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濡れ衣【エッセイ】一六〇〇字(本文)

画僧:47NEWSから
生まれ故郷近くの浜名湖を訪れた袴田巌さんと姉のひで子さん(2022年11月)

「十人の真犯人を逃がすとも、一人の無辜むこを罰するなかれ」
周防正行監督の『それでも僕はやってない』の冒頭でも使われた言葉。その言葉が意味する「疑わしくは罰せず」は、近代刑事司法の大原則となっている(はず)。
 しかし現実は、「無辜を罰する」ことが、多く存在してしまっている。しかも、「人の命は地球よりも重い」はずであるが、「一人の無辜」の命が、国家暴力によって、永遠に葬られようとしていた。1966年6月の袴田事件である。
 今月13日。東京高裁が、再審をやっと、認めた。
 事件から約50日後に逮捕。63日間、計221時間の取調べを受け、犯行を頑強に否認していた袴田さんが勾留期限3日前に一転、自白。静岡地裁の公判では全面否認したにも関わらず、翌年、味噌タンク内から血染めの「五点の衣類」が証拠とされ、その一年後の68年、死刑判決を宣告される。それから55年間、無実を訴え続け、2014年に釈放されるも、45年間、収監・拘束された。想像しただけでも、気が遠くなる。
 高裁は、「衣類のほかに袴田を犯人と認定できる証拠はなく、確定判決の認定に合理的な疑いが生じることは明らか」とし、さらに証拠とした袴田さんの着衣は、捜査機関による捏造の可能性が高いとまで言い切った。
 下記に紹介する「全国新聞社と共同通信の総合ニュースサイト 47NEWS」の記事には、捜査官の「ずさんな」実態を、実名入りで書かかれてある(その捜査官は他にも冤罪を招いている)。
 一人の人間の人生を台無しにしたことをどう感じていたのか。捜査関係者は、人生を左右するだけの権力を持っている。それが利己的な思惑(「手柄」をあげたいとか)で為されるだけでも、とても怖いことではある。が、それ以上に、もっともらしい「正義感」があったとするなら、ことは重大だ。
 「怪しいなコイツ。しかし、証拠はない。が、犯人だったら他の被害者を出してしまう。ここは証拠を作ってしまったほうが、世のため、国のため」という勝手な「正義感」を言い訳にしていなかったか。一個の人権よりも世・国家が勝るという。
 すべての国民は、「個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と、個人の尊重・幸福追求権を憲法(第十三条)が保障している。国家は、国民の幸せを実現するためにあるのであって、国家のために国民があるわけではない。「疑わしい」だけで、「世のため、国のため」を優先し、人権を軽視することは許されない。つまり、無辜の(罪もない)人が、国家権力の都合の良い「正義感」によって犠牲になることは絶対にあってはならない。
 ところが、捜査関係者は、「世のため、国のため」「公共の福祉のため」という勝手きわまる「正義」を優先し、一人の国民の権利を無視した結果が、袴田さんをはじめとした冤罪となった人たちにつながった。日本国憲法に明文化されていても、「世のため・国ため」という、古くからの日本の風土が潜在化しているのではないか。
 「人間だから過ちはある」。だから、「疑わしくは罰せず」の大原則がある。冤罪で執行された死刑囚がいたかもしれないと、振り返ったことがあるか。その人たちが、死の恐怖の日々を過ごし、どう想って最期を迎えたのか、一度でも考えたことがあるか。幸福な人生を過ごす権利を奪ってしまったかもしれないと、胸に手をあてて大いに悩んで欲しい。
 この事件は、皮肉にも「触れ衣」が、決め手になった。もはや「疑い」がなくなったのだから、検察当局は、罪なプライドを捨てて、大原則に立ち戻るべき。そして、この不条理な出来事を機に、われわれが、司法制度にメスを入れるよう叫ぶ時期にあるのではないか。

なお、「袴田事件」をはじめ裁判所、捜査関係者のずさんな実態を書いているサイトがあります。詳しくは、こちらをご覧ください。裁判員、捜査官の実名入りで、その「ずさんさ」を追及しています。

新聞社と共同通信の総合ニュースサイト「47NEWS」

なぜ袴田巌さんは「真犯人」に仕立て上げられたのか「袴田事件」の経過を改めてたどって判明した、刑事司法のずさんな実態(前編)

取り調べは「拷問」、裁判長は勘違い、エリート調査官も「誤り」 「袴田事件」の経過を改めてたどって判明した、刑事司法のずさんな実態(後編)


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