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儒教、朱子学、陽明学、どう違うの?超簡単解説。

仏教だけでなく儒教も日本人にとって心の芯にあるものとよく言われます。一方、儒教は宗教ではなく倫理思想だとか、政治思想だとも言われ、これまた分かりにくい。同じ「儒」でも孔子、孟子、朱子は違うし、派生系の陽明学もどうも違うようだ。なので「儒教は...」と言いながら、それはどの儒教かということを説明しないとよくわからない。
儒教(孔子)、朱子学、陽明学、この3者はその関連を元に、例によって少々乱暴ですが、判り易さを優先して解説を試みます。

(1)3者の関連と共通項:
・この3者は中国古来の思想を源流とし、簡単に言えば儒教(孔子)→朱子学(朱熹)→陽明学(王陽明)の順に生まれたもので、一括りにすれば「儒教」と呼ばれる。乱暴に言えば、ユダヤ教→キリスト教→イスラム教(この3つの信仰は同じ神を信仰している)の流れに似ている気がします。

・この3者に共通することは、古の聖王(堯・舜・禹)の境地を目指して、そこへ到達するための「心の問題」に取り組んでいること。ただ出発点・到達点やアプローチが異なっている感じです。

①孔子の儒教:
・孔子の思想は「述べて作らず」(論語)の言葉に表れている。
・古の聖人は、ともすれば野蛮に陥る人間のために美しい文化を作った。それは完全ではあったが、今は言葉でしか残っていない。
・孔子曰く「『経書』(易、書、詩、礼、春秋)はそれら聖人の言葉を再編集して世に著しただけ。我々は聖人にはなれないが、学問を修める(=経書を学ぶ)ことで、聖人に近づくことができる」と説く。孔子ももちろん自分を聖人とは思っていない。
・目指す姿は「心の欲する所に従い矩を越えず」(論語)ということ。つまり「自分の思うがままに行なっても、正道から外れない」という地点。

孔子

②朱熹の朱子学:
・朱熹は孔子の思想を発展させ、二元論を組み合わせて宇宙論・死生観等を含めて思想として体系化した。この段階では宇宙観・死生観みたいなものが体系化されているので、宗教と呼んでも差し支えないように思えます。
・但、「経書」は(孔子同様に)不易不変とし、朱熹が書いたのは経書の解説書のみ。(この解説書が重宝で夷狄の国「元」は圧倒的多数の漢民族を支配するために朱子学を御用学として科挙に採用した)
・但し、朱熹は「人は学問を修めることで、聖人になれる」と考えた(朱熹自身はなれなかったらしいが)

朱熹

③王陽明の陽明学:
・王陽明は朱子学を真剣に実践したが、違和感をぬぐえなかった。
・が、左遷された少数民族のいる僻地(龍場)で悟った。「なあんだ、人は皆、聖人の心を持っている(≒既に聖人である)じゃないか。心が曇っているだけじゃん。」と悟った。
・例えば「子としての心を素直に呼び覚ませば、自ずと「孝」を実践できる」と考えた。

王陽明

④つまり、3者の違いを端的に述べればこんな感じ。、
・孔子は「聖人にはなれないが近づける」
・朱熹は「学問を修めれば聖人になれる」
・陽明は「人は既に聖人である。心が曇っているだけ」

※ここから先は儒教の宇宙観というベースが必要になるので、その辺りの解説から試みます。

(2)儒教の宇宙観(複雑な二元論)

・まずは超基本の「気」と「理」:
儒教の宇宙観は理気二元論。あらゆるものは「理」という設計図を基に「気」という材料でできているというのが基本。

①「気」
・世の中の森羅万象は物理的には「気」でできている。物理学の歴史に詳しい人ならデカルトのエーテルのような存在と言えばわかるかもしれない。
・「気」は常にエネルギーを持ち、離散集合し、濃淡がある。この濃淡等がモノの違いを作る。
・この世のすべてのモノ・コトは「気」の一時的な状態にすぎない。人の心の動きも「気」の動きである。
・「気」はその「属性」として「陰陽」があり、それぞれ相対的な対になっている。
  →陽とは明・動・強・速・濃・大・若・男・太陽・満月...
  →陰とは暗・静・弱・遅・淡・小・老・女・月・三日月...
  →この陰陽は一日の周期や四季の変化のように陰→陽→陰→陽→と循環する
・気は「感応」しあう。男女の「気」が感応しあって子供ができる。親と子の「気」は同質なので引きあったりする。

②「理」(←これが少々難しい)
・人間も「気」の一部であるが、上質の「気」を持ち「理」でモノ・心を認識できる。「理」がなければ、この世は「気」のムラムラにしか見えない。
・「理」はあらゆるものにある。人は「気」を「理」によって分節し、モノとして認識している。
・「理」は理屈ではなく現実。例えば、椅子の「理」は座れるかどうかという現実に裏打ちされたもの。実感的な納得感が必要。「理」の根拠は大多数の人々の納得感であるとのこと。う~ん、分かったような分からないような感じが。(^^;)


(3)朱子学の「心」

・朱熹は心の概念を発達させた。
・心を「性」と「情」の2つのレベルに分け、心が両者を主宰するというモデルを完成させた。
・「性」は心のあるべき本来の姿(=善)、「情」は善悪両方を含む心の現実的な動きや揺らぎである。本来は「性」であるものが、外からの刺激で揺らいで「情」になるという訳です。

①「性」
・心の「理」の側面、本来のあるべき姿である。
・心が動く前の姿。喜怒哀楽を発する前(未発とも言う)の姿
・水で例えれば静かな状態と言える

②「情」
・心の「気」の側面。
・心が動いた後の姿。喜怒哀楽を発した後(已発とも言う)の姿
・水で例えれば流れる状態と言える。

③「工夫」
・朱子学では「性」と「情」を縮めることが目標で、「工夫」とはその努力のこと。これには主体(心)的な努力が必要。
・聖人ではない人間が自らの可能性を信じて長期間修養することが重要。それで聖人になれる。
・朱子学では最も重要で、「工夫」なしでは朱子学は意味なしと言える。

④「敬」
・「性」に直接アプローチしても心が動いて「情」になってしまう。では、その「情」へのアプローチの方法は何かというと、それが「敬」で、具体的な「工夫」のあり方と言える。
・「敬」とはどういう状態かというと、「常に心を目覚めさせ、緊張と慎重さを保っている」状態。例えば、大舞台でのプレゼンなどで極度に緊張している状態。これを常にキープせよとは、何と疲れることか。(>_<)
・「敬」の状態で経書に接することが最も重要な修養として求められている。

⑤「礼」
・古の聖王が示したこの世の美しい秩序全体を「礼」という。美しい内容には相応しい形が存在するはず。
・外形が整っていないものに、きちんとした内面はないということで、まずは形から入る。外から見えるので誤魔化しがきかない

⑥「格物窮理」
・「格物窮理」とは物事の「理」を究極まで探求して、知を究極まで発揮すること。
・知っているだけではダメ。トコトン知ることが重要。例えば、「虎の恐ろしさは襲われた経験がないとわからない」(朱子語類)
・「100のうち、半分ぐらい知れば残りは分かるようになるはず」(朱子語類)とは言うが、「敬」を保って「格物窮理」など、疲弊すること間違いなし。朱子学に癒しは不要という感じで、日本のコチコチの朱子学者(特に崎門学派)たちが市井の人々から堅物と嫌われていたのも頷けますね。。

(4)朱子学から陽明学へ

・王陽明の時代には朱子学は既に科挙に採用され、体制の学問となっていた。
・王陽明は朱子学を真面目に学んだが、自分には無理(=聖人になれない)と諦めかけていたことろで僻地での命がけの生活の中で目覚めた。「理は心にあるじゃないか。曇っていてわからないだけ」と。

①「心即理」(陽明学)と「性即理」(朱子学)
・朱熹は心を「性」と「情」に分けて「性」だけを「理」とした。一方、陽明は心を丸ごと「理」としてしまった。
・陽明学では、不善とは心が曇っている状態であって、不善の心に対して「ホンマか?本心でそう思てるんか?それでエエのか?」と自問自答を繰り返せば(この行為を「誠意」ともいう)、善なる心(=「天理」とも言う)が自ずと現れてくるはず。朱子学も「(「情」はともかく)性は善」ということで性善説と言われるが、陽明学は超性善説ではないか。

②朱子学の到達点が陽明学の出発点:
・朱熹は「工夫」による「情」から「性」への純化を目指していたが、陽明には「工夫」は無用。朱熹の到達点を陽明は出発点にしてしまったようです。

(5)日本の朱子学と陽明学:

・これまでの話は本場中国の朱子学と陽明学。これらは日本に来た段階で仏教と同じように日本土着の思想が混ざって変質してしまいました。
・詳しくは立ち入りませんが、典型的な例は「孝」。本場中国では「孝」は唯一最上位の徳目で、例えば「3年の喪」は必ず守らなければならない「礼」である。それはまた靖献遺言の謝枋得のところを見ても、何故彼が逃げ回っていたかでわかる。でも日本では「孝」は「忠、義、仁」と同格になってしまった。これで儒教と呼べるかはやや疑問です。
・当時の日本は武士と言っても戦闘の場がなく、自分達の存在意義が見えなくなっていた。そこで儒教が「指導者としての武士のあり方」という意味で武士道に昇華された。明治以降は国軍創設に伴い主従関係を(対各藩主から)対天皇陛下に一本化するため、その軍人精神として武士道が用いられた。その為に「忠、義、仁」が格上げされてしまったのではないかと推測するこもできます。
・いずれにしても、朱子学(特に徳川幕府体制外にあった崎門学派)が、幕府の正当性への疑問から幕府を批判することで、明治維新への原動力なったのは間違いなさそうかな。

【補足】儒教的の死生観

・「仏教解説」で儒教の死生観にも触れたが、「気」の概念と死生観について簡単に触れておきます。およそ宗教という限りは死生観が重要と思われるので。

①「気」と人の死
・人も(凝縮した上質の)「気」でできているが、歳とともに緩んできて(老化)、死とともに「気」は離散する。しかし離散後もしばらく(3年ぐらい=喪の期間)は、その周辺に残っている。(※余談だが、若死あるいは虐殺された人の「気」はまだ緩んでおらず、周囲に溶け込めず強いまま残っており、これが感応して亡霊になったりする)

②「孝」
・親と子は同質の「気」を持ち、互いに感応しあう。「血のつながりは気のつながり」というわけである。
・この世に未練たらたらの中国人は、この「気」を絶やすことを許さない。この世に戻れないからである。これが「孝」で最上位の徳目とされる理由である。
・この場合(血のつながりがない)養子は意味をなさない。血のつながりがないので「気」が違うからである。

③余談:
・再び余談ですが、人が生まれる時はその周囲の「気」の影響を受ける。周囲とは、親・時間・場所であり、易がこれらを重要視するのはこれが理由である。

「亡霊なんて気のせい」の気は、儒教の「気」から来たのでしょうか
何となく心に響くところはありませんか??