感情表現について。

絵における感情表現とは、演技や音楽におけるそれに似た物がある。しかし絵の学校ではそれは教えませんね。

実はそれも技術の内の筈だけど、どこか情緒とは「神聖にして触れざる物」といわんがばかりに避けている印象すらあります。

結果そういった事に対し「個性」の一言で逃げるか、もしくは放棄し、古典から続く光学的事実に基づいた「正確なデッサン」みたいな、技術のための技術の話に終始してしまう状態になっております。

これは「情緒」ばかりか「感性」についても同様です。内面に関わる一切を神聖視し「技術化」を避ける傾向にあります。

よって新たな技術(表現)をパブリックな物として獲得出来ないから、それを表すパブリックな言葉も生まれず、当然批評は出来ないし、批評の空間も生まれない。

そんな事であるから発展性がないのは当然であり、文化的豊穣さに繋がらないのも当然。

新しいムーブメントも起こらない。

悪いサイクルです。

技術一辺倒による弊害もありますが、技術と向き合えない弊害もあるかと思うのです。

そもそも表現とは技術によって支えられるもの。技術を無視しての表現は実現しないし、技術だけという話は表現活動においては有り得ません。

二つは両輪の関係。

技術のための技術は論外ですが、天然育ちを有難がる才能論や個性論だけをもてはやすのも同程度に論外です。

何故なら、それでは誰も学びようが無いから。

学問や技術として成立させるなら、キチンと「大きな体系」を「学べるもの」として纏めるべきでしょう。

新しいものや、芸術史上に残る真の個性などという物は、おそらくはその先にしか無いのですから。

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