、両親がその手応えのなさに戦意を喪失したのかも知れないし、玩具屋さんのそういったプラン、特別料金みたいなものが、少なくとも僕の住む地域の需要と供給とマッチしなかったのかもしれない。
ただ、僕の遠い日の記憶の中で、サンタクロースが一度うちに来た事がある、という事実は、確かな記憶としてハッキリと刻まれていて、玄関のその扉が空いたその瞬間から、帰り道の車のテールライトと発進音まで、
僕は今でも鮮明に思い出す事が出来る。


大学を卒業し、今の事務所に拾われ、
無事、仕事としてミュージシャンという職業にありつく事が出来た僕だが、
内心、どこか、ずっと後ろめたい気持ちを抱えていた。

高校から大学生活にかけておおよそ7年間、
両親に音楽活動、及び、音楽の仕事に就く事を反対され続けていた僕は、
次第に”説得をする”という方針から、
黙って”結果を出す”という方向へ大きく舵を切る。

対岸の両親サイドから見て、
高いお金を払って大学に行かせて四年間学業に励んでいると思っていた息子が、
勉強も、ゼミも、就職活動も、ほぼ適当にやり過ごし、
それをひた隠しながら、影でこそこそバイトに、スタジオでの製作に、ライブに明け暮れていたこと。そして、4年後にすみませんやっぱりミュージシャンになります!と、来たもんだ。
しばらく口もろくに聞いてもらえなかったし、
そんな居心地の悪さに、自然と僕も実家に寄り付かなくなっていた。

ただ、感謝はしていた。
実際に家を出て、働き、家賃を払って、税金を納めて、改めてお金を稼ぐことの大変さを知って、
いかに自分が甘ったれかを思い知ったし、
同時にいかに自分が甘やかされていたのかも思い知るまでは、そう遠くなかった。

数年経ってようやくバンドがある程度軌道に乗って、
少しだけ余裕が出来るようになると、
年に一度、それぞれの誕生日にだけは、
何かしら誕生日プレゼントを贈るようになっていた。
それはきっと本来的なお祝いの意味よりも、贖罪の意識が強かったと思う。
やれちょっと色が派手だの、サイズが合わないだの、散々文句は言われつつも、
なんだかんだ近年要領を得て、あまり外さなくなってきた(僕がそう思ってるだけかもしれない)。
今年は友人のやっているブランドのニットが目に留まったのでそれを母と姉に送った。その友人は照れくさがる(正確には面倒くさがる)僕に、せっかくだからとわざわざバースデーカードを押し付けてきたのを、僕は渋々受け取り、店先でペンを走らせ忍ばせた。
姉が紺で、母がベージュかなと思って2着送ったのだが、
この前、実家に帰ったら母が紺を着ていた(結果オーライ?)。
父には少し前にゴルフウェアを送ったが、どうやらウエストが合わなかったらしくサイズの交換まで請け負って再度送り直し、二度手間も厭わないのである(あまり外さなくなってきたとは?)。
ただ、嬉しそうに身につけてくれているのを目の当たりにすると、
なんだかこちらまで嬉しい気分になるから不思議だ。

薄々勘付いてはいたが、
これはきっと、相手のため、というよりも、
むしろ自分の、自己満足のための行為なんだということに、
近年はより自覚的になっている。

幸せ、
というぼんやりとしたものの正体を突き止めるときに、
もしもその仕組みをこの目に見えるようにしたら、
ひとつ、プレゼントのような形をしているのかもしれないな、と思った。

贈る→受け取る→喜ばれる
それが目に見えるものでも、見えないものでも、
ささやかな仕草でも、大胆な行動でも、
大切なものを、出来るだけ素敵な方法や手段を考えて、大切な人へ。

以上の流れがうまく成立したときに、
幸福感は生まれる、のだと思う。きっと。
そして、それは一見、受け取る側の人だけが幸福感を満たされるように見えるけれど、実は贈る側も、それと同程度が反射して、味わえるように出来ている(ような気がしてならない)のである。


2020年、今年のクリスマスのそれはかなりシビアだ。ギスギスとした空気感の中で、そもそも人は多く集まらない方がいいし、
そうでなくても、見ず知らずの赤い衣装の外タレ白髭が世界中を駆け巡るなんて、
とんでもリスキーな話、今年だったらどうしたって流行らないのである。
(ミュージシャンとしてもクリスマス近辺にツアーを盛大に行いたいところだけれど、今年は最小限、クリスマスイブの配信ライブをメインにさせてもらう次第。)
でも、せめて、暗い話題が多かった今年だけれど、クリスマスの夜くらい、聖なる夜くらい、みんなが穏やかに、笑って、楽しく過ごして欲しい。
1000%の純度で、そう願っている。

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そうだ、誰もがみんな、サンタクロースになればいい。



いや、聞こえ方によっては、
「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない。」
に近い、筋違い甚だしい、危うい響きだ。
完全に野暮だけれど、もう少しだけ文章を補足する。

サンタクロースも自宅に閉じこもって自粛の可能性が高い2020冬。その代わりにと言ってはなんだけれど、誰もがみんな、誰かのサンタクロースになれやしないだろうか。あなたの手の届くところにいる、あなたの大切な人を、大切なものを、大切に。そして、ウイルスなんかでなくて、優しい気持ちや、柔らかい気持ちの方がほんの少しずつでも、広がっていきやしないだろうか。

といった具合である。
お金なんかかけなくてもいい、って言うのはどうしたって綺麗事になってしまうけれど。
もしかしたらそれが誰かの一生の記憶に残るかもしれないし、
巡り巡って、あなたの家の玄関にもサンタクロースがやってくるかもしれないし。
ほんの少しでいい、気持ちの話。
今年は、特に。勿論、もしもあなたに余力があれば、の話。



誰もがみんなサンタクロース、なんて絵空事、気づけばそれを描く事が音楽を作るまた新しい動機になっていたりもする。

いつかこんな日々が笑い話になるといいね、
ではなく、
いつかこんな日々を笑い話に変えていくための、
ガソリンのような、エネルギーのような、
そんなものがあなたの心に届き、
暖く、燃ゆることを願って。


BIGMAMA    金井政人

褒められても、貶されても、どのみち良く伸びるタイプです。