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日本哲学は地球を救えるか?『善の研究』他(西田幾多郎)

西田幾多郎(1870~1945)は明治3年から昭和20年という、まさに激動の時代に生涯を費やした哲学者。時代が激動であった故に、日本人の価値観(「何が正しいのか」という規範)もブレていた時期であったと思われます。ただ価値観が壊れつつあったのは日本だけではなかったことは何度も過去の投稿でご紹介している通りです。
西田幾多郎の『善の研究』によって、(西洋哲学とは異なる)近代日本哲学(研究の場)が始まったとよく言われますが、西洋哲学と異なると言われている日本哲学は地球を救えるでしょうか?そんな私には無茶なテーマを掲げてみました(^^;)
西田本はかなり難解な中、例によって素人解釈の簡単説明なのでその点ご容赦ください。

■まずは『善の研究』全般について

この本を最初から読むとすぐに挫折します。重版発売時に市井の人が何百人も本屋に並んで待っていたという噂は「ホンマか?」と思います。
①言葉が難しい。日常使う単語で日常的意味とは別の意味で使われているので混乱するからです。
②後ろから読んで行った方がベターかと思います。最初はいきなり「純粋経験」「直接経験」「知識と対象が全く合一している」ですから。後ろは「知と愛」とか、比較的イメージしやすいものが並んでいます。
③そしてこの本を読む時に注意しなければならないのは「視点(立ち位置)」です。「個人」の視点が最上位にはないということです。西洋哲学は「オレが!俺が!」だったり「理性が…」だったりですが、個人が主役ではないと言い切った方が良いかもしれません。もう少し言うと、ある1つの永続的な場のようなもの(絶対無限)があって、それが人間を取り巻いています。一人一人の個人は有限ですが、「種としての人間」は同時に複数存在して世代交代しながら永続的に続いていきます。そんな絶対無限が「種としての人間」に与えるのが「(純粋)経験」であって、ある意味「歴史」と読み替えた方がピンとくるかも知れません。個人はそれぞれの主観的フィルター(世界観・価値観・科学的世界観など後知恵)を通して個人的な経験(=「世界」)を積んでいます。そんな有限な個人はその有限さの認識から、絶対無限の力を拝んで永遠の生命を得ようとする。例えばそんな個人の欲求が歴史を動かすドライバーになっているような大きなマクロな世界観を常にイメージしておくのが良いように思います。(個人の動きはハイデガーに似てます)
そして純粋経験のみが「実在」でそれを起点にすべてを説明しようというのも本書の主旨でしょう。(後でじっくり説明してみます。うまく行くかどうか??)
④西欧哲学は論理(言語)で証明するが、西田は直観(直覚:非言語)の意義を説くとも言われますが、言語によっても涙によっても届かない問題がある。もっと深いところで世界と向き合えないだろうかというのがテーマの1つのようですが、私的にはテーマは「真の価値とは何か」という視点で読んでいました。まあ言語で語れないものをどう説明するのか?ウィトゲンシュタインみたいに「黙っとれ!」とでもいうのか(^^;)

■「真の実在」

・いきなりですが、「元来、真理は一である。(中略)深く考える人真摯なる人は(「知識」と「実践(=行動)」が一致し)『知識』と『情意』の一致を求むるようになる。」
→実践とは行為。例えば坐禅。西田は「実在」を経験する為に坐禅に没頭した。(後述)
→西田哲学は「考える」よりも「行ずる」ことで生まれてきた。
「知識」:頭(知)と身体(識)で知ること。
「情意」:心の働き。容易に言語化されない思い。

→頭と身体と心が1つになった時に「真実在」への扉が開かれる。
→人は同じ世界を「認知」していても個別の世界を「認識」している。
「認知」:科学的、客観的、再現可能的に理解
「認識」:それまでの経験を元に心身で理解
→「真の実在」は1つでも100人いれば100通りの世界がある。

純粋経験(筆者作成)

図にしてみましたが、何だかまだわかりにくいですよね。おいおいわかってくると思います。

■知と愛(第四編第五章)

ここは補論のようですが、入り口として分かりやすいので、まずはここからご案内します。

・「知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。しかし余はこの2つの精神作用は決して別種のモノではなく、本来同一の精神作用であると考える。然らばいかなる精神作用であるか。一言にていえば『主客合一』の作用である。「我」が「物(=他者)」に一致する作用である。何故に知は主客合一であるか。我々物の真相を知るというのは、自己の妄想臆断即ちいわゆる主観的の者を消磨し尽くして物の真相に一致した時、即ち純客観に一致した時初めてこれを能くするのである。」

→それでも小難しく書かれていますが、だんだん慣れてきます。「他人が悲しんでいる時、その人になり切ったら(主客合一)その人の悲しみが判かる」みたいなことをイメージすればいいと思います。他人の喜怒哀楽が「他人事」ではなく「自分事」になるということですね。
→「合一」というのは、共鳴・共感という事でも良いかと思います。大事なのは物を見る主観的なフィルターを外しておくことだと思われます。
→「知」だけでは「物(=他者)」が見えず、「我(=自分)」しか見えない。

・「物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するにはこれを知らねばならぬ。数学者は自己を棄てて数理を愛し、数理其物と一致するが故に、能く数理を明らかにすることが出来るのである。美術家は能く自然を愛し、自然に一致し、自己を自然の中に没することに由りてはじめて自然の真を看破し得るのである。」
「普通には愛は感情であって純粋なる知識より区別されなければならぬという。しかし事実上の精神現象には純知識というものもなければ純感情というものもない。斯の如き区別は心理学者が学問上の便宜の為に作った抽象的概念にすぎない。(中略)他を愛するには一種の直覚(※推論 ・類推 など論理操作を使わない直接的・即時的な認識)が基とならねばならぬ。余の考を以て見ると、普通の知とは非人格的対象の知識である。たとい対象が人格的であっても、これを非人格的として見た時の知識である。これに反し、愛とは人格的対象の知識である、たとい対象が非人格的であってもこれを人格的として見た時の知識である。両者の差は精神作用そのものにあるではなく、むしろ対象の種類に由ると言ってよろしい。」

→この記述は分かりやすいと思います(※本書の後ろの方はこんな感じです)が、要は「愛のない知」は非人格的認識と思えば良い。つまり、判ったフリは出来てもホントには判ってない。
→「私」という主語がなくなる世界とも言えますが、単になくなるというよりも、こうすることで「より深遠な私」が現れて、より深い世界に進んでいこうというイメージです。これが「自己を否定することで真の自己が見えてくる」という訳です。ここまでくれば「善」の世界が見えてきます。これが「善(=良き事)」です。

■宗教

ついでに西田流の宗教心について見てみましょう。ちなみに西田流の「宗教」とは宗派云々ではなく、「宗」は言葉では表現できない人智を超えたもので、「教」はとは言えそれを何とか言語化したものの意味であるようです。

・「現世利益の為に神に祈る如きはいうに及ばず、徒に往生を目的として念仏するのも真の宗教心ではない、されば『歎異抄』にも『わが心に往生の業をはげみて申すところの念仏も自行なすなり』といってある。また基督教においてもかの単に神助を頼み、神罰を恐れるという如きは真の基督教ではない。これらはすべて利己心の変形にすぎないのである。(中略)我々は自己の安心の為に宗教を求めるのではない、安心は宗教より来る結果に過ぎない。宗教的要求は我々の已まんと欲して已む能わざる大なる声明の要求である。厳粛なる意思の要求である。宗教は人間の目的そのものであって、決して他の手段とすべきものではないのである。」

・「宗教とは神と人との関係である。神とは(中略)、これを宇宙の根本と見ておくのが最も適当であろうと思う。(中略)然らばいかなる関係が真の宗教的関係であろうか。もし神と我とはその根底において本質を異にし(西洋的・聖書的)、神は単に人間以上の偉大な力という如きものとするならば、我々はこれに向かって毫も宗教的動機を見出すことは出来ぬ。(中略)或いはこれに媚びて福利を求めることもあろう。しかし、そは皆利己心より出づるにすぎない。(中略)全ての宗教の本(もと)には神人同性の関係(古事記的)がなければならぬ、即ち父子の関係がなければならぬ。しかし、単に神と人と利害を同じうし神は我らを保護するというのでは未だ真の宗教ではない。神は宇宙の根本であって兼ねて我らの根本でなければならぬ、我らが神に帰するのはその本に帰するのである。」

→古事記の世界を思い起こさせますね。天津国の神々の神性が、神々の子である我々にも伝わっている世界観だと思います。助けるとか助けないとか利己的な関係など超越した親子の愛で繋がれた関係、そして人の心には同じ神性が備わっているという意味でしょう。

→「知と愛」における主客合一のように神人の合一。これは個人を枠を超えていく運動で「思惟」というものなのでしょう。
「思惟」:究極的なものを目指し考えるという行為を通じて個を超えていこうとすること。
→個人的思考から普遍的思考への変貌

・「我々は知識においてまた意志において意識の統一を求め主客の合一を求める。しかし、こはなお半面の統一に過ぎない。宗教はこれらの統一の背後における最深の統一を求めるのである。知意未分以前の統一を求めるのである。」

→知意未分状態というのは価値・言語・思想などの判断で切り取られる前の世界のことと理解すればいいと思います。簡単に言えば、アダムとイブが知恵の実を食べる以前の状態です。彼らにはどんな世界が見えていたのでしょうか。

■善とは

・善は禅宗が言う仏性に似ています。「一切衆生悉有仏性」「山川草木悉皆成仏」。つまり万人に備わっているが、修行なしでは顕現しない。その修行が「善」と思えばいいと思います。フィルターを外すこと。禅宗で言えば坐禅。陽明学にも近いかもしれません。

・善は概念ではなく「行為」で体現されるもの。(例えば、坐禅でフィルターを取り払うとか)

■純粋経験と実在に行きましょう

・「実在」「純粋経験」は知的直覚で生命・いのちを感じること。
→この辺り言葉が難しいですが、
「知的直観」:純粋経験が起きる時に自ら生起させる意識の動き。
「純粋経験」:「実在」を経験すること。実在は純粋経験を通じてのみ経験される。
「経験」:個から出発して個を超えていこうとすること。個を超えた場所で生きること。

実は「個」は人類の経験によって形成される。「個人があって経験があるのではなく、(人類の)経験があって個人がある」「個人的区別より経験が根本的である」(序)
→個の問題を人類の視点で考えること。

・「実在」というのは現実そのままのもの。実在が「(科学が見るような)物質の世界」というのは後知恵にすぎない。世界をありのままに感じること。何か特別な理論・思想にあるわけではない。我々の日常の直接的経験に哲学の原点がある。行為としては、禅など修行でフィルターを剥すことになります。
→例えば、個々人はそれぞれのフィルターを通じて「(ある)モノ」のいろいろな側面を世界として見ている。「実在」の経験とは、その「(ある)モノ」全体を見ること。
→プラトンの「イデア」を直に見るようですが、イデアは彼岸にあるが、実在は此岸にある。

・「実在」とは神を考えること。

→「神」、それは「不可知」であるという経験を通じて認識される「何か」。「人は『何か』に生かされている」と感じさせる何か。「実在」はそんな感覚とも言えます。

・「我々が自然と名づけている所の者も、精神といっている所の者も、全く種類を異にした二種の実在ではない。つまり同一実在を見る見方の相違に由って起こる区別である。自然を深く理解せば、その根底において精神的統一を認めねばならず、また完全なる真の精神とは自然と合一した精神でなければならぬ」

・(様々な知識ベース・道徳による神の存在証明を踏まえて)「全知全能なる神なる者があって我々の道徳を維持するとすれば、我々の道徳に偉大なる力を与えるには相違ないが、我々の実行上かく考えた方が有益だからといって、かかる者がなければならないという証明にはならない」

→頭の中であれこれを理屈付けしても経験できない、神を直接経験で感じなければならない。

・「経験するというのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工(フィルターの1つ)を棄てて、事実の従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想(フィルターの1つ)を交えているから、毫も思慮分別(フィルターの1つ)を加えない、真に経験其儘の状態を言うのである 。」

→例として、音を聞く場合も「これは外部からの作用だ」とか「何の音だ」とか判断を加える前のことを言っているのだと書かれている。
→「私(主)が外部(客)から何か与えられている」という構造は単に我々が仮定していることに過ぎず、そんな構造が(私によって)作られる以前の状態を言っている。そこには「私」もいなければ「知る」もない。主も客もいない状態。「われ思う、故に我あり」とデカルトは言うが、そんなのはフィルター通過後の世界。主や客は後から導入されるものである。
→そして経験は対象を深く考察し、本質に触れ、直接認識することであり、作業としてはフィルターを取っ払うイメージです。しかし、言語もフィルターの1つであったなら、それを取っ払ったらどう表現すれば良いのでしょうか。ウィトゲンシュタインが黙れと言った「(言語があっても)語りえないもの」ではないですが、「言語以前の経験をどう伝えて議論すれば良いのか?」言葉にした瞬間に一部の切り取りになってしまいます。それは「私」に対しての内部説明・伝達も含みます。ここで引っかかります。結論は「実在」の中に入り込んで自ら会得するしかないということらしい。主客分離された状態から「戻る」努力、ある意味「客」となって見る・考える、それも深く深くという感じ。深くなればなるほど主客が合一された世界になり、「自然と一体化」したような感覚に辿り着けるかもしれません。(^^;)

・「我々が物を知るということは、自己が物と一致するというにすぎない。花を見た時は即ち自己が花となっているのである」

→これは外側から知るということではなく内側から知るということ。

・「余がここに知的直観というのはいわゆる理想的なる、普通に経験以上といっている者の直覚である。(中略)たとえば美術家や宗教家の直覚の如き者をいうのである。(中略)知的直観ということは或人には一種特別の神秘的能力のように思われ、また或人には全く経験的事実以外の空想のように思われている。しかし、余はこれと普通の知覚とは同一種であって、その間にハッキリした分界線を引くことはできないと信ずる。」

→要は誰にでも(あなたにも私にも)音楽家や宗教家の種はある。それを発現させられるかどうかということ。発現させる行為が「思惟」である。

・「厳密なる純粋経験の立場より見れば、経験は時間、空間、個人等の形式に拘束せられるのでなく、これらの差別はかえってこれらを超越せる直覚に由りて成立するものである。また実在を直視するというのも、凡て直接経験の状態においては主客の区別はない、実在と面々相対するのである、(中略)主客の別は経験の統一を失った場合に起こる相対的計形式である。これを互いに独立せる実在と見做すのは独断にすぎないのである。ショーペンハウエルの意志なき純粋直覚というものも天才の特殊なる能力ではない、かえって我々の最も自然にして統一せる意識状態である。天真爛漫なる嬰児の直覚は凡てこの種に属するのである。」

→直接経験では、例えば「自然と一体になった」感覚がある。無垢な嬰児が世界を見ている感覚も同様。日常生活ででも直接経験はしているが、誰も自覚出来ていないだけ。

西田さんもいろいろ頑張って説明されていますので、いくつか引用しましたが、何となくイメージできたのではないでしょうか。

■絶対的無と矛盾的自己同一

・ニーチェが喝破したように、絶対価値などありません。この世の本質は「無」。賢くなって社会というものを作ってしまった人間はそれに耐えれない。なので、いろいろな代わりを作ろうとするが、形而上学に頼る限りは無駄な努力ではあります。とはいえその中でも科学は大きな富を生んで人々を魅了した。しかし、その背後にある「無」からは逃れてはいないでしょう。絶対正しいものはみつからない。そして、西田幾多郎はこの「無」に取り組んだ方です。

・西洋文化は形ある「物」(存在者)を対象としてきましたが、日本文化は形なきもの・声なきもの(「心」)も対象としてきた。従って、西洋文化では「形ある=名前がある=言語が使える」が日本文化では「見えるものの背後の見えないものを見て、聞こえるものの背後の聞こえないものを聞く。」例えば、桜の花の見かけの美しさだけでなく、その儚さや潔さに心を動かされる。蛙が古池に飛び込んだ音を聞きながら、その背後に何かを感じるのが日本文化という訳です。こんな風に英訳したらアメリカ人から「それが何やねん!」と言われそうですね(^^;)

"A frog that leaps into an ancient pond makes a sound of the water."

形あるもの(「有」)しか対象にならない西洋哲学には限界があるのではないかとか、主客分離、合理主義などにも批判的であったことは感じられます。「世の中の本質が『無』なら、やっぱり日本哲学でしょ」という訳です。更にその「形なきもの」がむしろ本質だろうということで、これが「絶対的無」という訳です。此の世は本質的には「無」である、つまり「有」は「無」からでっち上げられたってもの感じです。(何度かご紹介している「色即是空」を思い起こして戴ければ分かりやすいかも)

・我々は歴史的流れの中で生きていて、外部から客観的に見ることはできない(ハイデカー的)。そんな歴史的流れというのはどんな世界かというと、メチャ難しいですが(^^;)

「全体的一と個別的多との矛盾的自己同一として、主体が環境を、環境が主体を形成し、作られたものから作るものへと、どこまでも自己矛盾的に動きゆく世界、即ち自己自身を形成してゆく世界である。」
「我々が此処に生れ、此処に働き、此処に死に行く、この歴史的現実の世界は、論理的には多と一との矛盾的自己同一と云ふべきものでなければならない。私は多年の思索の結果、斯く考へるに至つたのである。世界とは無数なる物の集合と考へられる、無数なる物の合成として決定せられた一つの形と考へられる。併し現実の世界と云ふのは、何処までも物と物とが相働く世界でなければならない。唯一的に決定せられた此現実の世界の形と云ふのは、無数なる物と物との過去無限からの相互限定によって、即ち相働くことによって決定せられたものでなければならない。而して物と物とは此現実に於て働くのである。我々は此歴史的現実の世界から生れ、此処に働き、此処に死に行くのである。物と物とが相働くことによって一つの結果を生ずると云ふことは、多が一となることでなければならない。物と物とが相働くと云ふには、物と物とは何処までも相対立するものでなければならない。併し単に無関係に相対立する物と物との間には、働くと云ふこともない。働くと云ふには、何等かの関係に入らなければならない。何等かの関係に入ると云ふには、両者に共通なものがなければならない、両者はそれに於て一でなければならない。例へば、物体と物体とが空間に於て相働くには、物体は共に空間的でなければならない。併し多が一となると云ふことは、多が否定せられることでなければならない」

→何なのか全く分かりませんね(^^;)
→あまりにも厳密に言おうとしているようなので、難しく考えないようにちょっと頑張ってみますと、
まず「矛盾的自己同一」というのは、「昨日の私」と「今の私」は心身ともに別モノですが、「私」という意味では同じモノ扱いを受けますよね。ある時は2つの「私」は別モノ扱いされて、ある時は同じモノ扱いを受けますね。これって(論理的には)矛盾してませんか?要は世の中なんてそんなものなので「矛盾しとるやんけ」とは言わずにそれを受け入れましょうという感じです。
そして、歴史的世界にはいろいろな個がいて(多)お互いに対立したり否定したり影響しあって世界という全体性(一)を構成している。「多」は「一」を否定しようとしても「一」が無ければ「多」も存在し得ない。逆も同じ。個人(多)は社会(一)に働きかけて社会制度を変えるし、社会(一)も個人(多)に働きかけて個人を変える。まあ世の中「多」であったり「一」であったりと「どっちやねん?」と、こんな相互作用で歴史的世界は動いているという感じでしょうか。素人には何か当たり前のことを小難しく言ってるに過ぎない感じがするのですが、差し当たってはこんなところで如何でしょうか。

・「日本文化はどこまでも自己否定しながら物となり、物となって見、物となって行う。自分が物となる。」

→だんだんとわかるようになって来ませんか?例えば「自然を外部から眺める」のが西洋文化、「自然の中で自然と一体化して味わう」のが日本文化ってとこでしょうか。もう少し言うと西洋文化は自然と人間を切り離して対象化するが(「多」と「一」は別モノ)、日本文化は自然の一部として人間を位置づける。つまり「矛盾的自己同一」。西洋文化では観測者は彼岸にいるのです。

・「我々が、我々の自己の根底に、深き自己矛盾を意識した時に問題になる」

→ここでいう「深き自己矛盾」とは死のことです。この場合は死を客観視しています。つまり自覚しています。死を自覚するということはある意味死を乗り越えている訳です。(う~ん(^^;))しかし、人間は死ぬ。ここにも(自己)矛盾を見い出している訳です。そして自己否定の最たるものである死を自覚し、同時に人は生を自覚し生きようという生へのエネルギーを生みます。自己を否定して真の自己を見つけるのですね。ハイデガーの時の議論と似てます。このエネルギーは彼岸からもたらされたものではないので、ニーチェの卓袱台返しがあっても平気というわけです。そしてそこに「神」(=絶対者)を見ると。これが西田的宗教契機です。

■最後に

・「無」は西田哲学というより日本仏教などいろいろな所に共鳴しているものです。西洋には「無」はないが、日本には「無」がある。価値喪失の現在において、こんな日本思想が世界を救えるのかどうか?
私は希望はあると思ってます。