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仮面ライダーBLACK SUNからみる「舞台装置としての世界観」

今秋にAmazonPrimeVideoで公開されて話題になった『仮面ライダーBLACK SUN』
私も早速観ました。いやあ、面白かった(笑)。

ところで私は以前「80年代は特撮冬の時代」と論じたことがあります。それは60年代以降続いてきた日本特撮ヒーローの二大巨頭『ウルトラマン』『仮面ライダー』が80年代には全く作られず、戦隊ヒーローとメタルヒーロー路線に移ったことを指してこう表現しました。

そのことについて書くと長くなりそうなので今回は割愛しますが、その80年代に一際輝いていたのが87年~88年に放送された『仮面ライダーBLACK』でした。

原作者石ノ森章太郎さんが「原点回帰」を目指した『BLACK』には、当時8歳だった自分もワクワクしながら観ていた覚えがあります。

その『BLACK』が四半世紀近い時を経てリブートされたので私も楽しみにしていたのですが、公開直後から賛否両論を交え非常にバズった。

『BLACK SUN』展も見に行っちゃいました

 『BLACK SUN』のストーリーで特に注目されたのが物語当初からこれでもかと強調された怪人対人間の「差別問題」
ネトウヨ、在日、LGBTなど「差別」「レイシズム」が喧しく叫ばれる世相を反映しているような『BLACK SUN』の世界観は、ある種のリアリティを持って視聴者に受け止められたと思います。

しかしながら、その物語の結末に対しては数多くの異論が起こりました
 (ここからはネタバレになります。未視聴の方は注意してください)


「暴力をふるうことでしか差別に抗うことはできないのか」

冒頭、国連で怪人差別反対の演説をした少女であり、物語のヒロインでもある和泉葵は作中で怪人差別支持者の団体から攻撃され、さらに親や友人を失い、自身も怪人に改造される運命を辿ります。そしてその中でBLACKSUNこと南光太郎と出会い、ただ差別反対を訴えるだけでなく自らも戦うことを選びます。
そして物語の結末では創世王となったBLACK SUNに止めを刺し、自らは差別を受ける子供たちへ戦うことを教える者になる。

平澤宏々路さん演じる和泉葵

この結末が賛否両論を招いた。
「結局ヒロインがテロリストになる、ということはテロ・暴力を認めるということか」
差別に抵抗するために暴力を容認すること許すのか」

劇中では再三にわたって怪人差別団体が街を闊歩している姿が描かれます。挙句、葵の親友だった雀怪人の少年小松俊介はリンチにあって殺される。そこで葵の気持ちが切り替わるのが物語のターニングポイントにもなるのですが、それでもヒロインが最後には暴力を選ぶということに、視聴者は面食らったのではないでしょうか。

とまあ、書いている自分も面食らったのは事実なのですが(笑)。

しかしここで今回は「彼女がなぜ暴力を選んだのか」をもう少し掘り下げてみたいと思います。


「イイ意味で」社会派にならない白石和彌監督

 まずは演出、というか監督をされた白石和彌さんの作風です。
今では『孤狼の血』シリーズでも有名な白石監督ですが、私が彼を知ったのは『凶悪』(2013年)を映画館で観た時でした。

実際の事件を元に「先生」と呼ばれる人物が中心になった連続殺人事件を、山田孝之さんが演じるジャーナリストが追っていくこの映画は、非常にコワかった(笑)。「先生」を演じたリリー・フランキーさんも怖かったし、死刑囚のヤクザを演じたピエール瀧さんも怖かった。何が怖いって人が一番怖いのよっていうのがリアルに感じられた映画でした。

白石和彌監督

しかし白石監督のフィルモグラフィーを辿ると、確かに世の中のマイノリティ、アウトサイダーに焦点を当てているのですが、そこには「イイ意味で」社会に問題提起をするような、いわゆる「社会派」的な視点が薄いように感じられます。もう一度言いますが「イイ意味で」ですよ。

彼の映画から感じられるのは登場人物たちの多数派・支配者側・権力者側に抗う強い意志であり、それが物語を突き動かす原動力になっている。世の中の主流派ヅラしている大多数にカウンターを食らわせてやりたい、その爽快感が彼の映画にはある。
しかしそこには、観た人に疑問を投げかけ「この状態はおかしい、変えていかなければ」と思わせるようなことはなく、むしろシニカルにこの状態を見つめながら強く生きていく人々たちに対する視線がある。だからドライで「イイ意味で」重くない映画になる。

……それは彼の出自が若松孝二監督の下で育ったということに起因するからだと思います。


「面白いと思うから撮る」若松孝二監督からの影響

 「権力側からものを見ない。ものの見方ですね。市井の人から権力側に目を受ける。それは映画作りの実践というよりも、生き方の話かもしれませんが」白石和彌

彼は師匠である若松監督から受けた影響についてこう語っています。

反骨の映画人若松監督は、60年代から映画を撮り続け、そのスキャンダラスでセンセーショナルな作風で知られる人物です。
彼もまた反権力側に立った映画を撮ることが多かった。

特に有名なのが『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2008年)。この映画はその前の2002年に公開された映画『突入せよ!あさま山荘事件』へのアンチテーゼになっています。

若松監督が私財を投じて作った『実録』

若松監督は「『突入せよ!』に腹が立った、警察が正しい、というあんな映画を見たものだから、いまの若い人たちにわかるような映画を作りたかった」」「『突入せよ!』だけではあさま山荘事件を語ることはできないから、その対極、つまり反権力側だった連合赤軍側から描く必要があったから撮った」と話されています(すみません、ここはウィキペディアからの孫引きです)。

まあ、『突入せよ!』の原作者は事件当時バリバリの警察官僚だった佐々淳行さんですからね。そりゃ警察視点の映画にもなりますけど。

『実録』は若松監督が予算を工面するために自宅を抵当に入れ、さらにクライマックスシーンではセットが作れないために自分の別荘をあさま山荘に見立てて撮影し、最後には実際と同様、ぶっ壊してしまうという執念が籠った映画です(だから山荘に籠城しているシーンでは一切建物の外観が映されない)。

しかし、これだけの執念であさま山荘事件を撮り切った若松監督は、

では彼自身のイデオロギーとしても赤軍シンパだったか?というとそうではない。

若松監督は2012年には三島由紀夫を題材にした『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』を撮っています。
60年代が遥か過去の時代になった現代を生きている我々にとっては、マルクスを掲げた学生運動と三島由紀夫は対極にあるように感じられます。

三島由紀夫×東大全共闘

(実は60年安保闘争時期においては左翼運動と右翼運動はそれほど遠いモノではなくて逆に対政府という点で協調しているところもあったんだけど……ってこのへんの話になるとまだ私も調査中だし本論から離れてしまうので割愛します)

若松監督は「僕は運動を支持するために映画を作ったことはなかったし、自分の作りたい映画しか作らなかった」「僕自身が面白いと思うから撮る」と語っています。そして「僕は、『権力』というものに腹が立つ」とも。
つまり彼の映画への視線は「反権力」ではあるが、そこにある種の思想性、例えばマルキシズムや共産主義へのシンパシーから撮っていたのではないということが窺えるのです。

その想いが『BLACK SUN』を撮った白石監督にも貫かれている。

常に「反権力」の視点で映画を撮った若松孝二監督

「差別」は舞台装置でしかない

大きく遠回りをしましたが、白石監督や若松監督が「反権力」を映画に取り入れるのは、決して「テーマ」として取り上げるのではなく、あくまで「舞台装置」として取り上げているのだということを念頭に置くべきなのだと思います。

そう考えると『BLACK SUN』の結末には別の解答が浮かび上がってくる。

その前に「舞台装置」という言葉を説明したいと思います。
舞台装置とは、一般的には演劇上演のための場所を設置する空間造形のことを指します。オペラでは壮大なセットが組まれたりしますが、演劇ではテーブルが真ん中に1つ、というこのともある。それは全て舞台装置です。

しかし映像作品での舞台装置はもっと広く「世界観」とかにも絡んでくる。
例えば『機動戦士ガンダム』では「スペースコロニーで人々が生活している未来の世界で、モビルスーツと呼ばれる巨大ロボットが戦争に使われている」のが舞台装置です。その上にキャラクターが乗っていて、物語が編まれていく。

昨今流行の「異世界転生」モノではこれまでに作られてきたアリガチな剣と魔法のファンタジー世界に便乗した「舞台装置」にしている。チョットそれは安直だと思っていますが(笑)。

翻って『BLACK SUN』では「怪人が差別されている世の中」というのが舞台装置として設定されているということです。

つまり「差別」をテーマとして物語が作られているのではなく、あくまで「仮面ライダー」という特撮ヒーローが戦う世界として「怪人が差別されている世の中」が設定されているだけなのです。

だから「差別」は物語の背景、キャラクターの動機付けとしては描かれていますが、そこから「差別のない世の中を作ろう」「どうしたら差別を無くせるのか」といったテーマ性は除外されている。

それを踏まえて『BLACK SUN』の結末を見直してみると、怪人差別はやっぱり無くなっていないし、BLACK SUNの戦ったことが差別根絶にもなっていない。シャドームーンやビルゲニアも怪人差別をどうにかしたいと思って行動していますが、結局は「権力」の中に飲み込まれていってBLACK SUNに倒される。

何より、BLACK SUN自身が差別を無くすために戦っていない。それは物語の冒頭、怪人たちと怪人差別団体が路上でぶつかっている時に、それに目を逸らして立ち去っているところからも分かります。

では『仮面ライダーBLACK SUN』のテーマ、あの結末の理由とは何なのか?
「差別」を舞台装置として編み上げた物語のゴールには何があるのか?


正しくヒーローものとしての『BLACK SUN』

それは石ノ森章太郎さんが最初の『仮面ライダー』から語り続けてきた「ヒーローの悲哀」であり、「平和のために戦うヒーローが暴力を用いている矛盾」への問いかけだと思います。

ショッカーから始まる仮面ライダーの敵の組織は常に巨大であり、時に政府権力と結びついています。その巨悪と戦い続けるライダーたちは自らも改造された怪人であることに苦悩しながらたった1人、身を犠牲にして戦い続けている。そしてその戦いは「暴力」を用いたものであり、権力に抗うための暴力はテロ行為と紙一重です。

キレイゴトで語ることができないこのヒーローの暴力性と悲哀に対するアンサーとして、それまでキレイゴトを唱えてきた和泉葵が創世王となったBLACK SUNを倒し、自らが差別と闘う戦士となって次の戦士を育てる道を選ぶ。

テロを肯定するための暴力ではなく、戦い続けなければならないヒーローの想いが受け継がれた結果としての結末

そう考えると『仮面ライダーBLACK SUN』という作品は、現代的な差別問題をバックに持ってはいるものの、とどのつまり正しく「ヒーローものとしての『仮面ライダー』」をやりきった作品、なのではないでしょうか。

23年公開予定の『シン・仮面ライダー』もおそらく(プラグマティックな庵野秀明監督らしく)このあたりのテーマを押し出してくるでしょう。『シン』ではどのようなヒーロー像が描かれるのか。今から楽しみです。

「対バイオロン法第二条補則、場合によっては抹殺することも許される」って、法律を武器に敵を処刑しまくるってのは権力側にあって暴力性を肯定されたヒーローってことになるのかもしれない

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