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言いまつがい【雑文・エッセイ】六〇〇字

TOP画像:©AFLO(文春オンライン)
※主役の隣にお座りの偉い方もよく「言いまつがい」するお人ですね!

 ご存知、「ほぼ日刊イトイ新聞」の読者から投稿・応募され、糸井重里が監修した『言いまつがい』が面白い。思わず吹き出してしまった作が、わんさか。そのいくつかを紹介します。
 またまた、おちゃらけのネタで申し訳ない。そのお詫びに多和田葉子さんの秀逸なエッセイを(おまけ)に。一昨日の朝日新聞に掲載されていました。

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「馬車馬のように働く」と言うところを
「種馬のように働く」と言ってしまい、
男性社員にうらやましがられました・・・。

家族で飲酒運転について話していた時に、
ばぁちゃんは、
「のんだらのむな、のるならのるな」
と言いました。

会社の先輩が、「覚悟していろ」という意味で
「首をくくって待ってろ!」
と言っていました。

友達が大笑いして、
「いやー、はらわた煮えくりかえるほど、おかしい!」
と言いました。

友人は、生まれてから二十何年間ずっと
「狐につつまれたようだ」
と思っていたそうです。

学生の時、実験中に同じ班の子が
「すいませんせー」
と先生を呼びました。

京王線で通っていた頃、
「次は、しゃしゃぢちゅかぁ~、しゃしゃぢちゅかぁ~」
と、激混みの中、車内放送され、吹き出しそうになった。慣れてくると、それを聞けない日は寂しかった。

大学時代の先輩は、「生姜焼き定食」と書いてあるのをみて、大きな声で
「めかけやきていしょく!」
と注文しました・・・。

バイトしていた会社のエレベーターで、わたしは後ろから乗ってきたおじさんに
「何階でござるか?」
と言ってしまいました。

極めつき。
ある国の総理大臣が、「言いまつがい」ではなく真顔で、
「幅広く募ったが、募集はしていない」
と、宣った、そうな。

※最後に、
(早大エクステンション「エッセイ講座」に通っている方しかわからないでしょうが・・・)
教室では、提出作品のうち名作(迷作)5本くらいが、(作者名は伏せて)講師に読まれます。先日、私の作(先日の原敬の話)が「Cさん」として取り上げられたのですが、「このCさんの作」というところを、「このキ(菊地さん)」と言いかけたところで気づき、「このCさん」と言い直していた。

(おまけ)
朝日新聞朝刊に不定期で掲載されているエッセイです。約2000字と長いですが多和田ファンの方への(おまけ)です。朝日を購読されていても読み漏らした方、他紙を購読の方へ。

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(多和田葉子のベルリン通信)推理及ばぬ、アフガンの未来
2022年10月31日
画・寺門孝之
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 ブランデンブルク門の前の広場は昼頃から降りだした雨にバラバラと打たれていた。門の左手にそびえるガラスの建物が芸術アカデミーである。このところウクライナ関係の文化イベントが増える中で、アフガニスタンが忘れられがちになっている。それではいけないとペンクラブがイスラム圏から亡命してきた作家たちを迎える歓迎イベントをこのアカデミーで行った。

 ドイツペンクラブ会員数人が、カブールなどから亡命してきた作家と二人一組になって次々舞台にあがり、亡命作家の経歴を紹介し、通訳を通して質問をし、作品のドイツ語訳を朗読する。

 わたしと組んだ女性詩人のTさんは1991年生まれ。カブール大学で演出を勉強し卒業後は数少ない女性演出家の一人として働いていたが、去年タリバンが勢力を握ってからはアフガニスタンで暮らすことが日々難しくなってきて、ある日「これ以上劇場で働き続けるのは危ない」と知人に警告され、妊娠中の身でテヘランに逃げ、そこで出産することになった。

 Tさんはやがて「空の架け橋カブール」という非営利団体の助けでハンブルクに亡命。英語が苦手なので生活上困ることが多いが、今勉強しているドイツ語が上達したら創作にも活かしてみたい、と語った。わたしは24年暮らした港町が懐かしいのでつい、「ハンブルクの印象は?」と尋ねた。すると、「それはロボットに印象を尋ねるようなもの。赤ん坊の世話をしながらやっと役所や語学学校に通う毎日は、生きているというより機能しているという感じで、感情とか感想はあまりない」という答えが返ってきた。

 残念ながら重訳になってしまうが、彼女の詩にこんな言葉がある。「あなたは崩れ落ちた、私の隣で/廃墟の前に置かれた鏡のように」「私たちは生きていた/そこに生活はなかった/そこには生活があった/わたしたちは死んでいた」。生命と生活の両方が守られてこそ、人間らしく存在できるということかもしれない。

 何より嬉しいのは平和で自由な国で子供を育てられることだとTさんは語った。アフガニスタンにはもう長いこと平和がない、という話がこの日のイベントで何度か出た。

     *

 最近シャーロック・ホームズを読み返していたら、第二次アフガン戦争に軍医として従軍したワトスンが負傷してロンドンに戻り、友人にホームズを紹介されて同居人となる経緯が書いてあった。十九世紀終わりにアフガニスタンに進出してきたロシアがイギリスとぶつかったあの時代、アフガニスタンはすでに戦場だったのだ。

 早稲田大学でロシア文学を勉強していた1980年頃、ソ連から研究者の訪問があり、アフガニスタンでのアメリカとソ連の衝突のことで後味の悪い口論になった。あの頃もあの国は戦場だった。当時大国から大量に流れ込んだ武器は、その後誰の手に渡ったのだろう。2001年にはバーミヤーン大仏がタリバンの手で破壊され、今日まで平和は訪れていない。

 今年の九月、女王エリザベスの葬儀があり、ドイツのマスコミでも大きく報道されたが、批判的なコメントを付け加えるレポーターもいた。女王には確かに人間的に魅力があったかもしれないが、彼女が象徴していたのは植民地主義の残影でもあったと言うのである。女王個人の責任ではないが、大英帝国の背景には侵略と支配の歴史がある。インドのイギリスからの独立も、成人した青年がお母さんの元から独立していったというような微笑ましいエピソードではなかったはずだ。

 厳かで大掛かりな国葬をテレビで見ていてふと、イギリスは欧州連合に加盟した時からヨーロッパを形成する小さな国々と平等に肩を並べてやっていこうという気持ちなどなかったのかもしれない、と思った。そして旧植民地とほぼ重なる56カ国からなるコモンウェルス・オブ・ネイションズの頂点に立つイギリスの自己イメージをかろうじて意識下で支えてきたのがエリザベス女王という生身の人間のオーラだったのかもしれない。

 国葬は、消滅寸前の或る価値観を永遠に引き留めておきたいという願望から大々的に行われることもあるが、見物客には一つの価値観が消滅したことを再確認する儀式に見えてしまう。
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 アフガン戦争で身も心も疲れたワトスンは、静かな生活を送るのに相応しい同居人を求めていた。シャーロック・ホームズは静かな生活どころか、ワトスンを危険な事件に次々巻き込んでいくが、ワトスンは喜んでその冒険に付き合う。その冒険は戦争ではなく、最後には必ず事件が解決し、読者を満足させてくれる平和社会ならではの娯楽、推理小説である。一方、ワトスンが去ったあとのアフガニスタンには未解決の問題が多数残され、平和はなかなか見えてこない。

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