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結核病棟(5の5)【エッセイ】三〇〇〇字

結核病棟(5の4)の続きです。

「キャプテン! 曽田くんが、打った!」と大声で叫んだあと、
「打ったよ。打った。打った・・・」と、鳩が豆鉄砲を食らったような表情で、つぶやいた。
「うん、打った! 打った! やったなあいつ! ホームラン。———高見沢、なんだよ泣いているのかよ」と、私の声も震えていた。
「なによ~。菊地くんだって泣いているじゃない」
「そんなことないべや~。泣いてない。泣いてない」
と、布団を被った。

 高1のとき夏予選の後で辞めた野球部が、地区大会の決勝に勝ち進んでいた。滝川には高校が3高あった。普通高校の道立滝川高校(滝高)、私立の滝川商業(滝商)、そして市立の滝川工業高校(滝工)。滝商は、北北海道大会の常連校(のちに甲子園にも出場する)。滝商は、松田さんの出身校。その滝商が相手だった。滝高が予選を突破すれば、10年ぶり。私は、ラジオ中継を聴いていた。松田さんも気になるみたいなので、音を大きくしたまま。中学のときを想い出していた———。

 中学のときは、私はキャプテンで、3人いるピッチャーの中のエース格、3番。曽田は、センターで2番を打っていた。主催校での公式試合は生徒のほとんどが観戦する。私が投げるとき、「“雨中(雨竜中学)”ぅぅぅぅ、エース!」と声をそろえて応援席から叫んでくれる。とてもいい気持ちなのだ。その当時フジテレビ系(札幌テレビ・STV)で始まったアニメ『宇宙エース』にからめて(いま還暦以上のひとじゃないと、わからないだろうけど)。
 中学野球は、全道大会をめざすのだが、その前に雨竜近辺の4校による総当たりの地区予選と、北空知大会を勝ち抜く必要がある。その年の予選はわが中学で行われ、地の利があったか、あと1勝すれば全勝で北空知大会に出場できるまで勝っていた。が、その試合に負けて、次の日決定戦になった。
 試合が終わって着替えしているとき、曽田がいないのに気づいた。グラウンドに戻ると、グラウンド横のあぜ道を一人、俯きながら歩いていた。ヤツに、言った。
「曽田、そんなに落ち込むなよ。お前の責任じゃないよ。あした勝てばいいじゃないか」
 全勝をかけた試合で、曽田は無安打。それで、泣いていたのだ。高見沢さんは、そのときのことを知っていた。グラウンドの隅から、見ていたのだ。
 決定戦では、曽田は、2安打を打った。私はゼロに押え、北空知大会に勝ち進んだ。残念ながら初戦で敗退したが、中学の最高の想い出になっている。
 その後、曽田と私は、地域の進学校に入学し、2人ともに野球部に入る。しかし、体力が急激に落ちていて、私は、1年の途中、夏の予選が終わって退部していた。
 3年になった曽田は、4番を打っていた。そして、6月。北空知予選で決勝に進んだ。その試合で曽田のホームランが決め手になり、10年ぶりで北北海道大会に進んだのだ。その中継を、ベッドで聴いていたのだった。夕陽のなか、あのあぜ道を俯きながら歩いていた彼と影法師を懐かしく、想い出しながら。あの曽田が打った―――。
 松田さんは、「週刊プレイボーイ」を見ながら、「まあ、何十年ぶりかだからな」と、ニヒルな表情。白木さんも聴いていたようで、ニタニタしながら、「滝高が勝つとはね、腰が抜けたよ。菊地くんへの祝砲になったな」と、シワシワの顔を緩ませた。

 退院の日。
 お世話になった大部屋の「麻雀仲間」にも挨拶を終え、身の回りの荷物をバッグに詰めていたとき、“さわっち”が耳打ちしてくれた。「“のうちゃん”が、渡したいものがあるって、集会場で待っているよ」と。
 そのとき、松田さんが、「これ、最新号。やるよ。いろいろ勉強・・になるぜ」と、意味ありげにニヤっとしながら、「プレイボーイ」を渡してくれた。白木さんは、敬礼をしながらのお得意のウインク。私は、最敬礼。深々とおじぎをして部屋を後にした。

「退院、おめでとう。長かったね。6か月」
「ありがとう。いや楽しかったよ」
「すぐに学校に戻るの? だったら会えるね」
「いや、いま戻っても二学期からだから、ギリギリ卒業できるかどうかなんだ。先生も自宅療養を薦めるので、留年しようと思う」
「そっか・・・手紙出してもいい?」
「ああ、もちろん」
「————— あ、これ」と、紙包みを渡してくれた。
開けると、それは『万延元年のフットボール』、だった。

 そんな6か月が過ぎた。

 北海道は、間もなく短い夏を迎え、緑が一層深くなり、野には花々が乱れ咲く。母とバスに乗り、流れる景色を見やりながら、ちょっぴり甘酸っぱい匂いの風を思いっきり吸い込んだ。











《高見沢さんとのその後》

 退院してまもなく、手紙がきた。退院を祝うことばと、滝川で会えないか、という内容だった。元野球部の仲間と祝いがあることを口実に、母の実家に一泊することにし、会うことになった。
 狭い街。すぐに噂がたつので、滝川と隣町の境を流れる空知川の土手で待ち合わせた。野球部のこと、入院中のことを話しながら歩いていて、夜になり。彼女がポツリと言った。
「曽田くんが好きなんだ」
「あ、ああ、そうなんだ。ああ、そうだと思っていたよ。だって、ホームランを打ったとき、高見沢、すごかったもんなあー。びっくりしたべや~。————— あ、ヤツ、知ってんの?」
「う、ううう~ん・・・」
「あ、ああ。そか、そか、いいよ、いいよ。オレ言ってやる。言ってやる。たいじょうぶだあ。たぶん、あいつも好きだと思うよ、うん。そう、そうか。そうだべなあ~、ハハハハ」
やはり曽田が好きだったのだ。高1の練習のとき、グラウンドの隅に立っていた彼女は、曽田を見つめていたのだ。「ひょっとして」なんて、思ってしまったのだが、<2人ではまずいな・・・>とも考えていたのだった・・・。

 曽田は、実業団の札〇日産野球部に入り、ノンプロで活躍した。高見沢さんは、正看護婦の資格を得て、札幌の病院に就職し、曽田と結婚したらしい。その話は、“のうちゃん”から、東京で聞くことになる。











《“のうちゃん”とのその後》

 “のうちゃん”と退院後に会ったのは、お盆のとき開催される空知川の花火大会の日だった。“さわっち”と3人だった。バスの最終には間に合わないので母の実家に泊まる予定で。
 そのとき、“のうちゃん”は言った。
「来年の4月から東京の高等看護学校に行くの。資格とったら、そのまま東京の病院に就職しようかと思うの。早稲田に受かったら、会えるね」と。
 手紙のやりとりは続き、札幌での一浪のとき、帰省した彼女と滝川で会った。滝川・空知太にあるキャンプ場で。そのときも“さわっち”と一緒だった。ジンギスカン鍋をつつきながら酒を呑み、酔いが回ってしまい、二人に看護されたまま夜が明けた。初めて女性と夜を明かし、そして、人生初の二日酔いだった。『ハーレムきゃんぷっ!』そのものだった(?)。
 その後、大江の発禁本の海賊版を自費出版する運動に関わり、受験に失敗。東京で2浪生活をしているなかで、徐々に連絡が途絶えていった————。

 “のうちゃん”は正看護婦資格を取得した後、東京・秋葉原の三井〇〇病院に就職したらしい。

 私が、大学卒業後に、バイトしていた店のオーナーに誘われ、ファミリーレストラン事業で群馬・太田に行き、その後失敗。そのときに知り合った社長の声かけで大阪に行くが、居酒屋「天狗」のレストラン新規事業に誘われ東京に戻り、スーパーバイザーとして地区店長をしているときだった。退院から10年後、新橋の店にいた。
 その客席に、“のうちゃん”がいたのだ。彼女はフィアンセと来ていて、立ち話で高見沢さんのことと、あの白木さんが、キャンプをやった日の翌月に亡くなったこと、を聞いたのだった。間もなく、私は「天狗」を辞め、その後、会えていない。

(おしまい)

<This essay is based on a (ほぼ)true story.>

やっぱり、エンディングロールのテーマ曲は、これだべや。

 長~くなが~くお付き合いいただき、ありがとうございました。(笑


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