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「100分de名著」で学ぶブッダ「真理のことば」 」2回目その3

1.前回のおさらい

人は生まれながらにして煩悩を持って生きている。
うらみや執着は煩悩のひとつであり、苦しみを生む。
煩悩の極みは、無明である。
無明とは、この世の有様を正しく見ることが出来ない愚かさであり、無明もまた、苦しみを作り出す。

出演者:
司会 --- 堀尾正明さん
アシスタント --- 瀧口友理奈さん
講師 --- 佐々木閑(しずか)さん

2.「無明」であるということ

講師:
真理の言葉には、無明を解決する手かがりについて書かれた詩があります。

次に詩をご紹介します。

「愚かな者が
自分を愚かであると自覚するなら
彼はそのことによって賢者となる
愚かな者が
自分を賢いと考えるなら
そういう者こそが
愚か者と言われる」

これは、特に無明をテーマに語った言葉です。
つまり私たちは皆、煩悩を持っています。
悪い人だけが煩悩を持っているのではなくて、生き物として生まれた人は皆、煩悩を持っているし、もちろん無明もあります。
したがって本質的に我々は物を考えるときに愚かな考え方をします。
しかし、私たちの中には無明があると気づいたときに初めて、その人は愚かさから抜け出すことができる。
しかし、自覚できない人は自分の考えが正しいく、自分は賢者だと思っているが、自分の考え方の誤りに気づけないので愚かさから抜け出すことはできません。

ナレーション:
人間は生まれつき煩悩を持っていると考えました。
ではブッダ自身はどのようにして、自分の煩悩を消し去っていったのでしょうか。

今の私達からすると、ブッダは完全完璧な人間ですから、することなすこと全て正しいと思いますが、やはりブッダは歴史的な人間、我々と同じ人物で、悩み、苦しみ、間違って、その最後の結果として、悟りを開きました。

むしろブッダは間違いを犯しながら、最終的に本当の道を獲得したという道筋は、私はとても素晴らしいことだと思います。

3.ブッダの悟り

元々釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタだったブッダ。
ブッダはどのようにして
悟りを開いたのでしょうか?

それは修行の過程である間違いに気がついたことがきっかけでした。

ナレーション:
インド北部にある前正覚山(ぜんしょうがくさん)。
出家した後、シッダールタはこの山で6年間断食を始め、さまざまな苦行を行ったと言われています。
腹の皮は背中に接するほどにまでなり、時には生死の境をさまようこともあったといいます。
しかし煩悩は消えませんでした。

どんなに過酷な苦行をしても悟りを得ることはできない。

間違いに気づいたシッダールタは、苦行を放棄し山を降ります。
衰弱していたシッダールタは村娘スジャータから乳粥の供養を受け、健康を取り戻します。
その後菩提樹の下で苦行から瞑想の修行へと切り替え、悟りを開き、「目覚めた人」ブッダとなったのです。

アシスタント:
苦行だと悟りは得られないのですね。

ブッダも初めは、苦行の末に悟りを得ることができると思っていました。
辛い思いを一生懸命耐えながら、じっと我慢する、そのパワーが自分の心の煩悩を消すという方向に向かうだろうと思って、そして何年間もガリガリの姿で、苦行を続けたんですが、何も起こらなかったんです。
体を痛めつければ忍耐力はつくのですが、煩悩は消えない。
煩悩を消そうとするならば、煩悩を消さなければいけないという心の集中力を持続して、心の中に努力の方向を向けなければならない、ということに気づいたわけです。
伝説によりますと、仲間と苦行しているときに、苦行は意味のないことだと気付いて、すぐに方向転換して、乳粥を食べて、健康回復して、普通の体になって修行を始めたんです。

それを見て、残った仲間は、あいつは堕落した、落伍した人間だと言って、ブッダをすごく馬鹿にしたんです。
そう言われても、ブッダは正しい道はこれだと決めたら、どんどん新しい方向に向かっていくというのが、ブッダの進んだ道で、非常に合理的なんです。

4.「うらみ」から離れるには

司会者:
日常的に、小さなうらみから、大きなうらみまで、人になんとなく怨念を持ちながら生きることをやめられないということがありますよね。
例えば、サラリーマンが異動になって、なんであのポストに行かなければならないのか、あいつが告げ口したとか、あの上司が自分のことを恨んでるんじゃないのかとか、いろいろなことを思い、妄想の塊になってしまいますよね。

講師:
それは大変辛いことですよね。
その場合、そのポストに着くことが本当に私にとって幸せなことなのかという一番の大元のところから、考えるべきですね。
ほかの道はないだろうか、つまり、最初にポストについて、だんだん上に上がっていくことが、自分にとっての幸せの道だと設定しているから、苦しみになるわけです。
出世街道から外れると考えることも、苦しみになります。
ですから、それとは別の生きる意味、生きがいを探していくということも、大切なことです。
ブッダの教えは必ず一歩一歩なんですね。
何か特別なことで一挙に消えることはありませんから、毎日少しずつです。
いつもそれを念頭に置きながら、つまり「正念」ですね、毎日少しずつ自分の心をトレーニングしていくということは可能です。そういう中で、ブッダが説いた理想の境地へ少しずつ近づいていく、たとえそれが完成しなくても、毎日少しずつ良くなっていくという思いは、私たちにとって励みになります。
そのような思いを持って暮らせば、現代の日常生活の中でも、ブッダの教えは十分に生かされていくということです。

自分が中心だという思いを捨てるということが何よりです。

なかなか難しいことですけどね。

客観的に物事を見るということは、とても訓練が大切で、放っておいてもできるものではありません。

やはりそれを毎日しようという努力を続けていくことが大切です。

次回は執着を捨てるということについて、探っていきます。

5.ここまでの感想

私たちは皆、自分中心に物事を考えるということを知らない「無明」の生き物であることを知り、そのことを念頭に置きながら、毎日少しずつ心のトレーニングを行っていくことで、苦しみから解放されるということを学びました。

このことはつまり、より生きやすくするために、自分という人間の性質を知った上で、社会の中でどのように振舞うべきか、という処世術に通じる教えだと思いました。

自分の身に良くないことがあったときに、主観的になり、腹を立て、相手に暴言を吐いたり、嫌がらせをしたり、陰口を言ったりするというようなことをすれば、いずれは自分にその見返りがやってきます。

自分の考えや行動に疑問を持ち、客観的に考え、行動するように気を付けることは大事なことだと思いました。

しかしながら、人の煩悩が生まれつき備わったものであるなら、身勝手な性質を変えることは簡単なことではないと思います。
ならば、自分の行いや考え方が主観的でないか、自分の中だけで解決するしようとするのは、無理があると思います。
それよりは、相手と折り合いをつけながら、自分を変えていったり、共感や理解をし合える人たちと関われるような環境作りをしていった方がより生きやすくなるのではないかと思いました。

※NHKオンデマンド、U-NEXTなどの動画サイトで、ご覧いただけるNHK番組「100分de名著」を元に、学んだり、感じたりしたポイントをお伝えしています。

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