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同棲【エッセイ】

 三八年前、三十路を超え、三鷹のアパートに住んでいたころ。五つ下のT子と同居を解消して間もない、春の日の夜。玄関前から、猫の鳴き声が聞こえる。三つ指ならぬ五つ指の前足を揃えて、ちょこんとお座りした、生後一か月位のトラ柄の猫がいた。牛乳を与えると、大層な音をたてて飲むの、だった。
 そんなことが三日続いた後の休日。小さな庭がある縁側で読書していると、庭にやって来た。牛乳を飲み干すと、踝(くるぶし)に身体を擦りつけるように、足の周りを回り始める。様子を伺いながら、縁側の踏み台に跳び乗り横にきた。子猫は、部屋の中を覗きながら、侵入を試みようとするの、だった。匍( ほ )匐( ふく )前進するかのように。何度か踏み台まで戻すのだが、ついに、根負けし、わが家の住人に、なった。
 トラ猫、いや彼女との甘い生活が、続いた。
 彼女は庭端の砂地をトイレにしていたので、出勤時は、玄関横の段ボールに、餌を置き出かける。不安もあったが、戻った際の“儀式”が楽しみだった。それは、アパート近くで鍵を回すと、音を聞いた彼女が、塀から顔だけをチョコっと出し、全速力で走ってきて、肩まで登って鳴くのだった。夜は、日中外で走りまわり疲れるのだろう、眠っていることが多かった。着ているシャツの中や、就寝中は、ベッド脇にある椅子の毛糸の座布団を好んだ。
 が、彼女との生活も半年が過ぎた初冬のある日。鍵を回しても、顔を出さなかった。そのまま、戻ってこなかったの、だった。
 翌春のある日。路地を、ほぼ成人の大きさのトラ猫が、何匹かを引き連れて、凛として歩いていた。目があった。似ている。彼女と、直感した。外で淋しさを紛らわすうちにオトコができ、自立していったのだろう。
 通りでトラ猫を見かけると、座布団カバーを手あみしてくれたT子との思い出も、蘇る。無事なら、彼女も、還暦を超えた。

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