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文化としての酒とクラシック音楽を思う――アミーキティア管弦楽団酒蔵コンサートプログラムノート

本稿は2023年3月26日(日)に実施した、山名酒造×アミーキティア管弦楽団「酒蔵コンサート」で配布したプログラムノートを再掲したものです。

灘の男酒、伏見の女酒という言葉を聞いたことがあるかもしれない。「一麹、二酛、三造り」と言われる酒造りだが、それを支えるのは水だ。灘五郷に流れる水は「宮水」とも呼ばれるミネラル分の多い硬水で、しっかりとした味の酒になる。他方で伏見に流れる水はマグネシウムやカリウムなどが程よく含まれる軟水で、なめらかな淡い味の酒になる。ここ奥丹波は、現在の行政区分では兵庫県に当たるが、かつての丹波国はむしろ現在の京都府に大きくまたがっていた。そして実は、奥丹波は女酒だという。この地域は、瀬戸内海から吹く風と、太平洋から吹く風とがぶつかって発生する「丹波霧」のおかげで作物が潤う。そうした水がもしかすると一度京都の地面をくぐり、丹波にも伏見にも湧き出る水となっているのかもしれない。

 酒も音楽も、僕たちの文化だ。では、文化とはなんだろうか。ある音楽学者は、西洋音楽史を川に例え、その上流には古楽が、その河口付近にはクラシック音楽があると言った。そして今日の音楽とは、ほかの多くの川(音楽ジャンル)とともに流れ込んだ海だと表現した。本日お届けする「クラシック音楽」あるいは「オーケストラ」という川は、自然に流れる川がそうであるように、単に一筋のものではない。その流れは時に分かれ、重なり、長い時間をかけ、様々な過程を経て今、僕たちの目の前を流れている。湧水もまたこれに似て、地下水脈を辿りながら、遠く離れた場所に湧き出る水同士が実はつながっている。その川水や湧水を掬うこと。それは、かつて遠く離れた地域で親しまれたモーツァルトやベートーヴェンを、今この時代にこの場所で改めて演奏することのようだと言える。

 クラシック音楽とは、残るべくして残った素晴らしい音楽だ、と言う人は多い。それは一面で信じてよいことだと思う。けれども、何が歴史上の存在となるかはきわめて、その時代における人々の感覚や欲望によるところが大きい。もしくは、例えば出版や権利保護といった社会的なものに大きく左右されてしまうものでもある。ゆえに「残る」とは、もう一面では、様々な偶然の結果だと言える。まさに、水が僕たちの目の前に湧き出ることのように。あるいは、何万年も前に消滅した星のきらめきが、たまたま僕たちの元に届くことのように。「たまたま」と言ってしまえばなんだかつまらなく聞こえるかもしれないが、僕にはこのこと自体がまず、たいへんロマンティックなことに思えるのだ。

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1716年、当時の丹波国柏原藩が治めていたこの地域に、山名酒造は創業した。本日開演までの間で会場内に流れていた曲は、同じ年、J. S. バッハ(1685~1750)が作曲したカンタータ第155番『わが神よ、いかに久しく。』である。彼は当時、現在のドイツ・テューリンゲン州にあたるザクセン=ヴァイマル公国で宮廷オルガニストを務め、この曲はその職務の一環として作曲された。バッハは、クラシック音楽という川の上流を代表する作曲家だと言ってよい——ただし彼が生きた時代にはまだ、その川は見出されていなかった——。本日のコンサートは、山名酒造、そしてクラシック音楽の川上から始まっている。

オペラ王と称されたG. ヴェルディ(1813~1901)が活躍した19世紀前半とは、クラシック音楽の川が次第に河口に近づき広がる、その喜びと可能性に満ちた時代だった。そしてヴェルディの20歳ほど年下になるC. サン=サーンス(1835~1921)は、作曲家たちがそれぞれの個性から様々な作品を作り上げた、クラシック音楽の成熟時代を生きた音楽家だった。ヨーロッパ各地でクラシック音楽の起源が萌芽したバッハの時代から150年、交通手段の更なる発達によってそれらは互いに影響を受け、クラシック音楽は様々な国や地域で発展した。ヴェルディ『椿姫』(1853)の「乾杯の歌」も、サン=サーンス『サムソンとデリラ』(1877)の「バッカナール」も、共に酒にまつわる名曲である。「乾杯の歌」では酒宴の席で青年貴族アルフレードが、かねてから思いを寄せていた娼婦ヴィオレッタとともに歌う。「バッカナール」では旧約聖書に登場するヘブライ人の勇者サムソンをペリシテ人の美女デリラが篭絡し、その勝利の酒宴が開かれている。酒宴とは古今東西、人々が交わり、あるいは祝祭する場だった。

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水を掬うことのように、文化とは人の手を介して受け継がれていく。酒の歴史は古く、神事と共にあった。鎌倉・室町時代には蔵で酒造りを行い、店で販売する「造り酒屋」が栄えた。造り酒屋の軒先に吊るされる杉玉には、酒の神を祀る大神神社(おおみわじんじゃ)に植えられた杉が使われている。この杉玉を吊るす風習は江戸時代に入り広まったという。このようにわが国の文化として長く続いてきた酒も、その消費量は1970年代頃から減少傾向にある。文化として重要度の高いものが必ずしも消費経済社会で成功するわけではないことは、クラシック音楽に似ている。ここにあって近年、酒に関わる人々は、酒の新しい楽しまれ方を模索し続けてきた。酒に合うレシピを考案する、ワイングラスに入れて飲む、飲食空間のインテリアにこだわる。ある文化が歴史や伝統を積み重ね、一定完成された後で次の新しい形を探すというのは、苦労が伴うことである一方、たいへん創造的な営みである。

 実はそれはクラシック音楽も同じだった。サン=サーンスが活躍した19世紀末~20世紀初頭とは、ベートーヴェン以降のクラシック音楽が技術や発想において一定実践されつくした頃でもあった。おりしも、19世紀において最もクラシック音楽文化を支えていたブルジョア層は、次第に社会の中心ではなくなってきた。そうした背景からこの時代には、担い手にも聴き手にも、新しい音楽の形を探し始める機運が生まれていた。工業社会にあふれる機械や工場の音に範をとった未来派や、ハイドンに立ち返ることで音楽における軽快さを再発見した新古典派が、その機運に応答した。そしてもうひとつの道が、アメリカで花開いた軽音楽やミュージカルだった。L. アンダーソン(1908~1975)は、20世紀に入りアメリカで発展した軽音楽におけるひとつの集大成のような存在である。『アイルランド組曲』(1928)は、ボストンアイルランド協会から委嘱され、アイルランド民謡6曲をオーケストラ編曲した作品だ。パブでジグに合わせて踊るような「アイルランドの洗濯女」や戦地に赴いた友を思う「ミンストレルボーイ」は、どちらも民謡の持つ情緒とアンダーソンの技術が相まって、時代を超えて多くの人がいろんな気持ちを掻き立てられる。こうした曲もまた、クラシック音楽の展開のひとつだった。

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2015年、カリフォルニア州サンフランシスコでSequoia Sake Companyが創業した。同社はカリフォルニアに持ち込んだ渡船(酒米の銘柄のひとつ)を改良した酒米をもとに、カリフォルニアの湧水を仕込み水として酒造りを行ってきた。海外の酒は国税庁の取り決めで「日本酒」とは名乗れないため、この酒は「SAKE」と呼ばれる。これは担い手が酒を愛し、日本の文化や技法をリスペクトしながら取り組んできたことである一方、それはカリフォルニアの風土(テロワール)に支えられ、今後独自に発展していくものでもある。実際にも彼らは、「酒造りの本質をアメリカの文脈で再現する」ことを目指していた。

 歴史や伝統を積み重ねたある文化が別の(国の)文脈に置かれたときにどのような展開を見せるか、という点では、「アメリカのSAKE」と「日本のクラシック音楽」とは重なるところがある。わが国がクラシック音楽(西洋音楽)を積極的に受け入れたのは、明治以降の学校教育においてだった。特に唱歌とは、西洋音楽の技法で書かれた曲か、あるいはクラシック音楽作品を原曲として、様々な歌詞が付けられた歌のことである。中には歌うことで地理や駅名、衛生や栄養について子どもが学ぶことを目指した歌があったり、素朴に土地の風土を歌い上げる歌があったりした。中田章(1886~1931)が作曲した『早春賦』(1913)は、長野県大町市や安曇野地域の寒さ、そして春の暖かさを歌ったものだ。また「早春賦」とは山名酒造の銘柄のひとつでもあるが、聞けば当代蔵元:山名洋一朗さんのお母様がこの曲を好きであることに由来しているという。

 他方で、そうした子どもたちが歌う歌を芸術的な水準まで押し上げようと、大正以降に作られたのが童謡だった。難解な唱歌ではない、真に子どものための芸術性ある歌として童謡は書かれた。日本のクラシック音楽における最重要人物のひとりである山田耕筰(1886~1965)は、詩人の北原白秋や西條八十とともに、こうした理念を共有していた。石川亮太『赤とんぼ幻想曲』(2012)は、山田の「赤とんぼ」(1927)を変奏曲風にアレンジしたオーケストラ曲である。山田はまた、日本にオーケストラを根付かせようと東京フィルハーモニー会や日本交響楽協会などを立ち上げたことでも知られる。こうした個々の団体はどれも短命に終わったが、山田に影響を受けた近衛秀麿が立ち上げた新交響楽団は、後にNHK交響楽団となり、今に続いている。日本で新たな文脈を得たクラシック音楽は、このようにこの国でひとつの文化として今日に歴史をつないできた。

アンコールでお届けした『六甲おろし』(1936)を作曲した古関裕而(1909~1989)は、ある意味で「日本のクラシック音楽」のひとつの到達点と言ってよい。彼は若き日にムソルグスキーや山田耕筰に憧れ、クラシック音楽の作曲家として身を立てる夢を抱いて福島から上京した。しかし時代がそれを簡単に許さず、軍歌・歌謡曲・社歌・校歌・劇伴音楽など、実に様々なジャンルの作品を世に送り出す音楽家となった。その彼の在りようは、実に様々な音楽であふれる今日からみれば、ヨーロッパで生まれたクラシック音楽が現在の日本につないだ音楽文化をその身で体現していると言える。バッハから300年、クラシック音楽の川はこのように、僕たちの手元まで流れてきた。そして僕たちは今、その川の水を掬っているのである。

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『丹州蔵人之譜 – Kurando no Fu -』は、コロナウィルスが猛威を振るい始めた2020年に、山名洋一朗さん、作曲家の丸谷雪さんとともに制作したオーケストラ曲である。洋一朗さん、丸谷さん、そしてアミーキティア管弦楽団メンバーは、半年間定期的にオンラインで集まり、互いに新曲に関するアイデアを出し合った。酒造りとはどういうものか、丹波地域とはどういうところか、造り手はどういう思いを持っているのか。洋一朗さんから酒にまつわる様々な話を聞き、それを音楽で表現する方法を、丸谷さんと楽団メンバーとで考えた。「蔵元として、酒を誰がどんなふうに作っているのかを身近に感じてもらいたい」「酒造りはコントロールが効かない「生もの」で、それは演奏と似ている」「杜氏は指揮者かもしれない、いやティンパニかもしれない」「味を左右するのは水、でもやはり一番大事なのは人」…。興味深いやり取りが何回も続いた。この制作にかけた半年とは、酒蔵とオーケストラとが互いのことを知り合う半年だった。そしてまた、相手のことを知ることで、お互いが自分たちの文化に出会い直す半年でもあった。

 人の手によって長い間受け継がれてきた文化としての酒と音楽。その局面には常に、人々の生活、暮らし、そして人生があった。僕たちのようなアマチュアオーケストラは、そのメンバーのほとんどが職業音楽家ではなく、日頃はそれぞれが様々な仕事や役割を、職場や家庭、地域で担っている。また世代も幅広く、出身地域も多様だ。僕は(クラシック)音楽文化というとき、いささか大げさに言えば、その文化をつないできたのは、僕たちのように音楽が好きで、あるいは音楽に生かされ、日々の生活の中で音楽が糧になるような生き方をしてきた、無名の多くの音楽家たちによってではなかったかと思う。人によっては仕事や生活の都合から思うように音楽に取り組めない時もあるが、皆それぞれの仕方で音楽と向き合い、互いに音を重ね合わせている。そうした無数の場がこの音楽文化をつないできたのであり、その交歓の光景は実に尊い。

酒もまた同じであり、食卓で、親睦の場で、祝いの席で、酒は欠かせないと笑顔で盃を上げてきたあまたの市井の人々によってその文化は受け継がれてきた。本日のコンサートや蔵開きで、「ああ、酒はいいなぁ、クラシック音楽はいいなぁ」と思っていただけたのならば、僕たちの川の流れは、またひとつ川下へとつながっていくのである。次にその水を掬う人のもとに。

 アミーキティア管弦楽団主宰 常盤成紀
令和5年3月26日

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