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「蟹工船」をわかりやすくする

今回取り上げるのは昭和初期に出版となった「蟹工船」です。有名な作品ですが、これまで読んだことはありませんでした。東北地方の方言で会話する部分以外は、わりと読みやすい作品なのではないかと思います。

「おい、地獄さ行ぐんだで!」
二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように伸びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。ーー漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹をすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。
小林多喜二「蟹工船」 冒頭より引用

蟹工船の冒頭部分です。初見ですぐに意味を理解できないと思いますが、読み返すと腑に落ちます。おそらく作者は、あえてこのようなわかりにくい書き方をしていると思います。

何がわかりにくいか?

何がわかりにくさを作っているのでしょうか? まず構造を見て見ましょう。

最初にセリフがあります。まだ登場人物が紹介されていないので、読者は「だれがこのセリフを話しているのだろう?」と思います。

「二人は〜」とあるので、どうやら船の上でどちらか一人がそのセリフを話したのだろう、と読者は予測します。

「蝸牛(かたつむり)が背伸びをしたように伸びて〜」とあります。ここにきて読者は「あれ?船の上の2人とどう関係があるの?」と考えます。このあたりで混乱するわけです。

先を読み進めるとわかりますが、「蝸牛〜」の部分は修飾語で「函館の街」を説明しています。

「二人は函館の街を見ていた」という文章が、たくさんの修飾語によって長くなっていることがわかります。

以上をまとめると次のようになります。

修飾語が長くなるとわかりにくい

一般的に、修飾語が長くなるとわかりにくくなります。特に、修飾する言葉がなかなか出てこないと、たいていの読者は勘違いするため、2度読みすることになります。

修飾語が長くなる場合は、どうしたらいいのでしょうか?

コツは、修飾すべき言葉を先に書くことです。上記のイラストの例で言えば、「ワインの香りは、〜」と主語にしてしまえば、読者は「述語がこれから続くだろう」と予想して、すんなりと読むことができます。

上のイラストの例を直してみましょう。

ワインの香りは、まるで、少女がイチョウ並木を歩いているとモカシンブーツの裏に枯葉がまとわりつき、そこに秋のそよ風が吹いてきたようなものであった。

「少女が〜」のようなたとえ話が来る場合は、「まるで」などの言葉を冒頭につけると、よりわかりやすくなります。架空の話が突然始まるととまどいますが「まるで」をつけることで読者は「あ、これからたとえ話が始まる」と先を予想できるからです。

蟹工船をわかりやすくする

では、蟹工船の冒頭をわかりやすく直してみます。

二人はデッキの手すりに寄りかかっていた。函館の街は、まるで蝸牛が背伸びをしたように海を抱え込んでいるように見えた。
「おい、地獄さ行ぐんだで!」
ーー漁夫は指元まで吸いつくした煙草を、唾と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように色々にひっくりかえって、高い船腹をすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。

もともとの文章にくらべて、情景がすっと頭に入ってくると思います。

元の文章は「蝸牛が背伸びをしたように伸びて〜」とありますが、後半の「伸びて」は削除しました。「頭痛が痛い」「馬から落馬」「今朝の朝礼」などの例のように、同じ意味や言葉が続くとおかしいからです。

まとめ「修飾語を長くしない」

今回のまとめです。わかりやすい文章を書く際は、修飾語を長くしないようにしましょう。どうしても長くする時は、先に修飾する言葉を書いてしまうといいです。もう1点は、架空の話が来る時は「まるで」や「例えば」などの言葉を直前に入れると、読みやすくなります。

「蟹工船」の内容と補足

蟹工船とは、カニを獲って缶詰にするための工作船のことです。船の上なので当時の「工場内での労働法」の適用を受けず、さらにロシアなどの領海内で違法に作業するため「日本の法律の適用外」でした。そのため蟹工船では、過酷な条件のもとで労働者が何ヶ月も働かされていたようです。

小説の蟹工船では、抑圧されている労働者を浮き彫りにしています。沈没しそうでS.O.Sを出している川崎船(木造の工作船)を助けなかったり、ノミやシラミなどがいる寝床(文中では「糞壺」と表現)で寝かされたり、船員(漁夫、水夫、火夫)が栄養不足からくる脚気で亡くなる様子が描かれてます。

蟹の生ッ臭いにおいと人いきれのする「糞壺」の中に線香のかおりが、香水か何かのように、ただよった。
小林多喜二「蟹工船」 十より引用

ストーリーの終盤、我慢の限界になった船員がストライキを起こします。

「諸君、とうとう来た!長い間、長い間俺達は待っていた。俺達は半殺しにされながらも、待っていた。今に見ろ、と。しかし、とうとう来た。
諸君、まず第一に、俺達は力を合わせることだ。俺達は何があろうと、仲間を裏切らないことだ。これだけさえ、しっかりつかんでいれば、彼奴等如きをモミつぶすは、虫ケラより容易いことだ。ー(中略)」
小林多喜二「蟹工船」 十より引用

蟹工船は、非常に細かい描写が特徴です。臭いの描写、方言が入り混じる会話、波しぶきの様子などを丁寧に書くことで、まるで自分が蟹工船に乗っているかのような気分になります。文章をわかりやすく直しておきなから言うのもなんですが、元の文章の方が力強くて良いと個人的には思います。

直前の引用文も、文章のセオリーから言えばむちゃくちゃなのですが、抑圧された労働者の雰囲気や息遣いが聞こえてきそうなパワーを持っている気がします。

【補足事項】ここでは、現代に生きる人たちがよりわかりやすく情報を伝えるためのトレーニングとして、一般的に名著と呼ばれる書籍の文章を引用しています。修正や補完は、あくまで「現代に暮らす人たち」が理解しやすくするためのものです。登場する名著の文学的価値は依然として高いと考えています。その芸術性を否定したり不完全さを指摘したりする意図はないことを、強く宣言します。また引用した文の作者の思想や主張に、同意するものではないことも添えたいと思います。

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