見出し画像

テート美術館展" ターナー、印象派から現代へ"


カプーア「イシーの光」

 宗教画ーたくさんの絵画ーが並ぶRoom1のなかに唯一、カプーアの「イシーの光」があった。とても大きな立体作品だ。
 つまり部屋それ自体が空間主義的だった。一連の絵画は用紙の上ででの光の表現をひと通りたたえて、一方カプーアのそれは、U字の立体が置かれて、Uの内側に光ができている(その光が作品の本体なのだろう)。光というものの次元(まさに空間概念)がズレて混ざる場。

 Room間のみならず、ときにRoom内でも絵画と現代が混ざるキュレーション。イシーの光の存在が、さながらフォンタナのアテッサだった。Roomを切り裂いて期待をくれる。次の部屋へ。

ゲルハルト・リヒター!!!!!!

 ”現代”まで歩いてRoom5。リヒターとライリー!しかも、アブストラクト・ペインティング(246)!。死ぬまでに観たいと願っていたそれだった。目に入った瞬間、知らない心になった。修辞的に言おうとしてるわけではなく、この具体性!。静謐でもなく混沌ともしていない。具体的な何かが奥にある、アブストラクト・ペインティング。リヒターのペインティング、具体と抽象が複雑かつ綺麗に相克してて、なんて最高なんだろう。

できるだけ光の方へ

 より現代へ向かう。Room6。そこでもバケットリストに線を引けた。ブルース・ナウマン!ひどく美しい。「鏡と白色光の廊下」。生活から遊離した廊下とそれを照らす白色光が、あらゆる社会化を華麗にかわしながら存在する。誰も歩けない。ホワイトキューブのなかにある。大勢の人が一瞬除いて去る。それだけの廊下。
 そして最後。ジェームズ・タレル"の、"レイマー、ブルー"。今回の特別展のフィナーレであり、象徴であり、大団円だった。みるということの恣意性を鑑賞者にソフトに、でも明確に伝える。そして鑑賞者になりえなくなる。ジャッジメントする側というデフォルトマンでいる立場を失う。
 恣意的にみない必要があるし、光をみる必要があるんだ。

この記事が参加している募集

#新生活をたのしく

47,868件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?