仏教に学ぶ生き方、考え方「執着するということ」
先日、「愛着」のことについてに投稿しました。
愛は愛着に変わりやすいものなので意識して「区別している」と話しました。
でも考えてみれば、愛着以外にもいろいろな物事に「執着する」気持ちもあります。
まず食欲のある私は「食べること」にはかなり執着していると思います。
今日は「これが食べたい」と思えばそれに向けて、仕事を頑張って片付けたりお経をしっかりと唱えたりしております。
また食べたいものが食べられないとかなり「落ち込んだり」もします。
また「愛車」にも思い入れがあります。
できるだけ大切にして長く乗りたいと思っています。
お寺や真宗の「教え」にも、執着しているとも言えるでしょう。
もし明日、他のお寺への異動を命じられたら、かなり「戸惑う」と思います。
生活上の「諸々のこと」はなるべく自分でしたいタイプです。
誰かに任せたり、機械がやってくれたりすると、途端に「落ち着き」がなくなります。
生活様式にはかなりの執着があると言えるでしょう。
このようにちょっと考えるだけでも、様々な「執着心」を持って生きていることが分かります。
そしてそれを「離れる」ことは甚だ難しいのです。
でも最近思うのは、離れなくてもいいけれども、いざという時には「解き放てる」ような心持ちでいたいなと言うことです。
将来それらと離れることがあっても、いつまでもこだわったり過去に縛られたりすることなく、「解き放つ」ような気持ちでいたいなと。
そして、これを書いている「note」にもかなり執着しているのかもしれません。
もしいつか投稿しなくなったら、その時は離れたのではなく「解き放ったのだ」と思っていただければ幸いです。
☆今日の一句☆
物事は
着かず離れず
丁度いい
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