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早稲田・馬場下の恋と暴力【私小説風掌編エッセイ】二〇〇〇字(続編部分)

 “あの時代”を共にし、いまも友として相手をしていただいている阿久津仁君(文中は安久津)に、馬場下の想い出を贈る。彼には、拙稿を毎度読んでいただき、的確な講評をいただいている。謝意を申し上げる。
 最近、樋田毅ひだつよしの『彼は早稲田で死んだ』を手にする。“あの時代”のことが克明に書かれてある。定かではなかった時系列も明らかになってきた。やはり、記しておかねばならないと、思い至った。

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 “あの時代”、われわれは青春を謳歌していた。下記の続編である。

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 1972年から5年間、早稲田・馬場下交差点近くに「SEASON」という店があった(隣は、“高島ビリヤード”並びに喫茶“ジャルダン”。その3軒が、いま“みずほ銀行”になっている)。いまで言えば、ハンバーガーのイートイン。マクドナルドが、銀座に1号店をオープンした翌年に、始まった。テーブルが、80席、カウンター8席、店裏のベランダに12席、合計100席。昼は、ハンバーガーとホットドックと、コーヒーかコーンスープにサラダをつけてA~Cのセットメニューと単品。180円~250円(だったと思う。ハイライトが80円の時代)。夜は、ハンバーグにジャーマンソーセージが加わる。食事にくるだけでなく、大きめの喫茶店という雰囲気だった。
 私は、72年からの大学4年間、その店でバイトした。授業の合間にローテーションのシフト勤務で、学生が50人以上いた。コンパも年に何回か、店が終わったあと開催してくれ、部活のような集まりだった。私は、「金儲けクラブ」と言っていた。そんな集まりなので、恋愛あり、失恋ありの(複雑な)相関関係図ができたほどだった。
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 バイトを始めたのは、5月末。仕送りが3万円あったが、部屋代と食費(と煙草代)で目いっぱいだったので、夏休みの旅行代を稼ぐためだった。それと、もうひとつある。学費値上げ反対で、キャンパスは、繰り広げられる過激な学生運動で荒れており、逃避でもあった。早稲田のセクトは、革マル派(正式名称は、「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」と、やたらと長い)や民青(日本民主青年同盟)に加え、革マル派が組織する自治会に反対する一般学生による反自治会組織が活動していた。
 私は、どの組織にも関わりを持たない完全な“ノンポリ”に過ぎなかった。
というのは、北海道での高校時代を長期病欠で留年し、進学にも失敗したにも関わらず、札幌での浪人中に政治活動に「罹患」し、二浪。もう運動には手をださないと決めていた。
 その活動というのは、同窓で北大に進んだ鷹野が革マル派として運動に関わっていたが、セクトには直接かかわりを持たなかったにせよ、彼と2人で、大江健三郎の発禁本『政治少年死す』の海賊版を発行する運動に熱中してしまったのだ。和式タイプライターで打ち、製本だけは業者に任せた簡易な出版物。その本を鷹野は北大で、私は二浪先の東京で販売したのだが、組織的な販売力を持たなかった私は在庫を抱えるような始末。さすがに三浪はできないと、足を洗ったのだった。
 革マル派によるバリケードや、大学側のロックアウトによって、授業を落ち着いて受けられるような雰囲気ではなかった。授業のときも毎回のように、革マル派の自治会メンバーが入ってきて、自分たちの闘争の正当性を、上から目線でアジ演説する。発言があっても、“無内容”“ナンセンス”と受け入れない。ご当人、何をしゃべっているのか、意味も分からなく叫ぶだけ。運動自体に辟易していた。一般学生が組織する反自治体派との衝突で、キャンパス内は戦場と化していた。ますます、バイトに精を出すようになっていった。部活「金儲けクラブ」でもあったので、授業があっても出席カードを級友に預け、出席するのは、ゼミのような小規模の授業のみ。完全に店中心の生活になっていった。
 そんなある日、早稲田祭(11月1日から6日)がある前だった。バイト仲間の2歳年下の男、中田を挟み、ほのかな想いを抱いていた教育学部の野瀬喜美子と店のカウンターで昼食をとっていたとき。中田が、「キミちゃん、最近元気ないね。どうしたの?今度遊びに行こうよ」と、言いやがった。すると、野瀬が、「マーちゃん(私の事)に振られたの」と。この一言が決定打になった。その後、早稲田祭で野瀬の門限(なんと6時)が一時的に解除になったのがきっかけになり、付き合うことになった。
 早稲田祭期間中のある日の夜。穴八幡(早稲田・馬場下交差点近く)の小公園(いまは、写真のような参拝者の休憩の場となっている)にあるブランコに乗りながら彼女と話をしていた。徐々に暗くなってきて満月*の明かりでできた影がひとつになった。初めて、だった。高校、一浪の時代に、子どもの真似事のような経験はあったが、遅めの体験だった。
*いま調べると、11月5日日曜日が満月だったようだ(早稲田祭の最終夜)

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 そんな浮ついたことを馬場下でやっていた3日後に、事件が起きた。川口大三郎君の革マル派による、虐殺である。
 この事件を契機に、白けていた一般ノンポリ学生までもが革マル派を抗議する運動に火が付いた。私は、運動には手をださないとノンポリを決め込んでいたが、さすがにその大波に吞まれていった。11月13日夜。本部キャンパスの大隈銅像の前の広場は、自然発生的に集まった2,000人以上の学生で埋まった。私と級友、級友でバイト仲間の安久津も、その中にいた。
 「虐殺糾弾」「革マル派糾弾」と書かれた「立て看」が鬱蒼と並び、反自治会による糾弾演説がハンドスピーカーから大音響で流れる。その中、革マル派自治会委員長の田中敏夫(実名)*が両腕を捕まられて連れてこられ、演壇に立たされる。参加した一般ノンポリ学生までもが、大声で委員長を批判する。反自治会(一般学生)の黒ヘルメットの武装集団が過熱し、広場横の図書館(現、會津八一記念博物館)のエントランス上のバルコニーから、捕まえた革マル活動家を、いまにも落とそうとしていた(落とすことはなかった)。そんな集会が徹夜で行われた。集会は、その後も何回も続く。
*田中氏は、その後に除籍になり、刑に服す。自己批判書も書いていた。2019年3月1日に、急性心筋梗塞で亡くなっている。

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(大隈銅像前広場と左に旧図書館)

 早稲田では、その2年前(札幌での一浪目)に、もう一つの事件も起きていた。革マル派からの暴力を受けていた早大OB山村政明君が、1970年10月6日未明、馬場下で、25歳で焼身自殺していたのだ。
 その事件を知ったのは、川口君事件のあと。現場は、穴八幡宮の境内にある小公園であった、と。野瀬とは2年後に終止符を打たれる・・。やはり、場所が悪かった———。

(おまけ)
この原稿の時系列は、樋田毅著『彼は早稲田で死んだ』(文芸春秋刊)で確認した。本著の所感は別の機会に譲るが、最終部が興味深い。元革マル派自治会副委員長、大岩圭之介氏へのインタビューである。彼は、事件の後、無期停学処分となった。が、その後アメリカ、カナダで再学し、現在は、別名で明治学院大学の名誉教授となっている。カナダ時代には、鶴見俊輔のゼミでも学んでいる。戸山高校の出身で、在学中も活動家。阿久津君と私の級友である渡辺明子と、年齢的に重なる。その彼女の自宅で仲間が集まり議論していたとき、言われた言葉を記憶している。「菊地、“まさ”までは読みは同じだけど、菊地昌典*とえらい違いね」と。菊地昌典の著作など読んだことはなかったので、「誰?それ」と言うと冷ややかに笑われた。そんないきがった女子も多い時代だった。(彼女は、早稲田の運動には関わらなかったが、その後中退する)。
*菊地昌典(きくち まさのり、1930年2月17日 - 1997年5月22日)は、日本のソ連研究者。東京大学名誉教授。一貫した社会主義者で、当初はスターリニストだったが、のちトロツキストになる。(Wikipedia)当時、『ロシア革命』(中央公論社〈中公新書〉 1967年)『人間変革の論理と実験』(筑摩書房 1971年)が読まれていた(ようだ)。

『彼は早稲田で死んだ』は、ことしの大宅壮一賞。映画の計画も進められている

個人的な想い出ではありますが、当時の学生の多くが経験したであろうことでもあります。ついつい長文になってしまいました。最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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