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はじめまして、デザイナーのえむしです

私は今広告代理店で紙やWEBのデザイナーをしています。
とうとう最近三十路を超えて、デザイナーとしては6年目に突入しました。

プロフィールにあえてノンクリエイティブなんて書いてありますが、その理由はまた改めて触れることにします。

学生時代からブログが好きで暇さえあれば投稿していたんですが、大人になってすっかり億劫になっていました。
ずーっと書きたい気持ちだけあって、スマホのメモで書いては消してを繰り返していましたが、あ、自分はそうやってガチガチにやるとできなくなるタイプなんだな。と学習しました。

せっかく書くなら、自分にとってはポートフォリオに、
読んでいただいている方には自分の知識や経験をちょっとでも分かりやすく伝えて、何かを得られるような記事になるように…と思いを胸に、無理のない範囲で書いていけたらなと思います。
今回はエピソードゼロということで、自己紹介も兼ねて自分がデザイナーになるまでの道のりを書いていけたらと思います。
これを読んでいただければ、なんでノンクリエイティブとか名乗るんだろうって部分が5%くらい分かっていただけるかもしれないです。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。

北欧大好きマン、職を探す

そもそも”デザイン”ということを意識し始めたのは約12年前、ちょうど高校生の頃でした。
当時「世界弾丸トラベラー」という番組があったんですが、女優やモデルやタレントさんが、シンデレラタイマーなる"1泊"という時間制限の中、海外旅行をし、現地で必ず1つ目的を達成するという番組でして。
毎回とにかく行く国行く国どれも魅力的で、日本にはない文化だったり感性だったり憧れを抱くようになりました。

いざ大学に進学し、バイトで得たお金で海外旅行したことで、その熱がさらに高まり、暇さえあれば海外旅行か図書館で海外の建築やデザインなどの本を読み漁り、その中でも特に一時期ブームにもなった北欧にのめり込んでいきました。

当時はインテリアや空間デザインに憧れを抱いており、
アルヴァ・アアルトやアルネ・ヤコブセンの世界観が大好きで、北欧を周遊するだけでは足りず、本場スウェーデン人の友達まで作り、スウェーデン語も勉強して、自分でも驚くほど行動派でした。

楽しい大学生活もあっという間に後半になり、だんだんと”就活”という現実を見つめる時期に入り、クリエイティブな資格も技能もない私が北欧に携わるには…と行き着いた私なりの答えは催事バイヤー
いつか北欧展を開催することを夢見て、百貨店を受け続けていました。

しかし結果は惨敗。
最終面接まで進んだ某百貨店も最後でお祈りを受け、ここで私は今までで最大の挫折を味わうこととなりました。
就活のモチベーションも完全に下がり、続ける気力がなくなり、半ばやけくそで、すでに内定をいただいていた地元のスーパーマーケットに就職しました。

私がデザイナーになるまでの道のり

私がお惣菜売場のカリスマになるまで

パートさんがみんな凄すぎて、うっかりお母さん!と言いかけました。

晴れてスーパーマーケットに就職した私はお惣菜部門に配属になりました。
私はこの後スーパーで2年半働くのですが、私の仕事何があったかな〜と思い出すと、こんな感じになりました。

とりあえず全部ってことでした。笑

お惣菜売場って”14時”以外空くタイミングがないんですよ。笑

午前中はご年配の方が早めに来店されて、お昼を買っていきます。
作業場はもちろん揚げ物だ、弁当だ、寿司だ、でてんやわんやです。
何とか売場に商品を陳列し終わると、今度はお昼にサラリーマンの方がお弁当やおかずを買っていきます。
売場の商品がどんどん消えていきます。
やっとちょっと空いたかな…と思ったら
(↑このタイミングが14時です)
ここで午前中の残った商品と今日の天気を見ながら、今度は夕方に向けてどんどん商品を作ります。そして夕方、主婦の方が晩ごはんのおかずを買いにきます。
パートさんも帰り、あれよあれよという間に夜。
今度は仕事帰りの方がおつまみやご飯を買いにきます。

朝は7時前に出勤し、製造の準備、自分より経験豊富なパートさんに指示を出し、 自分も天ぷらを揚げ、商品を売場に出し、売れ行きの管理をし、 発注、事務作業、休憩時間もろくに取れず、 夜まで必死に働いて21時頃やっとバイトに引き継いで退勤。

正直これ一生は無理だなと、1年目で早くも思っていました。

カボチャに関しては、お客さまの家にも行きましたが、手でも簡単に折れるほどしっとり柔らかかったです。ネギは「半分に切って!」から始まり、「もう半分!」「もう半分」と最終的にほぼみじん切りになるそうです。

はじめての異動でスパルタに挟まれる

最初で最後の異動でしたが、地獄でした笑

はじめての異動、もうすぐ2年目となる冬のことでした。
経験も浅いまま異動になった先の惣菜部門の上司と副店長が鬼教官でした。

この2人に鍛えられたおかげで、私はたいていのことは大変じゃないと思えるようになったと思います。
やっと2年目になった頃、作業だけではなく、数字も突っ込まれるようになり、毎日心も身体もヘロヘロだったのを覚えています。

あまりの忙しさに、揚げたてのコロッケを運びながら、涙が溢れてくるという経験もしました。

人手不足が結構深刻な中、夕方のピークにシフト上自分以外誰もいない曜日があったんですね。そんな日にコロッケの特売が重なってしまい、揚げても揚げても足りないという事件が起きました。
学校の家庭科の授業で、「火を使っている時は絶対火元を離れちゃだめ」って教わりましたが、この時ばかりはコロッケを揚げ機に入れてタイマーを首から下げ売場にコロッケを出し、急いで戻るの繰り返しでした。
揚げても揚げても終わりの見えないコロッケ地獄に私は自然と涙が溢れていました。笑

もちろん自分の力になったこともあります。
この時の経験が無事に生きて、 妻から家事関連のタスク処理能力の高さを褒められます。笑

かなりネガティブな面が目立ちますが、当時は忙しいながらにもやりがいあるこの仕事を、本気で天職だと思っていました。

職場で嘘をつき、内緒で動き出す

この時の私:挑戦してみたい 90% / 現実逃避 10%

見出し最悪ですね。
鬼教官に挟まれ、コロッケに泣いていた頃、やっと今の私になる大きな1歩を踏み出します。

自分でお店を作ってみたい!

1番のきっかけは、仕事に少しずつ慣れて、いろいろ考えるようになった時、お金もあるし、ふと人生で1回くらいやりたいことをやってみようと思ったんですよね。すっごい些細なきっかけだったと思います。
もともと建築とかやりたかったのもあって、スーパーで働くうちに、今の自分ならもっとお客様視点のいいお店作りをできるんじゃないかなと思うようになっていきました。
そこで学生時代、親の反対を押し切れず資料請求止まりだった学校があったんですが、しばらく夜間の学校に通って商空間デザインについて勉強をすることにしました。

どうしても定時で上がる必要があるので、学校がある日は「渋谷でセミナーがある」って嘘をついていたんですが、今思えば”渋谷で毎週夜にセミナー”って完全に怪しいビジネスですよね。笑

そこでは建築やインテリアの基礎から、製図の仕方、CADの使い方とかを学んだんですけど、これがまた楽しくて…笑
私はここで約1年半勉強し、ますます商空間デザインに携わりたいと思うようになりました。

グランドキャニオンを目の前に覚醒

夜間学校とは別にもう1つきっかけとなった出来事があります。
職場でアメリカのスーパーマーケットの視察に行く機会があったんですね。
お店という空間が大好きな私にとってアメリカのスーパーを巡れるなんて、最高の体験だったわけです。

このスーパー視察はめちゃくちゃ面白かったのでいつか記事にしたいんですが、この視察でデザインの力ってスゲーって圧倒されました。
そして最終日、観光で寄ったグランドキャニオンを目の前に、私は誓います。

よし、いつか店舗開発に異動するぞ!

帰国後、デザインの勉強もますますやる気が出て、
職場の先輩にやんわりと、店舗開発部ってどうしたらいけるんですかね??みたいな探りも入れていました。
ただ順調だった仕事とプライベートの両立も長くは続きませんでした。

惣菜担当、夢破れる

ここまで不安になるくらい現在の仕事に辿りつけなさそうなんですが、この後思いもよらない形で着地するので、もう少しお付き合いください。

学校と並行して仕事をするのにも慣れ、何だか順調そうに感じている中で、社会人として3年目を迎えました。
当たり前ですが、だんだんと今までの仕事に加え「責任」がついてくるようになりました。
売上や生産性、人手不足の時とそうじゃない時の調整、鬼教官だった上司の異動、そんな中、私が最終的にスーパーを離れるきっかけになった2つの出来事がありました。

1つは、店舗開発部へのキャリアが絶たれたこと。

店舗開発はかなり専門性の高い部署で、どうやら私の働いていたスーパーではそういった経験をしてきた中途採用で何とかしていたようで、総合職採用で店舗開発への前例がないとのことでした。

もう1つは、自分だけではどうしようもない現実への絶望。

特にこの異動先の店舗は都内23区だったこともあり、ここより時給の高い仕事がもう少し範囲を広げればいっぱいあり、人手不足が著しかったんです。
やっと採用された人も、外国人だらけ。
こういう言い方はよくないかもしれませんが、日本語の通じない外国の方への教育は現実問題、非常に難しいものがありました。
特に自分の店舗ではアジア系の方が多く、英語も通じなかったため、もう八方塞がりでした。

人手不足→やっと入ってきたら英語も通じない外国人→でも人を雇ったからできるはずだ→現実難しい
と、本来やらなくてはならない他のことに支障が出始め、
英語のマニュアルを作ってみたり、図で説明してみたり、いろいろと試してみたんですが、この頃はやりがいを感じると同時に、自分でなんとかできない絶望を感じていました。

この2つが重なって、次のステップへ進む決心がつきました。

未経験・ゼロスキルデザイナー爆誕

とうとうデザイナーという肩書きにたどり着きます!

いざ転職活動を始めたものの、現実は残酷でした。
所詮2年満たない程度、ちょっと建築をかじったからといって、資格もない私が、建築系の事務所や会社に入社するのは無理でした。
未経験可と書いてあっても、10数社出したエントリーシートは全敗。
このまま中途半端に転職活動をしてもダメだと、次の就職先が決まらないまま、お世話になったスーパーマーケットを辞めることにしました。

辞めることが決まったあとの数ヶ月は本当に気持ちが晴れやかで、今まで働いた中で1番楽しかったと思います。
自分の業務はもちろん、他の部門を手伝ってみたり、人手不足のレジを手伝ってみたり、最後に好き放題やらせていただきました。

そんな最後のスーパーライフを満喫する中、
建築関係がどうしても難しく、少し方向転換をとダメ元で受けていた、商業広告を刷る印刷会社から、デザイナーとして採用をしたいと電話をいただきました。

建築で限界を感じていた私は、何も考えずに、デザイナーとして雇われたことが素直に嬉しく、二つ返事でお願いします!と転職先を決めたのですが、DTPの知識もなければ、スキルもない私が採用されるなんて…この会社がなかなか一筋縄ではいかない会社だったのですが…
この時の私はそんなこと1mmも思っていませんでした。

そして私は2年半お世話になったスーパーマーケットを退社し、印刷会社へと転職します。

DTPからWEBへ

長くなってしまったので印刷会社編は改めて投稿します!

そしてこの後、私は印刷会社でとても3年とは思えない濃い3年を過ごしますが、今回は長くなってしまったので、改めて記事にしようかと思います。

そしてそして現在、お世話になった印刷会社を旅立ち、グループ会社である広告代理店でWEBデザイナーとして働いています。

デザイナーじゃないのに仕事でデザイン力を求められる、この業界に入りたくてスキルを学んだけど経験値がないというパターンは聞いたことがありますが、おそらく経験も、スキルもどっちもなかった人がデザイナーになるって珍しいことなんじゃないかなと思います。
でも今デザイナーを名乗り、お客さまからお金をいただく仕事をしています。
私が自分を”ノンクリエイティブ”と表現するのは、私がデザイナーとして成り立つには他の人とちょっとやり方が違ったという意味を込めたいから…と言ったら盛ってますかね。笑
この辺は少しずつ自分の想いを言葉にしていければと思います。

長くなりましたが最後まで読んでいただきありがとうございます。

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