太宰治

「人間失格」をわかりやすくする

太宰治さんの代表作の1つ「人間失格」を取り上げます。この作品は戦後まもなく執筆されましたが、最終回の掲載号が発表になる直前に著者が自殺をしてしまいます。読者の中には「読んでいてつらくなる」との感想が多いなど、誰しもが抱いている劣等感などをつまびらかに表すその作風は、現代でも高く評価されています。

自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら敷布、枕のカヴァ、掛蒲団のカヴァを、つくづくつまらない装飾だと思い、それが案外に実用品だった事を、二十歳ちかくになってわかって、人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。
(太宰治「人間失格」 第一の手記より引用)

主人公の大庭葉蔵が、昔を述懐しているシーンです。一文がとても長いのがわかります。わかりにくくしているのは、それだけではありません。「順接なのに逆接の接続詞を使っている」ことが原因の1つです。

文章の構造を理解する

「逆接の接続詞を使うと、文意が変わるというのは当たり前だろう」と感じたとすれば、非常に正しい感覚だと思います。しかしながら、順接なのに「〜が、」を使ってしまうケースは、ままあります。

元の文では「自分は子供の頃から病弱で〜」とあり、続いて「寝ながら敷布〜」と、特に話題は転換していないのに「〜が、」で繋げられています。

なぜ、このように書いてしまったのでしょうか? おそらく、その理由は次の文章にある気がします。少し元の文章を改変して比べてみます。

作者ではないのでわかりませんが、おそらくこの文意を表したいがために「〜が、」をつけたのではないでしょうか。

いずれにしても、「〜が、」を使う場合は、直前の文章と直後の文章を比較して、逆の意味になっているかどうか確認した方が、読者にとってはわかりやすいと思います。

当たり前のことですが、私自身が文章を書いていても間違えることがよくあります。特に、見返す時に注意した方がいいでしょう。

私がこの文章を直すとしたら、以下のようにします。

自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みました。寝ながら敷布や枕のカヴァ、掛蒲団のカヴァを、つくづくつまらない装飾だと当時は思っていましたが、その装飾が案外に実用品だった事を二十歳近くになってわかって人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしたものです。
(太宰治「人間失格」 第一の手記より引用して改変)

「当時は」を挿入した理由は、より前後の対比を際立たせるためです。「幼い頃はわからなかったが、二十歳近くになってわかった」ということを鮮明にするために、あえて挿入しました。

できるだけシンプルな表現にする

「人間失格」からもう2点、引用をしてみます。

けれども、そのひとは、言葉で「侘びしい」とは言いませんでしたが、無言のひどい侘びしさを、からだの外郭に、一寸くらいの幅の気流みたいに持っていて、その人に寄り添うと、こちらの体もその気流に包まれ、自分の持っている多少トゲトゲした陰鬱の気流と程よく溶け合い、「水底の岩に落ち附く枯葉」のように、わが身は、恐怖からも不安からも、離れる事が出来るのでした。
(太宰治「人間失格」第二の手記より引用)
(中略)或いは、一日に鼻紙一枚の節約を千万人が行うならば、どれだけのパルプが浮くか、などという「科学的統計」に、自分は、どれだけおびやかされ、(以下略)
(太宰治「人間失格」第三の手記より引用)

一文が結構長いので、途中を大きく省略しました。ここで注目してほしいのが「なくてもいい言葉は、極力使わない」ということです。

なくても意味が変わらない言葉の代表格が「〜することができる」と「〜を行う」です。これらを使わないようにするだけで、ほんの少しですが読みやすくなります。

上の図の例にもあるように、「代替することができる」という言葉は「代替できる」と同じ意味です。同じ意味で文意も変わらなければ、言葉が少ない方がわかりやすいです。

「〜を行う」も同じです。「確認を行う」よりも「確認する」の方が、頭に入りやすくないですか? 少し難しく言えば、「確認を行う」という言葉は、動詞をわざわざ名詞化して「行う」とつけることでさらに動詞化しているのです。そんなことをするよりも、はじめから動詞で使った方がわかりやすいですよね。

以上をふまえ、引用文を直してみましょう。

この方が、すんなりと理解できると思います。下の文では「節約をする」という言葉を使いたいがために、真ん中にあった主語を冒頭に持ってきています。

わかりやすさだけで言えば、主語は文の冒頭にあった方がいいです。ただし小説などは、毎回主語が冒頭にあると“読者が飽きてしまう”ので、倒置法や挿入法を使ったり、省略してテンポを早くするなどの技法が用いられることがあります。

今回のまとめ

今回のまとめは「逆接は、文意が転換する時にしか使わない」「『〜することができる』『〜を行う』という表現を極力使わない」です。

これらはあくまで、わかりやすい文章を書くための原則です。例外も“例外なく”あることを理解しましょう。

「人間失格」の中身と補足

「人間失格」は、太宰治さんの自伝的小説だと長い間言われてきました。主人公の大庭葉蔵は太宰さんと通じるところが多いからです。

内気な葉蔵はいつも自分に自身がなく、本当の自分をさらけ出せずにおどけることが多く、青年になった後も女性にはもてるものの、自堕落な生活を送ります。心中して相手の女性は亡くなったものの、自分自身は一命を取りとめます。アルコール中毒を止めようと手を出したモルヒネの中毒になり、最後は廃人同様になるという結末です。

本編は葉蔵の手記でまとまっています。「恥の多い生涯を送って来ました」から始まり、「自分はことし、二十七になります。白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます。」で終わる流れは、読後の疲労感さえも生まれます。また、読点が多い文体により、まるで主人公が息切れをしているかのように感じられるのも、特徴の1つだと言えます。

ずいぶん前に、読書感想文のテーマとして選びましたが、当時はよくわからず「なんだネガティブなやつだな」という感想しか抱きませんでした。あらためて読み返すと、葉蔵本人は「人間、失格。」と卑下しているものの、他人に危害を加えようとする意図がない分、純粋すぎたのだろう、という感想を持ちました。

ただ、けっこうなパワーを吸い取られる小説なので、元気な時に読むことをおすすめします。

【補足事項】ここでは、現代に生きる人たちがよりわかりやすく情報を伝えるためのトレーニングとして、一般的に名著と呼ばれる書籍の文章を引用しています。修正や補完は、あくまで「現代に暮らす人たち」が理解しやすくするためのものです。登場する名著の文学的価値は依然として高いと考えています。その芸術性を否定したり不完全さを指摘したりする意図はないことを、強く宣言します。また引用した文の作者の思想や主張に、同意するものではないことも添えたいと思います。


馬券が当たった方、宝くじを当てた方はお願いします。