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神仏習合について

「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」
(西行法師@伊勢神宮)

・西行法師は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての(北面の)武士であり僧侶であり歌人、ほとんどの人はその名前を聞いたことがあるでしょう。僧侶時代は高野山で修行をしていたというから真言宗でしょうか?不思議とこの方は何宗という話は聞きません。それはともかく、仏教の僧侶である西行法師が神社の総本山ともいうべき伊勢神宮で「姿は見えなく、どなたがいらっしゃるのかわからないけど、有難くて涙がこぼれます」と歌で感動を表現しています。この歌は日本人の宗教観を良く表わしています。

・子供の頃「お寺と神社はどう違うの?」と大人に聞くと「お寺には仏様が、神社には神様が居て守ってくれるのよ」とか「神社のお参りは2回手を叩くけど、お寺のお参りは手を叩いてはいけないのよ」みたいなことを教えてもらいました。別物というのは何となく分かりますが、同じ敷地内で両方あったり、お寺なのか神社なのかわかりにくい建物だったりします。子供としては「手を叩いて良いのかどうか」が気になる訳ですが、大人のお参り方法を見て、それを真似ていたものです。

■神仏習合

・実は、聖徳太子が仏教を推奨した辺りから始まるのだろうとは思いますが、遅くとも平安時代少し前あたりから明治元年に神仏判然令が出されるまでの約1千年間神仏は習合していて、両者の区別は曖昧でした。明治からまだ150年程度ですから、日本の歴史の中では大部分の期間で神仏は習合していたことになります。現在では同じ敷地内に両方建っている場合もまだありますが、両者は別物と多くの人に認識されているので、神仏が習合していた期間がそんなに長いと聞くと意外な感じがするかもしれませんね。

・仏教が伝わる前の土着信仰であった神道は、前々回の投稿で例に挙げた龍神信仰のような共同体の安寧を祈る生活様式のようなものであって体系化はされていませんでした。具体的には主に次の3つの「カミ」の信仰で、
①自然神信仰(可畏き自然物に神が宿る)
②祖先神信仰(祖先の御霊を神と考える)
③土地神信仰(土地に住む神)
これらは「神祇信仰」とも呼ばれてます。
その後、日本に仏教が伝わった時は蕃神(外来の神)の1柱と考えられていたが、あくまでもイメージはそれまでの神々と同格な神と思われたようです。そして有名な崇仏派と廃仏派の覇権争い(※諸説あります)の後、崇仏派が勝利しましたが、崇仏派側の聖徳太子は、これも以前に「キリスト教は仏教と違って、なぜ日本で「はやらない」のか」で説明した通り、「受容と排除の論理」で仏教と神道を融合させてしまいました。もちろん、以下便宜上仏教と呼びますが、その時の仏教は中国ですでに儒教や道教と合一した仏教であったことは言うまでもありません。

・神仏習合のわかりやすい例は比叡山延暦寺と日吉神社の関係でしょう。
788年に最澄が比叡山に延暦寺と根本中堂を建立し、その際に比叡山の地主神であった地場の神である大山咋神を祀られていた日吉神社を崇敬するようになった。個人を救うのが寺院で、寺院や個人の住む場所を守護するのが神社という関係です。個人宗教と集団宗教が上手く噛み合った感じです。

・そんな中、次第に「神は迷える存在で、仏の救済を求めている」とか、「神は仏法を守護する存在」とかいう考えが普及し、ついには「神は仏が衆生救済のために姿を変えて現れたもの(本地垂迹説)」という考えまで出てきました。
例えば、気比神宮では760年に現れた「氣比の神」は「吾が為に寺を造り、吾が願を助け給え。吾れ宿業に因りて神たること固より久し。今仏道に帰依し、福業を修行せんと欲するも因縁を得ず」と藤原武智麻呂に言ったとか。つまり「私(=氣比の神)の為に寺を作れ」と。
また、多度大社の場合は、763年に満願禅師が道場に阿弥陀仏を安置したところ、多度神が現れ「私は多度の神である。私は自らの重い罪業のために神の身になってしまった。それゆえ神身を離れ三宝に帰依したい」と言ったとか。
あの伊勢神宮でさえもそんな話がでてくるなど、ちょっと少々眉唾な感じはありますが、この時代の生産力の向上、そして743年に制定された墾田永年私財法のおかげもあり、地方の役人は単なる公務員的な立ち位置から、地方豪族的(私的財産の拡大)な立ち位置になったことで、集団宗教の神道では満たされない個人の悩み・贖罪に対して個人宗教のニーズが高まったことも背景にあったようです。

・仏教側も聖武天皇(45)時代(在位:724年~749年)には事実上の国教化され、仏教が集団宗教の色彩を帯びてきたとはいえ、日本の隅々にまで仏教が浸透した訳でもなく、仏教側も本地垂迹説などで人々を仏教に組み込もうとしていましたし、寺を建てる用地の確保にもつながった。また、朝廷側も新たな神宮寺の僧侶を得度して関わることで、地方との関わり合いを強化することが出来た。そんなそれぞれの思惑もあって、神仏習合が進んでいった様子が見えます。そんなこんなで神社に神宮寺が建立されるようになったようです。

■様々な神宮寺
・廃仏毀釈で破壊されたもの、移動されたものがいくつかありますが、有力な神社の神宮寺の例を表にしておきます。


主な神宮寺

・神社だけでなく、平安京御所でも国家安寧の法会が行われています。皇族・貴族が隠居後に法皇などの僧職に就いていたのは言うまでもありません。
・また泉涌寺は皇室の菩提寺です。

そしてその後は江戸時代に檀家制度を通じて庶民に至るまで仏教が浸透することになりました。当時の日本の仏教はオリジナルには全く似つかないものに変質していましたので、グローバル視点では日本人は仏教徒と言えるかどうかは怪しいものです。
そして突然の神仏判然令で廃仏毀釈が始まりました。僧侶たちも体制側に回ったことで腐敗していたことも大きかったようです。いずこも同じなのでしょうね(^^;)