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維摩(ゆいま)経について

維摩経は聖徳太子が選んだ仏教典3つのうちの一つ。三教の残りの2つは法華経(投稿済み)と勝鬘経で、これらは大体西暦600年頃に日本にもたらされたと考えて良さそうです。これらについては聖徳太子自ら注釈本を執筆されています(「三経義疏」)。維摩経の成立は西暦紀元前後と言うことらしいが、最も古い大乗仏教の経典の1つと思われますので、仏教の基本的な内容があるかなと思い法華経に続いてご紹介します。時代背景としては、ベースが上座部仏教であることにご注意下さい。

(1) 維摩経の概要

・維摩経は仏教典の中ではかなり異質なものです。内容は、釈尊の十代弟子を含む菩薩たちを論破していた在家信者の維摩という論破王のオッサンが病気になり、釈尊が弟子の誰かを見舞に行かそうとするのですが、十大弟子初め名だたる菩薩たちが議論を吹っ掛けられるのを恐れて軒並み尻込みする。前述の通り、彼らは皆かつて、維摩に論破されてしまったからある。そして最後に文殊菩薩が行くことになり、維摩の家で仏教に関する議論が繰り広げられる。そんな物語風の教えです。
・話の中心は「空とは」「仏道(空)の実践の在り方」「不二法門(例えば煩悩即解脱)」ということになろうかと。これらについては後で詳しく説明します。やや哲学的な領域です。
・構成は14章からなり、法華経同様それぞれを「品」というが、
① 仏国品(ぶっこくぼん)
② 方便品(ほうべんぼん)
③ 弟子品(でしぼん)
④ 菩薩品(ぼさつぼん)
⑤ 文殊師利問疾品(もんじゅしりもんしつぼん)
⑥ 不思議品(ふしぎぼん)
⑦ 観衆生品(かんしゅじょうぼん)
⑧ 仏道品(ぶつどうぼん)
⑨ 入不二法門品(にゅうふにほうもんぼん)
⑩ 香積仏品(こうしゃくぶつぼん)
⑪ 菩薩行品(ぼさつぎょうぼん)
⑫ 見阿閦如来(けんあしゅくぶつぼん)
⑬ 法供養品(ほうくようぼん)
⑭ 嘱累品(ぞくるいぼん)
からなっています。

(2)事前知識:

このまま維摩経に入っても少々理解しづらいと思いますので、事前に知って戴いた方がよい内容をご説明します。

■仏教の流れ:
・原始仏教から上座部仏教や大乗仏教への大まかな流れは以前の投稿に書いておきましたので、そちらを参照ください。

・上座部仏教までは基本的に個人救済が中心で、救済を得るには修行が必要というのが元々の仏教でした。
・ここでいう救済には2種類あり、1つは輪廻転生のサイクルから逃れて(解脱する)涅槃入りする(入滅とも)ことで、これが究極の目標です。もう1つは、輪廻転生サイクルからの解脱は出来ないまでも、次に生まれ変わる際に六道(天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)の出来るだけ上位道に生まれ変わることです。

■出家と在家:
・大乗仏教以前は、輪廻から解脱するためには、出家してサンガと呼ばれる集団で修行を行う必要がありました。そして解脱は男性でなければできませんでした(女性は次の世に男性に生まれ変わればOKです)。男性の出家者を「比丘」、女性の出家者は「比丘尼」と呼ばれます。同様に男性の在家信者は「優婆塞(うばそく)」、女性は「優婆夷(うばい)」と呼ばれます。比丘は解脱が目標ですが、それ以外は来世に天道に生まれ変わることを目指しています。そしてその為には「善行」を積む必要があります。しかし、比丘はといっても頑張っても最高位の仏陀には届かないのですが、次点の阿羅漢になれる。阿羅漢になれば一応涅槃入りはできるらしい。悟りのレベルは仏陀も阿羅漢も同じではあるようだが、仏陀は釈尊だけの特別の地位のようです。

※余談ですが、大乗仏教になると、この辺りが大きく変わりますので、同じ用語でも意味するところが大きく違うのが仏教を理解するのに難しいところです。自分のためにも一度整理したいとは思っていますが、多岐にわたるため、まだできていません。

・大乗仏教では「一切衆生悉有仏性」といって、法華経のところでも触れましたが、命あるものは皆仏陀になれる可能性があると言ってます。それには「心から仏陀になりたい」と思う心が必要なだけです。そしてそれは在家であろうが出家であろうが信仰の形態は関係ないということになります。心だけが必要なのですから。

■仏の国はアチコチにいっぱいある:
・このことはあまり触れませんでしたが、「仏の国(=仏土)」は実はアチコチにあります。因みに我々がいる世界は「娑婆」で恥辱にまみれた世界だそうですが、西には阿弥陀仏が主宰する「西方極楽浄土」があります。この維摩経では東の阿閦(あしゅく)仏が主宰する「妙喜国」や、香りで教えを説く「衆香国」というのも登場します。
・実は最初にネタバレしておきますと、維摩というはやっぱり単なる在家のオッサンではなく、妙喜国からやってきた人だと釈尊は語ります。また、維摩経本文にはないのですが、聖徳太子の注釈には維摩は過去は金粟如来だったとのネタバレもあり、つまりかなり上位の仏であった。なのでしょう、在家のオッサンの割には雰囲気がかなり上から目線(釈尊に対しても)で、「何や、コイツ!」みたいなところがあります。

■空:
・「空」については以前の仏教関連の投稿で説明していますが、くどいですが最重要なのでもう一度。
・「空」を文字通り「空っぽ」と受け取るのは、ある瞬間の状態しか見ていないからです。仏教の「空」はもう少し時間幅があります。一言で言えば「永遠には存在しない」という意味で、「たまたま今、モノ(=「色」)として見えているけど、いつまでもあるわけではないですよ。だってそれは、たまたまキッカケ(=「縁」)があるから見えているだけで、「縁」がなくなったら「色」も消えてしまうから。」という話です。以前「引き寄せて、結べばしばの庵にて、解くればもとの野原なりけり」という慈円の歌をご紹介しましたが、「結んだこと(=縁)で庵(=色)が出来ているが、結びが解けてしまったら庵(=色)は無くなってしまうじゃないか。そんな庵(=色)はあると言えるのか?ドヤ!(^^;)」という訳です。
・なので、別の視点では、あらゆる「モノ」は他との何らかの関係性の中で存在しているとも言えます。その関係性を「縁起」という訳です。つまり、あらゆる「自立的・固定的・絶対的・永続的な存在」を否定します。西洋思想の神、物自体、イデア、形而上学など絶対的・永続的な存在を前提とする思想の対極にいる感じです。源氏物語などの「もののあわれ」や「移ろい」「無常観」を日本人が美的に感じるのは、こんな仏教的な思考が影響しているような気がします。

(3)各品のご紹介

それでは、一品ずつ簡単にご紹介。法華経ほどではないですが、さすがに仏教です、時空を股にかけ縦横無尽な展開がありますのでご留意ください。

1)仏国品
・ガンジス川の中流のヴィシャーリーという商都で、釈尊は8千人の弟子と32千人の菩薩に説法を行っていた。
・まず宝積という良家のおボンボンが偈(一種の詩歌)をもって釈尊を讃え、次に釈尊に国土を浄める行を教えて戴けるよう請うた。
・釈尊が言うには「そこの人々が仏道を成就できるようにと願うこと」であり、そんな「直心(清らかな心)の国」であることが基本である。更に、深心(深く道を求める)、菩提心(悟りを求める心)、六道(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智恵)などの徳目の実践、四無量心(慈悲喜捨)・四摂法(布施・愛語・利行・同事)の実践」等々多数(^^;)が必要だが、何よりもまず「心を浄めること」であると。でなきゃ何してもダメと。
・しかし舎利子は「この娑婆には釈尊がいらっしゃるのに、まだ不浄なのは何故だ」と思った。それを察した釈尊は「この地はすでに浄土です。仏の知恵で見ていないので不浄に見えるだけです。」と言う。つまり浄/不浄は「見る人の心次第」ということ。同じ有名ブランド品でも嫌いな人が持っていたらどう感じるみたいなことですかね。

2)方便品
・この品は維摩が様々な方便で人々を導く品なので方便品と名付けられている。
・そして主人公の維摩が登場。冒頭に維摩の人となりが紹介されている。簡単に言えば、仕事や家族を持つ在家信者であるが出家並みの戒律を守って暮らしていて、もちろん欲望に溺れるようなとはない云々。(すでにネタバレさせてますが、これも釈尊の方便です)
・維摩は病に伏していて(というが実際には仮病で、これも仏教得意の「方便」というヤツです。)病気の姿を見せつつ見舞に来た王・大臣・居士・王子・官僚など数千人に法を説いていた。その内容は「この身体は無力であって、いずれ朽ちてしまう。そんなものに頼ってはいけません。」「この身体は泡であり、炎であり、芭蕉・幻・夢・影・響・浮雲・雷みたいなものです。」「それは空であり、知なく、作なく、不浄で、うつろで、災いで、古井戸で、定なく必ず死ぬ。」「五蘊(色受想行識)・十八界・十二処による合成にすぎない」云々。

※五蘊・十八界・十二処については拙投稿「般若心経の意味」を参照ください。

・この段階では世の中の認識は上座部仏教レベルです。これも拙投稿「般若心経の意味」でご紹介しましたが、世界の構成を「心(=我と言います)」と「物質(=法(※)と言います)」に分け、
  ー上座部では「我は空だが、法は空でない」として、
  ー大乗では「どっちも空」
としています。維摩が「この世は五蘊等の合成」と言う限りは「空」ではないと言っていることになります。上座部であろうが大乗であろうが、「我」へ拘る事、「我(=自分)という存在が永遠に続く」と思いたい心が「苦」を生んでいるという話です。ややこしいですか?
・ではすべてが空だと言っているのに、輪廻転生しているという「モノ」って何なのか?それが何なのかは私も(ある程度想像はつくのですが)よくわからないのです。わかったらここに補筆しておきます(^^;)

※仏教では「法」という言葉が多義的でややこしいのですが「仏陀でも変えれないこの世のルール・真理」という意味と「この世を構成する(五感で感じられる)物質」という意味があります。ここでは後者です。

・維摩は「こんな身体のことは忘れて仏身になることを願おう。その為には阿耨多羅三藐三菩提心(無上の悟りを求める心)を持ちましょう」と訴える。

3)弟子品
釈迦は弟子の誰かを維摩の見舞に行かせようと声掛けるが、軒並み断られる。彼らには維摩に論破された苦い経験があるからです。特に十大弟子は彼らの得意技にイチャモンをつけられて凹んでいるという感じなのです。自分が得意と認識してしまっている分野で落とし穴に落とされたという訳です。
・舎利弗(智慧第一)は坐禅中にやり方を指摘され何も言えなくなった。
・目連(神通第一)は在家信者への説法が出家信者向けの内容になってしまっていたことを指摘された。
・大迦葉(頭陀第一)は布施を受けるのに貧乏人を選んで回っている主旨は分からないでもない(大きな功徳を生む)が、そこにはすでに「こだわり」があると指摘された。また「立派な聖者に成ろうという下心はないでしょうか?」とも指摘される。
・須菩提(解空第一)は維摩の家で物乞い(=托鉢)をした時、受け取るにあたっていろいろな条件を言われ、茫然としてしまった。
・富楼那(説法第一)は説法に際には相手の心を読み取らなければならないと指摘された。
以下、割愛しますが、迦旃延(論議第一)、阿那律(天眼第一)、優波離(持律第一)、羅睺羅(密行第一)、そして十大弟子の最後の阿難陀(多聞第一)まで軒並み、それも得意分野でノックダウンされた過去があり、結局は全員が尻込み。

4)菩薩品
十大弟子全員に断られたので、仕方なく菩薩たちに頼むことにした。
・まずは、トップランナーの弥勒菩薩ですが、彼も断ります。維摩からは「弥勒様は仏陀の地位を約束されていると聞きましたが、それはちょっと仏教的には変ではないか?」この辺は難しいのですが、私は仏教が(キリスト教のような予定説ではなく)因果律なのにどうして釈尊が約束できるのか?と単純に考えています。多分、仏教特有の実在論らしきものが絡んでるような気はしますが。
・そして光厳童子からも断られてしまう。道で出会った維摩に「どちらから?」と聞き、維摩が「道場から」というので、「在家なのに道場って?」と不審に思い「どちらの道場からですか?」と問うてしまった。すると維摩は「あれも道場、これも道場、あそこも道場…」つまり、「悟りを求める心があればどこでも道場」と言われてしまったのです。道端で会ってもあまり関わりたくないですね。
・次に指名した持世菩薩からもやはり断られてしまう。彼は坐禅中に魔王から天女1万人以上を差し出され、慌てて窮地に陥ったところを維摩に助けられたという恥ずかしい過去を持つ。ハニトラ未遂ってところですね。
・さすがの釈尊もここで菩薩連中をあきらめて、在家の善徳に声をかける。善徳も尻込みするのは、以前盛大な施しのイベントを企画した時に、維摩から「金品の施し(財施)だけが施しじゃないです。大事なのは法施(仏法を教えること)です」と言われてしまったのであった。

5)文殊師利問疾品
・文殊菩薩も最初は尻込みしていたが、覚悟を決めて引き受けた。
・それを見た菩薩たちは「このやり取りを見逃す手はない」とばかりに、大挙して同行することにした。その数8千人の菩薩、500人の声聞など。
・維摩は家の中をすっからかんにして待っていました。そして文殊菩薩に会うといきなり「いらっしゃいませ。貴方は『来ていない』というお姿で来て、『会ってない』という状態で会いましたね」といきなり意味不明な挨拶。しかしさすがに文殊菩薩、動じることなく「そりゃそうです。既に来ているのですからこれから来る(=来ていない)のでもなく、既に会っているのですからこれから会う(=まだ会ってない)訳ではありません」と返した。私には「禅問答」か「ダジャレ」か「言葉尻をとらえている」のかなのですが、漢字版を見るとわかりやすいのかも知れません。いずれにしても、わかったようなわからないような。
・更に文殊菩薩は「体調はいかがですか」と問う。維摩は「私の病は癡(ち:物事の本質が見えない)と有愛(執着心)から起こっています」と言う。これらの原因は実は仏教の三毒(最も根本的な煩悩でこれを克服すれば悟りがひらける)のうちの2つで、残りの1つは「怒り」です。
・何故、維摩ほどの人がこんな病(仮病ですけど(^^;))にかかるかと言うと、三毒で悩む人々を救うためにやって来たのだが、そんな人々の苦しみに寄り添っているうちに自分も罹ってしまったということらしい。自分の子が病気になったら親も心配して病気になるし、この病気が治ったら親の病気も治るようなものだとか。この菩薩の心を「大悲」と呼んでいます。だから衆生の三毒が克服されれば菩薩の病も治るという訳です。「なら、この世に来たどの菩薩も病んでいるのか?」と突っ込みたくはなりますが、誰も突っ込んでくれません(^^;)
・文殊菩薩は部屋がすっからかんなのに気付いて理由を尋ねます。すると維摩の答えは「諸仏の国土もまた、皆『空』です」と。その後、空に関する「禅問答」のようなやり取りが続きます。
・「どうすれば『空』にたどり着けますか?」と文殊菩薩が問うと、維摩は「六十二見だ」と答える。この六十二見とは、仏教において外道(=キリスト教的に言うと「異端」)とされる考え方のことですが、唯物論的なものや、死後の別世界が存在するとか、詭弁を使うとかで、少々わかりにくい内容です。いずれにしても、仏教の要諦である「空」を理解するのに、仏教の異端から学べというのがポイントです。要するに「アカン」と言われているものを学ぶと、なぜアカンのか理解できるという訳です。ミイラ取りがミイラにならなければ良いのですが(^^;)
・次に病について尋ねると、維摩は「私の病は身体の病ではない。心も「空」だから心の病でもない。」と言う。「じゃあ何やねん」と突っ込みたくなるが、そこは流石に文殊菩薩様、「そのような病に罹っている菩薩にはどう接すれば良いですか?」と尋ねる。維摩は、
  ‐身体の無常は説いても、身体を嫌悪させてはいけない
  ‐生きることは苦しいと説いても、涅槃を願うように言ってはいけない
  ‐身体は空であるとは説いても、他者を教導するように説け
などなど、出家ではなく、在家のと交わるように進めている感じである。
・次に「病気の菩薩は、どうすれば不安や恐怖を取り除くことが出来るか」と文殊菩薩が問う。維摩は、
  ‐この病は「我」に執着するのが原因ということを知る事。
  ‐この身は「法」の合成に過ぎない、起はただの法起、滅はただの法滅に過ぎないと念じる。
などなど、「空」の実践についてのやり取りが続く。無理やりまとめると。結局は菩薩はこの輪廻の世界にとどまり、衆生の苦悩・愚痴・貪欲に接しながら生きていくのがホントの仏道の姿であると言っているです。日本でも在家の仏教が主流になったのは、これの影響もあるかもしれません。

少し急ぎましょう。

6)不思議品
・この品では菩薩の不思議話が紹介されます。
・舎利弗は維摩の家に椅子がないことに気付き「皆はどこに座れば良いのかな」と思ってました。そこで維摩は「貴方は法を聞くために来たのですか?椅子に座りたいから来たのですか?」と問う(何だかイヤミな質問です)。見舞に来ただけだからどっちでもないというのがホンネの答えだろうが、舎利弗には「法です」と答えさせている。維摩は「法を求めに来る人は身命を惜しまないくらいだから、本来なら椅子など求めないでしょう」とちょっと意地悪なことを言う。しかし維摩は神通力を使って32千座の椅子を出現させた。

7)観衆生品
・維摩の部屋に天女が現れ、天界の花々を皆の上に散らした。菩薩たちに降った花はそのまま落ちたが、弟子たちのは落ちなかった。天女は舎利弗に何故花を振り払うのか尋ねたところ、舎利弗は「花(で飾るなんて)は出家者に相応しくない」という。天女は「相応しくないというのは、あなたのこだわりですね」と痛いところを突いてきた。娑婆にいても、あらゆる場面で「空」を意識していれば、煩悩に惑わされることはないということ。
・また以前は、煩悩を滅することが主題で、それにより悟りが得られると考えられていた。しかし、衆生は何かしら欲求を持って生活せざるを得ず、したがって煩悩を完全に消すことは難しいと次第に考えられるようになった。そしてよく考えれば、煩悩があるからこそ悟りを求めようとするわけで、煩悩と菩提心(悟りを求める心)は(光と影のような)不離一体ではないかと思われる。これを「煩悩即解脱」と呼ぶ。
・舎利子は一番弟子という割には、いろいろな人からやっつけられていて気の毒なのですが、舎利子を含む十大弟子と菩薩たちの関係はどうなっているのかがちょっとわかりづらい。端的に言えば舎利子は菩薩か否か?大乗仏教的に言えば菩薩(求道者)ですが、上座部的に言えば(声聞→阿羅漢)という感じなのですが。もともと、時空をはるかに超越していて、すべてが空で、教えも方便だと言われたら何かつかみどころがなくなるのが仏教。仏教を調べ始めると、理解の為の「アンカー」がすべて消されて途中でカオスをさまようハメになりそうです。愚痴はこれぐらいにしておきましょう(^^;)

8)仏道品
・文殊菩薩が維摩に尋ねます。「菩薩はどうやって仏にたどり着くのでしょうか。」維摩は「非道(煩悩に迷う誤った道)を行けばいいのです」と答える。文殊菩薩は「何故、非道に?」とさらに尋ねます。維摩はいろいろ説明していますが、つまり「菩薩だったら、見かけはいろいろあっても、どこを進んでも心身は清らかで、煩悩に煩わされることない」ということです。例えば、財産があっても貪らないとか。
・今度は維摩が文殊菩薩に如来(=仏陀)になる種(=素質)を聞くと、文殊菩薩は一切の煩悩が種であると答える。更にどういう意味か尋ねる維摩に対して「空中に種をまいても発芽しない。種は衆生の煩悩の泥の中で育って仏法を起こすのです」と答えた。ここでも煩悩即解脱。「悟り」と「煩悩」という相反するものを合一させてしまってます。弁証法的ですね。
・その時普現色身菩薩が維摩に「あなたのご両親、ご家族やご友人はどうされたのか?」と尋ねた。維摩は偈(=詩歌の一種)で答えました。メチャ長いので省略しますが、無理してまとめてみると、娑婆で日々仕事をこなし、人々に慈悲を与え、共に生活していくことが仏道であり、出家・在家は関係ないという感じかなと思います。

9)入不二法門品
・「不二法門」というのは、少し説明しましたが、「相反するものが1つにまとまって存在する世界」という感じなのですが、相反するものとは例えば「悟り」と「煩悩」、「善」と「悪」、「浄」と「不浄」です。こういう不二法門の世界にどうすれば入ることが出来るかという維摩の質問から始まりますが、要は「悟りを開くにはどうすればいいか」というのと同じように考えればいいと思います。
・長くなるので割愛しますが、31人の菩薩がそれなりに立派な答えを語ります。最後に文殊菩薩は「あらゆることにおいて、言わず、説かず、示さず、意識せず、すべてから離れること」と答え、「では、維摩さん、あなたの答えは如何に?」と尋ねます。
・すると維摩は黙ったまま一言も発しません。それを見た文殊菩薩は「誉めよ讃えよ。文字も言葉もないとは。これが真の入不二法門品である」と感嘆の声を上げる。
・このくだりは「維摩の一黙、雷の如し」と言われる有名な箇所です。私にはコントに見えるのですが、いたって真面目に「仏の教えは文字や言葉で説明することはできない」ということを身をもって示したということです。感じて体得せよということでしょうが、そこに釈尊の苦労があるのでしょう。
・ちなみに、別の機会で舎利弗は「真如とは若き女の乱れ髪、結う(言う)に結われず、解く(説く)に解かれず」と答えたとか。ホント、狂言歌のようですね。いずれにしても「言葉で説明」した時点でアウト!という訳です。舎利弗はともかく、さすがの文殊菩薩先生も一本取られてしまいました。
・不二法門の私の理解のイメージは、物理学の「物質」と「反物質」みたいな感じで、元々「(物理学とは違って光ではないが)空」の世界で「煩悩」という揺らぎ(=縁)が発生したので、同時に「悟り」も発生したというものです。「煩悩」が無ければ「悟り」もなく両者はコインの裏表とでも言いましょうか。違うでしょうか。「薪と灰」とか「生と死」とかで例える方もいらっしゃいます。いずれにしても両者は対立するものではなくつながっているものだという感覚です。ここで二項対立に持って行かないのが西欧との大きな違いですね。

10)香積仏品
・非時食戒といって、仏教の戒律では午後は食事ができないので、正午近くなって舎利弗が菩薩たちの食事の心配をし始めていた。それを察した維摩に「食欲を持って法を聞くとは何事か」とたしなめられたが、更に維摩は「仕方ない、それならちょっと待て」と言って、衆香国の菩薩たちを呼び寄せ、香飯を持ってくるように言った。維摩さんは口うるさいが優しいのです。
・飯の話は置いといて、維摩は衆香国の菩薩たちに、かの国での教化の方法を尋ねたところ、香りで伝えるのですと答えた。逆に衆香国の菩薩から強化の方法を尋ねられた維摩は「この国に人は頭が固いので、釈尊は強い言葉で教導しています」と答えた。また「強化しにくい人は猿のようなものなので、いろいろな手を使ってその心を制御して調伏させる。例えば暴れ馬には苦痛を与えて骨身にこたえるようにするとか」なんて酷いことも言ってます。この娑婆では我々の頭が固いので、釈尊も苦労されているようです(^^;)

11)菩薩行品
・維摩と文殊菩薩が、菩薩たちを引き連れて釈尊の家に戻りました。
・釈尊は香りが仏事(=教導する)をなす仏土だけでなく、光や菩提樹や食べ物など、いろいろなことで仏事をなす仏土があることを説明。諸仏の動作・振る舞いのすべてが仏事であると説く。要は出家だけが道ではないと説いた。

12)見阿閦如来
・釈尊は「実は維摩は妙喜国という仏国土で没して、この娑婆に来生した方なんだ」とバラします。妙喜国は極めて楽しいという意味で、そこには阿閦仏(=動かざるものの意)という方がいらっしゃると紹介が続く。
・舎利弗は驚いて「では貴方は清浄な仏土を捨てて、この罪深い娑婆に来ることを望まれたのですね」と言った。しかし維摩は「不浄の娑婆に来生するのは、愚かさの闇に混ざる為ではなく、ただ衆生の煩悩の闇を滅する為にやってきたのだ」と答えた。釈尊は娑婆は仏の心で見たら浄土だと言うてたやんと思うのですが、どっちやねん?
・その次に維摩は人々の願いに応えて妙喜国を見せますが、詳細は割愛します。ただ、この時に娑婆世界の14那由他(≒一千億)の人々が阿耨多羅三藐三菩提心(無上の悟りを求める心)を発した。この菩提心を内発的に起こすことが必須とされています。

13)法供養品
・釈尊はこの法(維摩経)は過去・現在・未来の諸仏が阿耨多羅三藐三菩提(無上の悟り)について説いてきたものであるから、男であれ女であれ、この教を受持・読誦・供養すれば多くの福徳を積むことが出来ると説く。
・また、あらゆる供養の中で最も重要なのは「法の供養」であって、この教を信解・受持・読誦し、方便力で衆生のためにかみ砕いて説くことが法の供養であると説く。
・そして、修行での心得として4点を説く
  -義(仏の教え)を依り所とするも、語(言葉)に依ること勿れ
→表現にとらわれることなく真理を見よう
  -智(仏の教え)を依り所とするも、識(知識)に依ること勿れ
→教えを一度自分で咀嚼しよう
  -了義教(大乗経典)を依り所とするも、不了義教(小乗経典)に依ること勿れ
  -法(教え・真理)を依り所とするも、人(語る人)に依ること勿れ
→説く人ではなく、教えの中味に依拠しよう

14)嘱累品
・この教の最後に釈尊は自分の入滅が近いこともあって、この教を弥勒菩薩に託し(嘱累という)、それを受けて弥勒菩薩は決意表明します。弥勒菩薩に続き、この場にいるあらゆる菩薩や四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)も同様に決意表明をします。
・釈尊は弟子の阿難にも、この教を広めよと命じて、名前を「維摩詰所説(=維摩詰が説いた教)」またの名を「不可思議解脱法門」と名付けた。そして、その場の全員が歓喜にあふれた。

以上