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総房三州鎮静方 信太歌之助という男

(本稿は、インスタグラムで2023年4月24日から4月27日に掲載したものを取りまとめ、再掲載したものです。)

1.信太歌之助という男

信太歌之助を知ったのは山岡鉄舟について調べていた頃だった。

ネットに掲載されていたブログに、『剣のこころ- 勝海舟と直心影』の一部が引用されていたのだ。この本の著者は、直心影流の十八代並木靖。
現在は国会図書館の電子サイトで閲覧が可能だ。

『剣のこころ- 勝海舟と直心影流』 並木靖 すずらん書房 昭和54年

引用されていたのは以下の話だ。

直心影流十六代川島堯は、台湾で晩年の信太歌之助に師事していた。

ある日、川島は、

「柳生流に伝わる手刀とはどういう剣ですか」と質問した。

信太師は説明を始めたが、途中で思い直し、「いや実地に示そう。小刀と紙を用意して下さい」と頼んだ。

川島は美濃紙を用意し、秘蔵の備前長義の短刀を差出した。老師はその紙で直径二寸くらいの円筒を作り、端を糊で止めて机の上に立て、長義の短刀で斜めに切り落した。ただそれだけのことで、如何にも簡単なことのように思われた。

川島は早速自室に戻り、同じ美濃紙で円筒を作り、同じ短刀を用いて切ろうとしたが、どうしても切れない。切る速度が早ければ紙筒が潰れ、遅ければ倒れてしまう。

川島も、後に直心影流宗家を継ぐ。しかし、その川島からみても、段違いの腕前を信太は持っていたことになる。

これに続いて以下のような記述がある。

「余も以前、幕末から維新の頃、止むを得ないこととはいいながら、度々殺人刀を振い同じ日本人を切った。その為、技術上の上手にはなったが、真の名人にはなれないで一生を終わるだろう。これに反し、義兄弟の山岡鉄舟は、あの動乱の時代に一度も刀を抜くことなく、名人として生涯を送った。」

この信太歌之助という人物とは、一体、何者なのだろう。

海舟日記を仔細に読み込んでいくと、慶応四年の、まさに幕末が佳境を迎える時期に、信太歌之助の名前が頻出するようになることに気が付いた。

そして、信太は七月、新政府に捕縛され、翌年の二月まで伝馬町牢獄に収監される。

しかし、この男の具体的な活動については、なおも不明であった。

いったい、信太は勝海舟の命を受け、何をしていたのか。そして、どのような嫌疑で伝馬町に入っていたのか。

昨年出版された『江戸無血開城の史料学』に信太についての言及がある。また、先行研究があるということで、ようやく、信太の史学上の事績にたどり着いた。

以下、信太についての参考文献だ。 

『江戸無血開城の史料学』 岩下哲典 吉川弘文館 2022年

『幕末維新期の政治社会構造』 高橋実 岩田書院 1995年

『戊辰内乱期の社会 佐幕と勤王のあいだ』 宮間純一 思文閣出版 2015年

2.信太歌之助の史実

慶応四年二月末、信太歌之助は総房三州鎮静方を命じられた。

海舟日記には、二月二十八日付けで、「信太、手附被仰付」とある。

同役の阿部邦之助は、上総に三千石を知行する旗本で、慶応三年十二月には目付に任じられていた。

慶応三年二月には、目付を解任されたが、その間、旧幕府を中心とする公議所の設立に尽力していたという。

一方の信太は、史談会速記録を引用して、以下のように説明されている。

「信太歌之助は下総国海上郡高神村で寺子屋を経営していた青柳彦右衛門の第五子として生まれ、のち同郡荒野村(現在、銚子市)の剣術道場主信太鉄之助(鉄州)の養子となった。その後、江戸にのぼり、徳川慶喜の護衛の任にあたった、といわれている(『銚子市史』)。江戸開城前後の頃は、勝海舟のもとでその処置の任にあたっており、勝の「江戸焦土作戦」でも重要な役割を担っていた(史談会速記録」第二三七輯)。」

青柳は幕臣であったと書かれている資料も複数ある。
「剣のこころ」には、二十四歳で講武所教授に取り立てられ、榊原健吉らと「講武所の三吉」ともたたえられたと記されている。

以下の触書にあるとおり、彼らの任務は、治安と民生の維持・安定に有り、各所に仮役所を設け、農兵を取り立てて、治安維持にあたっていたようだ。

「触書 此度房総鎮静方御委任仰付候御趣意は、近来悪党共在々所々徘徊いたし、人民難儀ニ候趣相聞へ、依而は右等之徒有之候ハバ、早々可申出、速ニ鎮静安心二家業相成候様致し可遺候間、右之条々村々小前末々迄不漏様可申聞候 慶応四年辰年三月 総房三州鎮静方信太歌之助」

具体的な治安維持活動については、

「信太歌之助の廻村は、「総房三カ国鎮撫方御用被仰付候趣ニテ、当時六七十人之人数相集、折々人馬継立往来仕候」といわいることから、かなりの手勢をつれて幅広い取締活動にあたっていたことが知られる。」とされている。

一方、新政府は、江戸開城(慶応四年四月十一日)後、關東諸藩や代官に対し領域の取締を命じた。また、旧幕府の脱走兵が大挙侵入した房総地域には、武力の直接行使により制圧を開始した。また、五月三日、肥前藩主に下総下野両州鎮撫取締を命じ、古賀宿に下総鎮守府を設置した。

五月二日には、江戸の彰義隊も江戸市中取締の任を解除されている。新政府は、旧幕府の機構を通じた間接統治から直接的な支配に移行しつつあった。

このような状況で阿部邦之助が鎮撫方としての活動を縮小するなか、信太歌之助は鎮撫方としての活動を継続していた。

その結果、「諸藩は信太らが武装した多人数を陣立てで連れ歩くことを忌避するところ」となり、「七月に入ると「総房三州鎮静方御委任ト申唱、所々徘徊取締方等イタシ居候得共、実は陰謀の有之モノニ付」ということを理由に、当地方に「聞付次第召捕相成候様之事」という旨が申渡されたのであった。」指名手配されたのだ。

そして、信太は捕縛される。

「かくて七月二〇日、信太歌之助の鎮静方役所がおかれ、活動の本拠地であった銚子荒野村の自宅が捜索され、信太歌之助ならびにその付属のものは逮捕されたのである。」

注にこの事実の出典等が書かれている。

『田中玄蕃日記』(銚子市東町・田中家文書)。このとき押収された武具類は、「甲冑具太鼓其外入長持」は二、三〇櫃にのぼり、大砲は二挺、小砲二、三十挺、槍四、五十本ほどであったと記録されている。」

以上が、史実としての信太の活動のあらましである。

3.海舟日記、史談会速記録から

勝海舟の記録と、史談会速記録の本人の証言等から信太の活動を見よう。

史談会速記録で信太は、捕縛された理由として以下のように述べている。

「そうすると総房の百姓が私の申す方のことはよく命令を聞きますが、藩の命令は一向聞かぬ。もっとも総房は小さい大名ばかりでありますが、百姓が私の言うことは聞くが、藩の命令はちっとも用いぬというところから、そのために諸藩で、信太という奴は謀反人だというような評判を立てられて、遂に小藩が六、七藩拳って大総督参謀に信太は叛逆を図ります、早く今のうちに取り押さえておかなければ大事が出来ますということに申し立てたのであります。それで、私に向って官軍をお差し向けになって召捕らるるということになった。そこで私は大総督府に出まして・・・」

やはり、房総の諸藩との軋轢が、捕縛された原因としている。

また『田中玄蕃日記』とは異なり、銚子で捕縛されたのではなく、自ら出頭したと証言している。

信太は以下の通り、海舟日記に頻繁に登場する。にもかかわらず、阿部邦之助の名は、海舟日記にはほとんど登場しない。同じ三州鎮撫方でも、両者には微妙にミッションの違いがあったのではないか。

海舟日記より信太の記事

二月二十八日 信太、手附被仰付

三月三日 信太江弐壱百両併大砲・小筒・長沓等拝借相済

三月二十日 信太より藤代昌使として来る

閏四月七日 信太歌之助必死を極メ上様江拝謁相願書付差出候ニ付、説諭可致旨申越ス

閏四月十二日 信太歌之助使成川禎二郎来る

閏四月二十四日 信太歌之助使成川禎二郎来ル、百両遣す

閏四月二十八日 信太使伊志田浜次郎来る

五月一日 石志田浜次郎江、撤兵借用之金七十五両返ス

五月二十四日 信太使成川来る  (この日、徳川家処分発表)

六月一日 信太歌之助来訪

六月二日 信太生之事、海江田江談し遣す

六月十二日 田安殿より、信太歌之助明日西城江可差出旨、督府方より達有之趣申越ス

六月二十一日 信太来訪、阿部江 督府に田安殿より同人事御申立られ有之御書付、速ニ御廻周旋頼遣ス

七月二日 信太歌之助(名前の記載のみ)

七月十三日 信生 官軍二而御不審之筋有之、御召捕二も可成哉之風聞と云

勝海舟の回想録の一つ『解難録』 日本の名著 勝海舟 江藤淳編 昭和53年

この記録には、勝海舟が官軍と交渉するにあたり、焦土作戦を準備したことが書かれている。そして、それが発動された際の避難民対策として以下の記述がある。

「また信田歌之助、成川禎三郎、伊志田某に令して密かに約を定め房総に屯せしめ、府下もし大火発せば、その海岸所在の大小船を以て、速やかに江戸に入れ、江戸川々の小船ことごとく出して人を乗せ、便宜に走らしめよ、と。」

江戸開城までの間、信太は焦土作戦の支援を行っていたようである。

すなわち、信太は慶応四年三月は焦土作戦の手伝いを行い、四月以降、房総の廻村活動を本格的に実施していたようだ。

同じころ、撤兵隊が房州に侵入。

そして、閏四月、撤兵隊は官軍と戦闘を行い壊滅。新政府は房総の直接支配を進めることになる。

このころから、信太は勝に頻繁に使者を送っている。

江戸で彰義隊が討滅され、徳川の領地が静岡七十万国と決まったあとの、六月一日、信太は勝邸にあらわれる。翌日、勝は薩摩の海江田に信太についてなにやら依頼している。

そして、六月十六日、信太の引き渡しが新政府から要請される。

これらの動きを踏まえると、撤兵隊の壊滅以降、勝と信太でなんらかの企てがあったのではないかと推察される。

前回、引用した信太の手配書に「実は陰謀の有之モノニ付」と書かれていたように。

4.本朝侠客伝~講談の信太歌之助

『本朝侠客伝』 酔多道士編 明治十七年 国会図書館

本朝侠客伝。この本は正直、史料とは言えないかもしれない。信太歌之助は幡随院長兵衛らと並んで、侠客として一章をあてがわれている。講談本に近い書物だ。

しかし、発刊は明治十七年。幕末からそれほど経っていない時期に執筆されている。

当然、信太は存命中だ。

幕末の信太について、やや詳細に記載がある。

「手勢三千人、大砲四門、小銃千五百挺其他兵具を松平太郎より受取り」「上総国武射郡飯櫃村を本営と為し」と、農兵のみならず、歩兵奉行並の松平から手勢や武器を受領している。

これには、一定の裏付けもある。海舟日記では、鎮撫方発令直後の、三月三日、「信太江弐壱百両併大砲・小筒・長沓等拝借相済」とある。横に「たたみ具足」とあり、和装の具足も持ち出していたようだ。

『江戸無血開城の史料学』には、「陸軍奉行並松平太郎は、表では脱走軍の鎮撫を行いつつ、陰ではそれを支援し、やがて自らも榎本武揚の脱走艦隊に乗り組み、函館戦争に参加した人物として知られる。」とある。

『本朝侠客伝』の記述を追おう。

「名を負う脱兵の一方は散兵隊福田八郎右衛門天野加賀守其手三千人、一方は大鳥圭介佐久間弟治其手一千五百人にて説諭を容れず大戦争となりしが幸いに中山幸治が手七百人ハ説諭し得て兵器を取上げ之を引て勝安房守に致し」

福田八郎右衛門は確かに撤兵隊の長だが、天野加賀守と佐久間悌二は共に草風隊のメンバーだ。江戸脱走後、江戸川を北上し大鳥圭介の伝習隊を中心とする脱走部隊に合流。天野は会津で投降。佐久間は函館で戦死している。この隊と房総の鎮撫方との戦闘については、記録に無い。

史実として、福田の率いる撤兵隊は船橋、五井、姉ヶ崎で官軍と戦闘し、壊滅した。「大戦争となりし」はこれをさすのかもしれない。

一方、中山幸治の率いる手勢については、信太が「説諭し」たとある。中山については、記録を見つけられない。幕府軍の将校中、中山姓は、中山旗郎がいるが、高嶋秋帆の孫弟子として有名な中山旗郎は文久年間に死亡しており、その一族なのかも知れない。

中山が率いていた七百人がどの部隊に所属していたのかは分からない。房総方面に大規模に脱走した幕府の部隊は撤兵隊のみであり、その一部である可能性はある。

「次いで戸田嘉十郎の手六百八十人常陸鹿島に屯集せるを説かんと、・・・戸田は之を見て忽ち悔悟し乃ち手勢六百八十人を引率して器兵を氏(信太)に致し遂に江戸に上りて勝安房守の許に投じたり」

戸田嘉十郎は、小筒組頭並で幕府将校の一人として名前は上がっているもののどの隊に属していたのかは不明。出羽村山郡の代官を嘉永二年から五年間勤めた記録がある。鹿島と銚子は利根川をはさんで隣接しており、信太の縄張り内での出来事だったのだろうか。

戸田は一度は説諭に応じず、官軍(安場一平:肥後)の部隊と戦闘になろうとしていたところ、最後の最後で戸田は投降したようだ。官軍と脱走部隊が一触即発の際に、信太が一首の歌を戸田に送る。戸田は「忽ち悔悟し」投降するのである。まさに、講談調だ。

その後、徳川家の処分決定に従い、鎮撫方を解散する。

「主家徳川家の処分済み率土の濱まで王化普くなりしを以て鎮撫方を大総督府に委ねて手勢を解散し身は浪人となり往時を追懐して快々として居たる所ろ~不逞の徒を招集して不軌を企るを総督府に聞こえ日を移さずして官軍ハ氏の寓所本所抜弁天の邸を襲いたれば氏は偵知して之を逃れ」

信太は、本所に押し寄せた官軍数百人の前を仲間三十人と押しとおっている。その間、官軍は「敢えて手を下す者なかりし」とある。上杉謙信の敵中突破の逸話を思わせるが、ここも、講談だ。

その後、信太は仲間の三十人を榎本艦隊に引き渡し、自らは総督府の糺門所に出頭している。

史談会速記録でも、信太は自ら糺門所に出頭したと証言している。田中家文書を見ていないので、なんとも言えないが、自首であった方が信憑性があるかもしれない。

5.信太は何処へ

『本朝侠客伝』には、末尾に唐突に捕鯨事業の趣意書が記載されている。

この本が出版された明治十七年の前年、信太は自らの生前葬を行っていた。自ら企画した捕鯨事業の資金を賄うため、生前葬を行い香典を集めたという。
しかしながら、後日、事業は最終的に失敗し、保証人の山岡鉄舟は破産。最終的に、勝海舟が徳川慶喜の資金を借り、負債が整理されたという。(『剣のこころ- 勝海舟と直心影流』 )

これを踏まえると、信太自らが、捕鯨事業の資金調達のため、この本の出版にかかわっていたことが想像される。

とすると、記述されている内容は、それなりに幕末当時の信太の事績が反映されていたのではないか。信太の口述に加え、当時の読者や他の章との平仄のため、講談調の脚色がなされ、出来上がった文章なのではないだろうか。そのように想像される。

もちろん、明治十七年にいたってもなお秘すべきことは隠蔽されていたのであろう。

そのうえで、注目したいのは、本書で信太が鎮撫したとされる部隊、中山も戸田も投降した先は官軍ではなく、信太や勝安房守とされていることである。

その際、兵器を取上げているのも信太であり、官軍では無い。

投降部隊の兵や武器をまさに信太が接収していることが推察されないだろうか。

信太は数百人の旧幕府軍の兵器と兵隊を接収していたことになる。

当時、江戸は開城されたが、徳川の処分は決まっていなかった。

どこで、何石の領地を得られるのか、それは新政府の決断に委ねられていた。

閏四月二十八日、勝は徳川に旧領地四百石すべてを残せと申し入れ。そうすれば、他藩に先駆け、相応の石高を新政府に差し出すと。

すなわち、新政府の直轄地は、他藩も含めたすべての大名の石高の一部の献上を受けて組成すべきであると主張したのだ。

閏四月のはじめには、勝は新政府に徳川慶喜を江戸に呼び戻せとも進言している。関東の治安回復には徳川慶喜が必要なのだと。

この背景には、関東各地に脱走部隊が展開していたことがある。

脱走した幕府陸軍。江戸湾の榎本艦隊。江戸の彰義隊。

奥州も列藩同盟が成立し、新政府への反旗を鮮明にしつつある。

官軍は少ない兵力を関東各地に分散させている。

このような、均衡状況を維持していたことが、徳川慶喜復権の鍵になることを勝は洞察していた。

均衡状態のなか、徳川慶喜が江戸に帰還し、その威光により脱走部隊を恭順させる。

そして、徳川は自らの領地の一部を他藩に先立って新政府に献上する。

その功により、慶喜は新政府の閣僚に就任する。

もしそうなれば、大政奉還直後の状況に巻き返すことができる。

これが、勝の描いた大きな絵だった。

そのために、鎮撫方を使って、官軍と極力真っ向勝負しないように制御していた。

しかし、閏四月の頭には、撤兵隊が官軍と戦闘し破れてしまった。

勝はこう書いている。

「撤兵船橋・木更津之軽挙瓦解あり」

江戸では彰義隊が上野に屯集している。勝は、日光に退去させようとしていたが、彰義隊は納得しない。このままでは、撤兵隊のように各個撃破されてしまう。

何とか、徳川慶喜の威光による関東鎮定に持ち込みたい。そのためには、脱走部隊と官軍が対峙しつづける状況を維持する必要があった。

信太はそのような勝の策の一翼をになっていたのではないだろうか。

すなわち、撤兵隊の投降部隊の一部を保持し、江戸をうかがう勢いをみせていたのではないか。

この動きは、まさに官軍側に知られることで意味を持つ。

勝がひそかに、信太の部隊が江戸をうかがっていることを官軍に知らせていたのではないか。

信太の手配書にかかれていた「実は陰謀の有之モノニ付」。

それは、まさにこのような、いわば謀略であったのかもしれない。

これが私の仮説だ。

この仮説をもとに、『江戸の天誅組 二つの戦い/恭順と抗戦』 を書いた。

結局のところ、勝の策は敗れ、信太は投降した。

そして、信太は、明治を生き、大正になってから台湾で客死する。

剣客としての信太の逸話を、最後に紹介しよう。

青柳熊吉先生(後の信太歌之助)は北海道にて六尺豊かな大熊に突然出遭った。熊は立ち上がって物凄い気勢で襲いかかろうとした。青柳先生は友人に会ったように手を挙げて「オーイ」と声をかけた。熊はおとなしく自分の傍に来た。ひょいと熊にまたがり、馬の様に乗り廻て山中を突破して人里近くに来てから厚く礼を述べて熊と別れた。(鹿島神傳 直心影流 百練会HPより)

(総房三州鎮静方 信太歌之助という男 完)

『江戸の天誅組 二つの戦い/抗戦と恭順』は、『江戸の天誅組』に収録しています。


私のインスタグラムでも、読めます(2022年11月19日から連載)


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