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「!」と「?」【エッセイ】一六〇〇字(本文)

 最も短い手紙のやりとりとして有名な、「?」と送られた手紙に「!」と返したという話を真似て———。最近の朝日新聞を読んでいて、「!」と「?」と感じた記事があったという意味のタイトルで。(笑)

「!」は、文化面の荒井裕樹氏(障害者文化論研究者)のエッセイ「『余り物』への想像力」(8月24日)である。

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 以下、その文面
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 約一年前の出来事が気になり続けている。東京五輪で起きた弁当廃棄だ。
 お金や食べ物が無駄にされたことは率直に不愉快だった。大会組織委員会が批判されたのも当然だろう。だが、そうした批判の中に、とても気になるものが混じっていた。
 報じられた街の声に「捨てるくらいなら有効活用すべきだ」という意見があり、選択肢として「生活困窮者に回す」が上がっていた。だが、この発想、実はかなり危ういのではないか。
 五輪は国と都が推進した国家的事業。そうした行事の「余り物」が困窮者支援に「活用」されるという構図は、少なくとも私には受入(うけい)れにくい。貧困は社会の問題であり、その責任は政治・行政にあるのだから。
 コロナ禍を機に困窮する人たちが増えている。今すぐ食べ物を渡したい。それくらい切迫した支援の現場もある。ただ、厳しいからこそ立ち止まってみたい。
 そもそも困窮者支援は余り物でよいのだろうか。そうした支援に「善意で包まれた上から目線」が含まれてないと言い切れるだろうか。もしも私たちの中に「社会には余り物を回せばよい人たちがいる」という発想があったとしたら、そうした価値観が格差社会を支えているのではないか。
 支援には「相手への敬意を含んだ想像力」が必要だと考えている。今この社会に、政治に、こうした想像力は足りているだろうか。
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 私も、「捨てるくらいなら有効活用すべきだ。生活困窮者に配ってはどうか」と思ったひとりだった“!”。
 「そもそも困窮者支援は余り物でよいのだろうか」という問いに、自分が「上から目線」であり「そうした価値観が格差社会を支えているのではないか」と、考えさせられた。そして、筆者が言う「想像力」に欠けていたと、反省する。
 「貧困は社会の問題であり、その責任は政治・行政にあるのだから」、われわれは、その責任を政治・行政に問い続け、変えていかなければならないのではないか、とあらためて教えられた記事だった“!”。

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 あとひとつ「?」は、8月25日の「天声人語」である。紙面にはタイトルはないが、デジタル版では「国家と葬儀」とある。
以下、文面
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 赤い喪章の人々がひたすら歩く。献花や肖像画を携えて。雪の広場を埋め尽くした弔問の群衆はアリの集団のようだ。映画「国葬」は1953年に没した旧ソ連の独裁者スターリンの国葬を描く▼ウクライナ出身のセルゲイ・ロズニツァ監督のドキュメンタリーだ。「偉大な指導者」「地上で最良の人」。そんな弔辞が延々と続く。この権力者による恐怖政治や大量粛清の現実を知るいま、壮大な葬送はグロテスクな戯画である▼安倍晋三元首相の国葬に対する反対の声が広まる。誰しも、遊説中の非業の死を悼む。ただ旧統一教会と自民党の癒着が改めて明るみに出たいま、国葬に対する違和感は強まる。自派と自党の勢力伸長のために危うい教団と深く手を握っていた▼戦後の首相で国葬は吉田茂ただひとりだ。大宰相と評された人は他にもいたが、内閣・自民党合同葬が慣例だった。〈個人の自由を社会秩序の基本となす〉〈権力による専制に反対する〉。55年の自民党立党宣言にある。全額国費で国家を挙げて葬祭を催すことは、立党の精神に沿うのだろうか▼英国の歴史コメディー「スターリンの葬送狂騒曲」も同じ国葬を題材にする。国家を挙げた葬送は、形式こそ厳粛だが、陰で政治家が権力闘争に明け暮れる。故人を悼むという本質はすっかり置き去りにされる▼きょう安倍元首相の四十九日。国葬を押し通す背後にどんな思惑があるにせよ、国民の弔意を演出するかのような営みにはくれぐれも自制的であってほしい。
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 2本の映画、「国葬」「スターリンの葬送狂騒曲」を引き合いに、国葬は、おうおうにして「国家を挙げた葬送は、形式こそ厳粛だが、陰で政治家が権力闘争に明け暮れる。故人を悼むという本質はすっかり置き去りにされる」と、分析している。私には、このような映画の引用は思いつかないので、難癖をつけるような資質は、そもそもない。
 が、最後の「自制的であってほしい」“?”という表現に拍子抜けした。その前までを読んでいて、最後は「国葬に反対である」で締めると思った。「反対」の声が高まろうが、「国民の声を聞く」と言っていたはずの何某氏はやり通すおつもりだろうから、「せめて」、と諦めているようだ。朝日新聞の「声」で、「国葬」に関する投稿が少ないと感じていたが、朝日新聞社自体が引け腰になっていたと思わざるを得ない。
 実は私は7月22日に「国葬反対」の投稿を送ったのだが、不採用だった(その「恨み」で書くわけではないよ)。
 その内容は、以下である。
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「合同葬」にして、費用は寄付型クラウドファンディングで
 
「第7波」のなか、安倍晋三元首相の国葬が、22日に閣議決定された。安倍氏の死が衝撃的であったがゆえに、悼む声が多くある。私も、そのひとりである。
 だが、19日のNHK世論調査の「国葬」への評価は、「評価する」:49%、「評価しない」:38%であった。この49%が、国葬を行うに十分な民意なのか? 38%は少数か? 豊かとはいえない財政状況で、税金を使うことに、反対である。
  同日の「FRIDAY DIGITAL」に注目する。岸田文雄首相の「国葬」を執り行う理由のひとつ「暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜く」に、「暴力に屈しないということと、安倍氏を称賛することは、まったく別次元」と、自民党の一部議員が批判した、と。私も、そう思う。単に保守派に忖度し、自身の安定を図っているだけではないか。加えれば、”民主主義の危機”とは、ほど遠いのではないか。むしろ、民意を無視、強行することのほうが、”民主主義の危機”である。
 私は「合同葬」にし、費用は、税金ではなく寄付型クラウドファンディングで募るべき、と考える。安倍氏を評価し、悼むひとたちの想いが伝わる。そうであれば、なんの異論もない。岸田首相の支持率も上がるのではないか。
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 文章・意見内容自体が稚拙であったこともあるだろう。加えて、大手の世論調査が始まったばかりで、いまほどに「反対」と「賛成」が拮抗するような状況ではない時期に送ってしまったことを反省した。
 最近、朝日新聞以外に「東京新聞」を購読し始めたのだが、その投稿欄に、「クラウドファンディング」を提案するひとがあった。私も安倍氏を弔うことに反対するわけでなく、彼の功罪に意見が二分するなか、2億5千万円以上もの税金を使って葬儀することに反対しているのである。
 ちなみにこの「クラウドファンディング」のアイデアは、note仲間の初瑠《はる》さんのコメント欄での発言からいただいた。

(おまけ)

現在、SDCs投稿コンテスト「#未来のためにできること」が開催されています。2点の応募に続いて、過日(2021年11月10日)1200字で書いた矛盾【エッセイ】を1000字に減らし応募することにしました。


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