見出し画像

踊ること、繰り返すこと、生きること——新解釈ボレロ!- きょうもいちにち -

新解釈ボレロ!-きょうもいちにち
---------------------------------------------------------------------
音楽の本質は変奏だが、その変奏とはつまり、いくつかの要素の変化を伴う繰り返しのことを言うのだ——ケージは師であるシェーンベルクのこの考えを受け継いでいた。

《ボレロ》が見せる循環・円環は、わたしたちが「繰り返す」毎日、つまりは人生のようだ。朝起きて、昼なにかをして、夜寝る。もちろん、夜型には夜型の暮らしがあると思う。いずれにしても、わたしたちは毎日、だいたい似たようなことを繰り返しながら、でも今日は昨日とは違う何かがあって、明日は今日とは違う何かがある。そんなことを喜んだり、へこんだり、わたしたちの人生はそうやって続く。

そんな何気なさを、日々起こるけだるさや喜びを、生きる限り持ちたい明日が来ることへの信念を、新しい仕方で《ボレロ》から感じ取ってみたい。かつてトスカニーニは、ラヴェルが思うよりも速いテンポで《ボレロ》を振り、それに苦言した本人に対してこう言ったらしい——この作品が本当に分かっていれば、こうなるはずだよ。

パフォーマンス・ステイトメント

2017年から続く、釜ヶ崎芸術大学×アミーキティア管弦楽団「音楽とことばの庭」シリーズ。この6年目となる2022年11月に、《新解釈ボレロ!- きょうもいちにち -》を上演しました(以下、新解釈ボレロ)。この新解釈ボレロは、モーリス・ラヴェル(1875~1937)の言わずと知れた名曲『ボレロ』(1928)を、盆踊りと連歌の方向から再解釈して構成したパフォーマンスです。本番では、(後でご紹介する)特殊なルールに従って演奏される『ボレロ』に合わせて、盆踊りが踊られたり、短歌が読み上げられたりします。

この企画は、本番である11/19当日に向けて、まず10/8に「盆踊りとは何か/ボレロとは何か」というテーマのトークを行い(踊念仏に取り組む江藤まちこさんとの進行)、次いで10/16に公開リハーサルとして、本番に読み上げられることになる短歌を合作俳句の要領で作成しました(合作短歌)。

もちろん、10月時点である程度のコンセプトは固まっていたのですが、例えば10/8のトークでは、リサーチ的な意味合いで「盆踊り」や「ボレロ」について整理することでアイデアが際立ち、また10/16の公開リハでは、短歌を制作するプロセスそのものを連歌的にしようという発想から「合作短歌」の手法が生み出されるなど、実にクリエイティブなワーク・イン・プログレスを経て、本番を迎えることができました。

トークでは、中川眞先生(音楽学者)から盆踊りの要素として「恋愛」「娯楽」「スピリチュアル」が提示される中で、特に「スピリチュアル」の要素が欠かせない点は、大変重要な指摘だと感じました。曰く、「コロナ禍で全国各地の盆踊りが中止となったが、それは生者の生命を第一に優先してのことである。しかし共同体とは生者だけのものではなく、生者と死者によって成り立っている。そして盆踊りはその事実に基底している。」この部分は、今回の「新解釈ボレロ」が実は十分に応答できずに終わった点でもあります。そしてまた、この企画を具体的に構想する時点で、中川先生から「この企画を通じて、その場にどのようなコミュニティ(共同体)を立ち上がらせたいのかを考えるといいよ」とアドバイスをもらっていました。それがどこまで意識して実行できたのか、どういったことが結果的に起きていたのかを整理する意味で、今回のこの「新解釈ボレロ」を振り返りたいと思います。


新解釈ボレロ——会場の様子

まず、この「新解釈ボレロ」の構造と流れについてご紹介します。当日は、進行上の説明においても、すべては種明かしできませんでしたので、ここでその意図も含めて記したいと思います。

会場レイアウト

レイアウト図面の上方部が、釜ヶ崎芸術大学(ココルーム)の中庭に当たります。そして下方部が、屋根があって普段は食卓が並んでいるテラス席です。中庭では植え込みを中心に灰色矢印に従って周回できる小道があり、今回は、和太鼓奏者と音頭取り(PC卓)を樹木のそばに配置して、その周囲を踊り手が周回するようにしました。なお今回は、和太鼓を打楽器奏者の宮本友季子さん(アミオケメンバー)に担当してもらいました。

僕は中央でPCを二台操作します。片方は演奏者(黄丸)に向けたモニター1に繋がり、もう片方は中庭に設置されたモニター2に繋がっています。モニター2は、周回中の踊り手が見えるように設置されています。

そして赤点線丸印が、短歌の読み上げポイントとなり、公開リハで作成した短歌は、あらかじめここに貯めておかれます。そして読み上げ担当になった踊り手は、読み上げサポートスタッフが見せる短歌をこの場所で読み上げます。

モニター1(楽器の名前が表示される)
音頭取り台・和太鼓/モニター2(日付が表示される)
スネアスタンドに設置された和太鼓(締太鼓)

新解釈ボレロのシナリオ

この節では当日のシナリオをすべて詳細に記述していますが、やっていることはだいたい以下の通りです。これだけ押さえていただければ、次節まで読み飛ばしても大丈夫です。

①ボレロに合わせて、踊り手が周回しながら踊る(自分が朝・昼・夜にやる動作から作った動き)
②ボレロで主題(メロディ)が演奏されるたびに、踊り手は一人ずつ前に出てきて、メロディ演奏の横で短歌を読み上げる
③ボレロでは、間奏に入ると、次の主題(メロディ)をどの楽器が演奏するかがモニターで指示される(楽器選択はランダム関数によって決まる)
④最終場面(転調して最後に向かう場面)で踊り手は帰り支度など一日を終える身振りをして、最後の1音で全員が「寝る」
⑤鶏の声(オーボエ)で起きて、「おはよう」「行ってきます」などと言いながら会場を去る
⑥本番開始直前から実はずっと叩いていた和太鼓が叩き終わったら終了

★以下、シナリオの全容★
【冒頭の状態】

・宮本さんは和太鼓の位置に、踊り手は庭の任意の位置でスタンバイ
・和太鼓は、全員がスタンバイ完了する前からppでボレロのリズムを叩く
・音頭取りが合図をしたら、事前に決めた踊りで周回する(※)
(※この時、和太鼓はmfに、まだオーケストラは演奏を始めない。)
<特記事項>
和太鼓について、本番中はイヤホンで「♩=60」を聴きながら可能な限り正確に打つ。和太鼓からはどこにも合わせないこと。

ボレロのリズム、これを聞くと水戸黄門を思い出す

【踊りについて】
演奏中、基本的に踊り手はずっと踊りながら周回しています。その踊りは、「自分が朝起きてすること、昼していること、夜にすること」を表現した体の動き、もしくはそれを面白く誇張したもの、あるいは(飽きたら)近くの人のまねをする、というもので、当日本番前に全員で練習します。

【本編】
・音頭取り(常盤)が合図を出すと同時にオーケストラは演奏を始める

・演奏の構成:
①スネアドラムのビートは常に和太鼓が刻む(先程の楽譜)
②3拍子の和音(ズ・チャ・チャ)は、ピアノ譜から採譜した3音を演奏する
③主題1×2、主題2×2、主題1×2、主題2×2…という風に繰り返す
 主題ごとの間隔は2小節空け、その間は間奏となる
 (和太鼓のリズムと、楽器の「ズ・チャ・チャ」の3音)

★このように大枠で原曲と変わりませんが、次に来る主題をどの楽器が吹くかがランダム関数によって決まり、その楽器が毎回の間奏中に【モニター1】に表示されます。 
※主題とは言ってみればメロディのことで、ボレロには2種類のメロディがあります(第1主題と第2主題)。

【朗読】
・周回する踊り手の内、間奏中に赤線を越えた人が前に出て、主題が演奏される中で短歌を朗読する
・最初に当たった人は「上の句」を朗読する
・その次に当たった人は「下の句」を朗読する、この交代交代を繰り返す
・自由に節回しを付けてよく、朗読が終われば再び踊り手の中に戻る

・【モニター1】に表示され、主題の演奏に当たった演奏者は、その短歌を伴奏する・寄り添う・雰囲気を付けるように、主題を演奏する
・表示されなかった楽器は3音「ズ・チャ・チャ」を演奏する
・以上について、最後の第2主題まで繰り返す(計18回)

【例外】
・【モニター2】に、間奏に入るたびに毎回ひとつ「日付」が表示される
・もし踊り手の中にその日付が誕生日だという人がいたら、オーケストラは全員で主題を演奏し、踊り手は周回しながら精いっぱい祝う
・この場合、詩の朗読はない

【終わり方】
・9回目の第1主題が終わったら、演奏者は間奏ののち、全員で原曲311小節目以降の楽譜を演奏する
・最終部分の内、転調する箇所で音頭取り(常盤)が合図をすると、周回していた踊り手は、なんとなく「一日を終える動作」をする
(帰り支度、机を片付ける動作など)
・最後の2小節で、その場にいる全員は「寝る」
(急に倒れ込まなくてもよい、各自の考える「就寝」でよい)
 
・全員が「寝静まって」しばらくした後、音頭取り(常盤)が合図をするとホルンがEs(ミ♭)の音をfpからロングトーンで吹く(10秒ほど)
・ホルンが鳴って4~5秒後、オーボエが『死の舞踏』の439小節目以降(鶏の鳴き声)を吹く
 
・鶏の鳴き声と共に、めいめいが「おはよう」「行ってきます」などと言いながら庭・テラスを去る(本当に外まで出ていく)
・全員が去った後も、和太鼓のみpppで叩き続ける
・宮本さんが「もういいかな」と思ったタイミングでお辞儀をして終わる

周期性・円環性・ミニマルミュージック

冒頭のステイトメントにも込めたように、今回の「新解釈ボレロ」は、「日常を繰り返すとはどういうことか、人生を送るとはどういうことかについて、考え、表現したい」という思いで企画・構成されたものです。もちろんラヴェルがこんなことを考えていたわけでもなければ、ボレロを裏の意図はこうだった、などと喝破するつもりもありません。ただ、ボレロにはこの思想的なポテンシャルがあると感じ、先ほどの問いが際立つように様々な角度から再解釈してみよう、というのが今回の試みでした。

ボレロは、ミニマルミュージックの先駆けとされることがあるように、その周期性は間違いなく特徴であると言えます。実際にボレロが創作のヒントを得たのは、工場の周期的な機械音だったとも言われています。くしくも20世紀に入ってからのヨーロッパはまさに機械化・工業化の時代であり、ある意味で無機質ながら周期性を持ったリズム・メロディに、音楽の「未来」が見出されていた時代でした。ふと気づくと、ボレロが発表された1928年とは、日本では昭和3年に当たります。なんとなんと、この作品は「昭和の名曲」だったのです。

この周期性・ミニマル性・円環性とは、まさに盆踊りと繋がるものでした。ただし盆踊りとは、何もやぐらを中心に周回する形がすべてではありません。むしろその形式は後になって生まれたもので、元々は踊念仏に見られる練り歩きから始まりました。とはいえ、今となっては音楽的な円環性をヴィジュアルでも体現するこの盆踊りとは、実にミニマルミュージック的だと言ってよいと思います。

ちなみにミニマルミュージックとは、ある一定の音楽的断片を反復させながら、そこに生まれる差異や変化にも注目した音楽です。僕が以前関わっていた丹波音頭(京都府中部)は、音楽と歌詞(浄瑠璃崩し)の周期が微妙にずれていて、初心者は歌詞を聞いてしまうと踊れないということが起こる踊りでした。その中で時折顔を出すトランス感覚に、なんとミニマルミュージックみたいだと感じていた記憶があります。そして今回の「新解釈ボレロ」もまた、踊り手同士が各場面で生み出す「ずれ」が非常に面白いものでした。みんな、テーマである「朝・昼・夜」は共通しているので、ちょっと似ていたり、全然違ったり、あるいは時に模倣もOKなので急に同期しだしたりということが起こりました。これを周期的に15分実行すると、随所で様々なミニマル性を感じ取ることができるわけです。

そしてこの周期性・円環性は、ある意味で僕たちが送る「日常の反復」のアナロジーであるとも言えます。僕たちは文字通り、毎日を繰り返しています。朝起きて、昼に学校や職場、またそれぞれの場所で何かをして、夜は帰ってきて休む。もちろんあまり周期性のない日々を送っている人もいれば、自分は夜型だという人もいるでしょう。でも大きなくくりの中では、僕たちは何かを反復して、ルーティンを辿って生きています。そして僕たちは、普通生きているうえでは、明日もまた東から太陽が昇ると思って就寝します。この信念がないと平時を平時らしく過ごすことはできないという意味で、僕たちの人生は反復を前提としていると言えます。けれども、人生は本当にただの繰り返しなのでしょうか。

偶然性・非必然性・喜び——ベジャール/クライドラー/ケージ

大枠では繰り返しかもしれませんが、僕たちの人生は言うまでもなく偶然性にあふれています。昨日と同じ今日は来ないし、明日もきっと今日とは違う。明日も東から太陽が昇ると思わないと生きてなどいれませんが、どんな明日や明後日が来るかを読むこともできないし、(完全に)用意することだってできません。

ところでボレロと言えば、モーリス・ベジャール(1927~2007)が振り付けた舞踏が大変有名です。彼はボレロだけでなく、ストラヴィンスキー『春の祭典』や、ベートーヴェンの交響曲第9番にも踊りを付けています。この第9はベジャールの死後、彼の遺志を継いで再演され、その制作過程を追ったのがドキュメンタリー映画『ダンシング・ベートーヴェン』でした。以降、第9とボレロは違う作品だ、と言うことを分かったうえで書くのですが、僕はこの『ダンシング・ベートーヴェン』に強烈な違和感を抱きました。よく言われる話ですが、第9とは人類愛・人類平和を表現した大作だとされています。それを表現するために、演出上の意図的に様々な国籍のダンサーが呼ばれ、過酷なレッスンを繰り返します。正確にセリフを再現できませんが、「これができないなら出演しなくて結構」と強く突き放す場面もありました。もちろん、上演の質を最高度に高めるために必要な訓練や精神性なのだとは理解しますが、そんな舞台裏があったうえで提示される愛や平和とは一体なんなのかとも思うわけです。近年の舞台芸術におけるハラスメント問題と連続性を持って眺める目があったとしても、避けがたいことではないでしょうか。繰り返しますが、第9とボレロは違います。またベジャールの見解も今となっては問えない。ですがこれを見て以降の僕は、今回のボレロにおいて「統率」「洗練」「作品優先」とは違った仕方で表現したい、と強く思ってきました。

次にボレロを語るうえで外せないのが、ヨハネス・クライドラー(1980~)です。彼はコンセプチュアル・ミュージックの担い手として、時に強い社会風刺的な作品も発表してきました。その彼の作品の中に、『マイナスボレロ』という曲があります。この作品は至ってシンプルで、ボレロから第1主題と第2主題に当たる要素を完全に抜き去ったものです。言ってみれば、15分ほど延々と伴奏が流れる作品です。そう聞くとつまらなさそうで、ネタが分かってしまえば実際に聴く必要もないかなと思われがちですが、少なくとも僕は、最後まで聴くと面白いと感じましたので、是非聴いてみてほしいと思います。

ラヴェルはある時、「私が書いたただ一つの名曲、それが『ボレロ』だが、残念なことにそこに音楽はない(there is no music in it)」と言ったといいます。これはメロディ性を排除したミニマルミュージックを作った、という意味で言ったものと思われます。そこでクライドラーは、そのボレロから主題(メロディ)を差し引いたものを、『マイナスボレロ』として提示しました。no(=0) musicから引いたのでminusだというわけです。

今回の「新解釈ボレロ」は、ここに改めていろいろなものを足したものだと言えます。それは踊りや短歌でもあるし、関数に指示されて演奏されたメロディでもあります。では、そのメロディが改めて足されたボレロは、ただボレロに戻ったということでしょうか。一度引かれたものは、まだ引かれていなかったあの頃には戻れないという意味で、仮に完全にボレロが再生されたとしても、それは元のボレロではないでしょう。まさに僕たちの人生が、何かを経験すれば、もう経験したことのないあの頃には戻れないように。僕たちはそれを普段、成長や変化など、様々な言葉で言い表します。

そして最後に、この「新解釈ボレロ」の構成上最も重要な人物が、ジョン・ケージ(1912~1992)です。ジョン・ケージについては、以前に紹介記事を書きましたので、興味がおありの方はそちらも参照していただけると幸いです。

今回、毎回の間奏中に次の主題を演奏する楽器を決めるのに、ランダム関数を用いました。ケージは『易の音楽』という作品以降、占いや乱数列によって音程・ダイナミクス・照明・奏者選択を行うという手法を好んできました。それは、一定のルールの中で偶然を発生させることで、作曲者の意図が排除された音楽を生み出すことを志向した手法でした。

元々のボレロは当然、ラヴェルによって全編に渡り、あらかじめスコア上で各楽器の演奏箇所が指示されています。その七変化ともいうべき組み合わせの数々と進行は、非常に高度な技術とセンスに基づいていると言えます。そのボレロに正しく敬意を払ったうえで、今回はここを崩していくことにしました。今回のルール(乱数)に沿えば、冒頭からいきなりtutti(全員合奏)かもしれないし、最後がたった一人だけかもしれない。そのピークはどこで何回訪れるかは読めないし、場合によっては最初から最後まで「当たらない」楽器が出てくる可能性もある。(さすがにこれはちょっとかわいそうなので、もしそうなった人がいたらビールおごります!って言ってました笑)

僕たちの人生もこれに似ていて、山場みたいなものは必ずしも人生の最後に来るとは限らないし、人から見て盛り上がりに欠けている人生にも、その人にとっての山場はある場合があります。演奏者にとっても、予定調和の中で役割が与えられるのではなく、何かの局面を支える役割が唐突に降ってきてもいいし、僕たちの日々もある種そのようなものだとも思えます。このように「新解釈ボレロ」では、僕たちの日常における「繰り返すこと」と「繰り返さないこと」、周期性・円環性と偶然性・非必然性が、様々な形でバランスを取っています。

加えて、今回は「例外ターン」がありました。それは、【モニター2】に表示された日付が誕生日の人がいれば、その場にいた全員が全力で祝う、という場面です。実はこれ、リハーサルでは一度も出ず、本番も冒頭で一人出ただけで、それ以降は出ませんでした。まあ、366日の日付がランダムに表示されるわけですから、なかなか当たらないわけです。当たらなさ過ぎて、「月だけのランダム表示にしてはどうか」という意見も上がりましたが、やはり本番もこのままで行くことにしました。それをすると、間違いなく大量の当選者が出てしまい、まったく面白くない。特別なことというのは、発生頻度が読めず、貴重であるから面白いし、喜びになるのです。だから別に出なくても、それはそれでいいと思っていました。

今回の僕の仕事は、間奏に入るたびに両モニターに映し出されるエクセルファイルの「再計算」をひたすら繰り返すことだけです。銀色のPCを2台広げて台上で操作しているとまるでDJのようですが、やってることはただひたすらエクセルの再計算をするだけという「ハリボテ」ぶりで、リハーサル中も客席からは、「なんてキッチュな光景なんだ」という声が聞こえてきました。正直、とても楽しかったです。

動作確認を行う音頭取りと和太鼓

ところで、今回は合作で作った短歌を、上の句と下の句とで分けて朗読していきました。「五七五」→「七七」→「五七五」→「七七」→……と句を受け継ぎながら続けていく遊興は「連歌」と呼ばれるものです。今回はこのボレロの円環性を踏まえて、順番に受け継いでいく連歌を想定していました。そしてボレロは最後転調する直前の第2主題まで含めると、第1主題と第2主題が合計で18回出てくるのですが、18回で完結する連歌を「半歌仙」(歌仙=36回連歌の半分)と呼びます。この数字的な一致には奇跡を感じました。また、主題は2種類しかありませんが、演奏と朗読はお互いに聴き合って/聴かせ合っているわけで、句が変われば音楽(演奏)も変わります。それはまさに「単なる繰り返しではない」ことの表現でもあります。ちなみに「ボレロからは人の声が聞こえる」という人がいて、それもまた朗読を重ねる発想に繋がりました。確かに、冒頭から主題は中音域で演奏され続けており、音域的にも口ずさむ歌に近いのかもしれません。

短歌を読み上げる様子(釜芸おなじみのトラメガ)

どう終わらせるか——朝が来た

このパフォーマンスで演出を考える際の最大の難問が、「どう終わらせるか」ということでした。何せ、日々の営みを表現する音楽を終わらせることは、何もしなければ「死」を意味しうるからです。決して「死」が悪いというわけではありませんが、同時に、それを回避する手立ても探したいと思っていました。大雑把な言い方ではありますが、近代西洋音楽自体が直線的な人生観、キリスト教的な人生観を体現する芸術でもあります。産まれてから一直線に死に向かい、最後で審判を受ける。このモデルが近代西洋の人生観を基底していたと言えます。円環するボレロもまたこのモデルからは抜け出せません。

これに対して「寝たらいいんじゃないの?」と言い放ったのが誰であろう上田假奈代さんで、さすがとしか言いようがないのですが、そこで僕は、寝た後の起き方を考えました。そして取り入れたのが、カミーユ・サン=サーンス(1835~1921)の交響詩『死の舞踏』(1874)の終盤に出てくる、鶏の鳴き声でした。

「死の舞踏」は元々、14~15世紀で流行した寓話を題材として15~16世紀に現れた美術の様式でした。「身分や貧富の差に関係なく、人は死ぬ」という諦念や死生観が基盤となっていて、跋扈する亡者たち(生前は様々な身分だった者たち)が描かれます。実際にも当時、戦争(100年戦争)や疫病(ペスト)で多くの人々が死に、また殺されていく時代でした。サン=サーンスの交響詩もまた、後世の視点からその狂乱を表現するものですが(元々あった詩に付けられた曲です)、亡者たちの狂乱がピークを迎える時、ホルンの音で太陽が昇り、オーボエの音で鶏が鳴きます。

実はこの「ボレロで盆踊り」とは、コロナ禍で夏祭りが中止となり、盆踊りができなくなった釜ヶ崎で、新たに盆踊りを作り踊ろうという企画から端を発するものでした。また、戦争・疫病と聞いて、日々の中で皆さんにいろいろと思うところがあるのは、言うまでもないことでしょう。今回合作した短歌には、実はひとつだけお題がありました。それは、「この3年」と聞いて思うことを書いてください、というものです。この3年とは、まさにコロナ禍の3年を指しています。今回は、その夜が『死の舞踏』における「鶏」をきっかけに「明ける」という演出をしており、この部分にささやかなメッセージを込めていました。

人間と時間

このパフォーマンスは、起きてから踊り手の全員が「おはよう!」「行ってきまーす」「もう行かなきゃ!」などと言いながら建物から出ていくシーンで終わります。ただ、本当の終わりは、和太鼓がもう十分叩きつくしたと思って手を止めて一礼するところまでです。本番中、宮本さんにはイヤホンでテンポ60のビートを聞いてもらい、そのテンポを一切揺らすことなく叩いてもらっていました。テンポ60(♩=60)とは、時計の針と同じテンポです。パフォーマンスが始まる前からうっすら叩き、最後は全員が去った後も叩き続けるこの和太鼓は、人間の営みとは関係なく常に一定のテンポで流れ続ける「時間」を象徴しています。これは、何があろうとも明日が来ることの希望でもあります。

他方、1分を60秒と定めているのはこの世界で人間だけで、地球の周期や生物の生命活動から考えると、1日には丁度24時間ではなく、いくらかずれています。なので「時間が進む」というのは完全に人間から独立している一方、「時間を刻む」というのは極めて人間中心的なことであり、希望とはまず、人間にとっての希望なのです。

リハーサルでテンポ通りにリズムを刻む宮本さん

新解釈ボレロはどんな踊り/コミュニティだったのか

ラヴェルはスペインとフランスとの国境にあるバスク地方の出身で、このボレロに使われている主題は、彼の出身地で踊られていた「ファンダンゴ」のメロディが元となっています。郷里のエスニックな音楽への愛着は、地元の盆踊りを思う日本人の心と少なからず重なり合うところがあると思います。

終わった後、嬉しいことに踊り手として参加した皆さんから、実に多くの感想をいただきました(そう言えば、当日皆さんに書いてもらった感想シートをまだ読んでいない……!)。「自由な中に一体感を感じた」「外から見ているとひとつの生命体のように見えた」というダンス的状況に対する感想もあれば、「1ヶ月くらいの日々を過ごしたような気分になり、人間のミクロとマクロを同時に体験したようだった」というように、日々行うこと(ミクロ)と日常を生きるということ(マクロ)という両方が同時に際立つような、そういう思いをされた方もおられました。

また、自由に踊ったり、人の模倣をしたり、その中で集団全体が同期したりカオティックになったりする様子が、盆踊りのダンス的な本質を表しているようだった、という感想もありました。

こうした感想を聞くと、僕たちが日々生きる中で当たり前すぎて忘れている「日々の細部」と「日々生きることそのもの」の両方に参加者それぞれが思いをはせつつ、それが踊りの中で——時に強烈に、時にささやかに——ほかの人と共有されることでまた、互いに気づきや面白さが発生するような、そういう時間になってくれていたのかもしれないと思いました。

踊りを通じて生きる意味が交換され、「いいね」「面白いね」と楽しみながらその場全体が構成される様子は実にダンス的だと言ってよく、「統率」ではない形でそうしたコミュニティを(一時的であれ)立ち上げられたことは、僕にとって大変な喜びでした。

合作短歌の発表の様子

この「新解釈ボレロ!- きょうもいちにち -」については、〈Study: 大阪関西国際芸術祭 2023〉に出展する釜ヶ崎芸術大学の芸術祭関連イベントとして、2月8日(水)19時~に改めてトークイベントを行う予定です。この記事を読んで関心を持たれた方は、是非そちらにも足をお運びください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?