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あのとき思い切って日本を飛び出していなかったら。(その1)


よく「どうしてニューヨークに行こうと思ったのですか?」と聞かれます。

この話をするととっても長くなるので、今回は何回かに分けてお話ししたいと思います。もはや私の生い立ちから話したいと思いますのでお付き合いいただける方はどうぞご覧ください。

1988年6月16日・昭和の最後の年、京都府宇治市で(あの抹茶が有名なところです)細野家の長女として生まれました。

お金にだらしなかった父親。母親はそんな父親と離婚することを計画していたのだけれど、3つ離れた私の兄に、妹か弟がいた方がきっと楽しいと思い、私を産んでから離婚を決意。というわけで私と兄は母子家庭で育ちました。父親の記憶はまったくありません。

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おばあちゃん、お母さんとお兄ちゃん。小さな家族です。

不自由なく楽しく暮らした子供時代ですが、まぁとにかく貧乏でした。子供ながらに”親”が一人しか居ないわけだから、他の家庭よりお金がないのは当たり前だと思っていましたが、例えば兄と私は押入れをベッドにして寝ていたので、友達の家に行って本当の二段ベッドを見たときは衝撃でした。

日本では親が離婚しているというと世間体が気になるというか、子供の頃は学校でちょっと恥ずかしい思いをすることもあったのは覚えているけど、母と兄との3人家族で何も不満に思ったことはないし、何より「お父さんがほしい」と思ったことは一度もありませんでした。

兄からのおさがりで男の子っぽい服ばっかり着ていたし、むしろピンクや赤じゃなくて、青や緑のランドセルやお道具箱を身に付けることは人と違ってクール、と思っていた気がします。

母は裁縫のプロだったので(今も)、小学校時代は誰よりもとびっきりお洒落な防災頭巾カバーと体育着入れを持っていたし、お遊戯会の衣装は最高のクオリティのタヌキの衣装で演技をすることができました。

今思うと朝から晩まで仕事をかけもちしながら、寝る間も惜しんでそういう母親らしいことをやってくれたことは心の底からすごいと思うし、本当に感謝しています。例えば子供時代に家族旅行や豪華な外食をした記憶はまったくないけれど、ピアノや水泳の習い事もやらせてもらったし(そうとうやりくりしてたと思う)何より、愛情たっぷりの環境で育ったことはしっかりと覚えています。

兄はとにかく勉強ができて聞き分けがよく、中学を卒業した後は東京の中でも一番頭のいい公立高校に入学して、国立大学へ進学。自慢の兄です。

私はというと数学、化学、理科などは本当に苦手で、本を読むことと音楽が好きな小学生でした。18年続けたピアノは自分の人生での自信になったし、中学生になってとてもつもなく背が伸びて、すでに170cmあった身長を活かし、陸上競技では走り幅跳びで都大会優勝、しかし途中で日焼けが嫌だという理由でまさかのバレーボールへ転向。この時から熱しやすく、冷めやすいという言葉を親からも学校の先生からもしょっちゅう言われていた気がします。高校二年生までの夢は、オリンピックで日本代表に選ばれることでした。

その夢が(また)変わったのは、「髪を染めてはいけない、短く切らなくてはいけない」という体育会系文化によるルールがきっかけでした。周りには髪を染めたりパーマをしたりしてる友達がいるのに、お洒落への制限があることはとてもフラストレーションでした。

せっかくカットでしか髪型を楽しめないんだったら、すごくお洒落なショートカットにしたい!と思い、当時大好きだったアギネスディーンの切り抜きをもって、一番おしゃれだと思う街、原宿へ出陣。

その3年後、美容師として最初の就職先になる「SHIMA」で、超奇抜なアシンメトリーカットになることに。これがきっかけに人生は変わることになり、私は美容師を目指すのです。

私が美容師になろうと思ったきっかけはスーパー不純で、この時カットしてもらった美容師さん(女性)に、恋をしてしまったからなのです。

続く。

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