父の帰宅 20
そんな感じではあったが心の隅の方で今はしんどいけどこれはこれからよくなるための修練のような時間であって努力していれば大丈夫だと考えられるポジティブな面もあった。しかし高校三年のときその少しのポジティブな面も失ってしまった。
高校で付き合っていた女の子に振られ、一〇年間続けた野球が最悪の終わり方をして、極めつけはそれなりに勉強した受験もことごとく失敗。頑張っても無駄かもしれないと思うようになった。
それでも大学時代は夜働いて朝そのまま学校へ行き、英語の勉強も続けて客観的に考えると頑張っていたと思うがまったく楽しくなかった。常に強い自己嫌悪と虚無感があった。
中学くらいから手首を切るイメージを持つようになった。強いうつ状態になったときに死ねば楽になれるから、いつでも死ねるから少し頑張れた気がする。実際にリストカットをしたことはない。
何をやってもある程度他人よりできたので、すべての分野で人に遅れをとる自分が許せなかった。大学に入ってから読み始めた村上龍の影響が大きい。僕の目にはすべての分野で強者に映っていた。村上龍と現状の自分の距離にいつも苦しんでいた。パニックになってから読むのを止めた。
殴り書きされたレジュメだった。
喧嘩が絶えなかった、布団に包まって耳を塞いでいた、小五のときに父が出て行く、中学くらいから手首を切るイメージを持つようになった、これらの部分に橋本先生が引いたと思われる鉛筆の下線があった。
「調子はどうですか」
「なんか、あんまりここに来たくなかったです」
「なぜですか」
「先生にここが君のトラウマだと指摘されるのが怖いからだと思います」
「どうして怖いのですか」
「自分がPTSDだと認めたくないんだと思います」
「病名を気にする必要はないですよ、例えば虫歯ができたら歯医者に行くでしょ。心を骨折したと考えてください、心に傷を受けたならそれなりの治療が必要なだけです。でもこのレジュメを読ませてもらって、先月の湯浅さんの話を聞かせてもらっているとそうとう複雑な家庭環境で育っていますね」
「はい」
「このレジュメを書いているときはどんな気分でしたか」
「かなり動揺して書いていたと思います」
「そうですね、辛いことを書かれていますね。今現在子どものときのこの布団に包まっている自分を思い浮かべて一〇の内どのくらい辛いですか」
「……二か三くらいです」
「そうですか。僕もね、長いことこういった環境で育った人たちを診てきています。それでこれだけの環境で育った人が二、三ということはないと思います。恐らく湯浅さんは心に傷を受けていると思います。僕の想像は外れていないと思いますよ」
「やはり心理カウンセリングを受けるべきですかね」
「そうですね」
「分かりました」
「お大事に」
***
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