盲信は逃避である
何かを信じたい、と人は思う。
宗教
思想
教育
政治
だが、それらを盲信することは危険だと思う。
妄信することは簡単だ。
その方が楽だから。
断片を捉えて全てを理解したように思ってしまう。
若者が何かと言えば神という言葉で表現するのもそうだ。
神という言葉が薄っぺらいものになってしまっている。
盲信する人間は、満たされないものを抱えているのだと思う。
自分自身の現状に対する不安や不満、突き詰めれば自分自身に対して不満を抱えている。
その不安や不満に対する希望を見出だそうとするあまり、簡単に誰かの全てを信じ肯定してしまう。
信じるもの、頼れるものが欲しいのだ。
すがりたいのだ。
その気持ち、分からないではない。
人間は、弱いものだから、何かにすがっていたい。
だから、少しでも希望が見えると、一気に盲信してしまう。
盲信は、弱さの裏返しだと思う。
あの、オ●ム真理教の幹部たちは、高学歴で頭が良かった。
しかし、彼らは心が枯渇していたのだと思う。
その心の弱さを補うために耳ざわりの良い言葉に洗脳されてしまう。
頭は良いが、心が弱いのだ。
心が弱いのはお互い様だが、弱いのなら心地良いものにすがるのではなく、自分自身をよく見て鍛えなければ救われるはずがない。
弱いもの通しが肩寄せ合って孤立しても、弱い自分は変わらず後を着いてくる。
耳障りの良い宗教
耳障りの良い思想
耳障りの良い教育
耳障りの良い政治
これらを簡単に盲信する人は、単に逃げているだけだと思う。
これらすべては、人間が行っていることだからだ。
その人間も私たちと同じ弱さを持った人間だ。
人は、間違うし、罪も犯す。
一人の人間の言うことが、全て正しいなんてことあるわけがない。
私は、この世の中で盲信出来るものはないと思っています。
なぜなら、全ては私と同じ人間が関わっているものだからです。
「あなたを支持する者ですが、今回のあなたの意見には納得がいかない」と言えることが、健全な思考だと思います。
権威主義ではなく、民主主義国家に生きる者として、個人の独立した思考が重要だと思う。
表面だけの美味しい言葉にすがるのではなく、疑うことも必要だ。
色々な情報を目にすると、人間の弱さを感じざるを得ない。
自分を過信し、自分の正義をぶちまけている。
それらは全て自分自身を盲信することから生まれている。
「正義」の反対は「悪」ではなく「もう一つの正義だ」と言っている人がいて納得した。
自分を過信するが余りに妄信してしまう。
盲信は逃避だ。
盲信すれば、楽だからだ。
人間は本能的に楽な方に逃げるものだ。
政治屋の美味しい言葉に逃げる。
宗教屋の夢見心地の言葉に逃げる。
しかし、現実は一向に変わらない。
それは、きっと自分自身が変わらないからだ。
誰かが自分を変えてくれると待っていても変わらない。
自分が変わろうとしなければ、何も変わるはずがない。
楽な方に逃げたくなるけど、何かを盲信せず、自分を良く見て、しんどいことに一歩づつたち向かって行くしかない。
逃げるのは自由だけれど、その先には、また逃げなきゃいけないことが待っているかもしれない。
とてもしんどいことだけれど、どこかで自分を振るい立たせるしかない。
それが自分自身に与えられた人生だと思う。
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