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あなたはオンナでありすぎたわ

私はこれまでにもガンダムのTV版と劇場版を対比し、その描き方の違いから「富野監督がどういう演出意図をもって描き方を改変してきたか」を何度か文章にしてきました。
今回もその1つとして『機動戦士Zガンダム』のTV版と劇場版におけるエマ・シーンの描き方の違いに着目して論じてみたいと思います。

しかしながら『機動戦士Zガンダム』でのエマ・シーンとレコア・ロンドの対比を見るたびに私は「富野監督の女性観察の視線と描き方はスゲェなあ」といつも感心してしまうんですよね(相変わらずの監督礼賛からスタートしています)。

元々所属していた陣営から別陣営に鞍替えし、結局は双方相打ちに近い形で最期を迎える2人ですが、その信念や生き方は「『女性』である」ということの表裏一体として対比されています。

2人の生き方についてはこれまでにも様々な場所で語られていると思うので今回はあまり深堀りしませんが、ともかくもここまで生々しく「『女性』である」ことを抉るように描けるのはさすが監督、スゲェぜと唸ってしまうのです。

しかし今回注目するのはエマ・シーンのみ。彼女がTV版、そして劇場版でどう描き方が変えられたのか、を見ていきたいと思います。

『劇場版』で印象に残ったケーキのシーン

『劇場版』で印象に残った新作カットといえば、やはりケーキを食べるシーンでしょう。
『Ⅲ』でアーガマのメンバーが集まってケーキを食べているシーンで、ヘンケンがスプーンをくわえたまま喋っていたらエマに叱られて(笑)、さらにもう1つのケーキに手を伸ばそうとして「それ、私のですよ」と言われてしまうシーンです。

思わずフフッとしてしまうシーン

『Ⅲ』はアクシズが登場し全編ほぼ戦闘シーンで殺伐としたムードになっているのですが、その中でほのぼのとした雰囲気を生み出しているこの新作カットはそれだけでとても印象的です。

この場面の中でエマはずっとパソコンに向かって仕事をしています。それに対してヘンケンやブライトが先にケーキを食べていて、そこにクワトロが入って来る。忙しく仕事をしているエマに対してヘンケンはカツのことやハマーンのことなどを話しています。いうなれば大局、天下国家のことばかり話している男たちを後目に、エマは目の前にある実務的な仕事をこなしている、という姿が描かれています。

そういったシチュエーションの中で、ケーキやスプーンのような日常の仕草で叱られてしまうところにギャップがあって面白い場面なんですけどね。

注目したいのは、TV版『Z』 から変化したエマの描かれ方

ここで私が注目したのは、TV版『Z』 から変化したエマの描かれ方です。
TV版『Z』で初登場した時のエマは、ジェリドやカクリコンと並ぶティターンズのパイロットでした。黒のベレー帽を被り、絵としても眉間や目元を厳しくさせる描かれた方をしています。それがエゥーゴ側に寝返って後、徐々に穏やかな表情を見せるようになり、その中でヘンケンとの淡い恋愛模様(というかヘンケンの一方通行)が描かれます。

プレゼントを受け取って困惑したり、「結婚、考えていませんから」とヘンケンのセクハラスレスレの発言に応えたりしているエマは、視聴者に「恋愛に対して拒否感」「潔癖症」を持っている印象を与えます。それが恋愛(というか異性との関係)が判断の根底にあるレコアとの対比を生み出している。

なにもブライトに相談しなくても

確かにエマは軍人家庭で育ったという出自があり、またティターンズの若き女性士官として男性社会の中で生きてきた経緯があります。それで、いうなれば恋愛に対して奥手なキャラというイメージが形成されるのですが、しかしそれだけだと『劇場版』でのヘンケンに対する接し方に疑問を感じるのです。

Wikipediaにおけるエマ・シーンのページでは「人物描写がやや異なり、母性的で包容力のある大人の女性としての面が強調された」「奥手で恋愛は苦手という傾向も若干緩和された」と書かれているのですが、ではなぜそういう描写に変化したのでしょうか?

男性の視線に動じない女性になったエマ

改めて『劇場版』を見直した際に気になるのが、ラーディッシュのブリッジでノーマルスーツの胸元をはだけているエマに思わず目が行くヘンケンと、その視線に気づきながらも動じないエマの場面です。

絶対この視線を分かっている

「恋愛に対して拒否感」がを持っている女性を描きたいのであれば、こういった男性からの視線を不快と感じるそぶりを描くのが演出としては分かり易いでしょう。しかし富野監督は安易にそうはしなかった。

なぜならここで描きたかったエマ像は、「恋愛に対して拒否感」ではなく「男性の視線を自分が集めることを意識している」女性としてのエマだったからです。

小説版Zガンダムで富野監督は、エマは「普通の恋愛に憧れていた」と書いています。初期設定の段階では潔癖で恋愛下手、男性からのアプローチに上手く応えられない女性として描かれていたエマでしたが、劇場版としてリライトされた際には改めて24歳の、自立して男性社会で生きている女性としてのリアルな姿が付与されている。それは「母性的」というよりも、「自分が男性の視線を集める魅力を持っていること」を自覚している成熟した女性、ということではないでしょうか。

自分が周りの目を集める魅力を持っていることを自覚しているオトナの女性

あまりジェンダー論的に語りたくはないのですが、男性より女性のほうが自分の容姿や存在が他者、特に男性に対して影響力を持っていることは自覚していると思います。言い方を替えれば「私が微笑みかけたら男なんてイチコロよ」的な(言い方が古いなあ)。

これは微笑みではなく真珠の涙

エマは中尉として任官しているのですから士官学校卒業。であれば10代から軍人として男性社会の中で育ってきたことが窺えます。ティターンズや連邦軍にもそこそこ女性軍人の姿が見えますが、それでも男性と比べたら少ない。ですから周りはほとんどオトコばかり、という世界でティーンエイジャーの時期を過ごしてきたことが想像されます。

その中で多かれ少なかれ異性から好意を抱かれたこともあるでしょうし、エマ自身も恋愛感情を抱いた経験はあるでしょう(多分)。その経験の中で、自分の存在が異性に対して魅力的だ、と感じることもあったはずです。24歳というエマの年齢はそれを自覚するに充分だと思います。

余談ですが、例えば写真を撮る時。女性って写真を撮られた時に自分が一番可愛く見える顔を把握しているんですよね。ムスッとした顔しかできない男性との大きな違いだと思います。

てへぺろしてみたり。けどこういう顔は職場の人の見てないところでする

魅力を自覚しながら、同時にそれを覆い隠すテクニックも持つこと

しかし同時にその自身の魅力に対する嫌悪感・不快感を持つこともある。
女性が男性社会で生きる時、男性が想像する以上に「贔屓」「やっかみ」「妬み」といった負の人間関係が付きまといます。その負の感情の根底の多くを占めるのが「異性に対して魅力的な容姿」に対するもの。軍人として育ってきたエマは、そういった他者からの負の感情の対象にされないように、なおさら意識して自分の「魅力」を拒否してきたのではないでしょうか。

しかしヘンケンやラーディッシュのクルーの中ではやはり自然に周囲の視線を集めてしまう。そして、それを「しょうがないこと」として受け入れている姿が劇場版では強調して描かれるようになった、と思えるのです。

エマがちょっと嫌なオンナに感じられてきた

……っと、ここまで書いてきたら、エマがちょっと嫌なオンナに感じられてきました(笑)
「私がチョット笑ったらヘンケン艦長も他の皆も私をちやほやしてくれるし。ホント、私って罪なオンナね」くらいのことは思っているのかもしれません(妄想です)。

TV版ですが、ブライトに対して「カミーユは本能的に私を好きですから」と言っていて、周囲の特に女性からは嫌なオンナと受け取られかねないキャラではあります。それがレコアとの対立を鮮明にしていると思います。

男性に対して本能的に嫌悪感を抱きながらも依存してしまうレコアと、男性に対して自分が魅力的であることを理解しているエマ
それがラスト、2人の死闘になった時のこのセリフに表わされている。

「レコアさん!あなたはオンナでありすぎたわ」
「そうよ、私は女よ!だからここにいる!あなたの敵になった!」

そしてエマに撃たれたレコアは最期にこう言い残すのです。

「エマ中尉、分かってよ。男たちは戦いばかりで、女を道具に使うことしか思いつかない。もしくは女を辱めることしか知らないよ」

監督の一筋縄ではいかない人物描写がキャラを生々しくする

……監督の一筋縄ではいかない人物描写。『イデオン』や『ダンバイン』を経て培われてきたこれら重層的な女性の描写が、何十年経っても色あせないキャラクターを生み出している。

富野監督は常々「キャラクターをステレオタイプに描かない」と言われます。現実社会を生きる人間として、どういう経験を持っていてどういう行動をとるのかを丹念に描くことでそのキャラクターが生き生きと(というか生々しく)描かれる。それによって視聴する者の心にドラマが深く刺さってくる。

改めて富野演出の「リアル」とは人物の機微、人の描写にあるとつくづく感じるのです。


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