【2000字小説】名前を教えてもらった日

液体を吸い込むバキューム音。ホースを流れる水分は透明のようでいてそうではなく、臭いはこの部屋の一部になってしまっている。この装置の正式名称は「自動採尿器」というらしい。つまり、寝たきりでトイレに行けない人間でも、このホースの付いたカップを局部に添わせればセンサーが排尿を感知し吸い込み機能が作動、そのままベッド下にあるタンクに溜めてくれるのだ。

玄関先でかすかに物音がする。誰か来た。それでも伊吹は気にかけなかった。今この手を離すわけにはいかないのだ。

駒田伊吹の右手が支える採尿カップは男性用で、父親が尿意を感じるたび、彼女は布団の中に手を入れ股間にカップをあてる。タンクいっぱい尿が溜まると、その都度捨てたり洗ったりしてきた。大きい方が自動で吸い込まれたり収まったりの機器はまだ聞いたことがない、オムツ一択。汚いとかそういう感覚は、いつからか伊吹の中では無かったことになってしまった。

「お邪魔しまーす。勝手に上がりますねー」

声の主は訪問看護師だ。そういえば今日から新しい人が担当だと聞いていたっけ。勝手に入ってくるのか、父親が呟いた。出迎えや見送りをしたらしたで、自分だけベッドに取り残されたと不安になるくせに。

六十歳の駒田啓一は五年前から寝たきりになり、障害の等級でいうと一級認定者だ。伊吹の二人の姉はそれぞれ家庭と仕事があり別居、去年、母が亡くなってからは末っ子で独身かつ学生の伊吹が介護を担うことになってしまった。なった、ではなく、なってしまった。大学も休学して一年になる。本当なら卒論を書いたり就職先が決まったりする学年だ。

啓一が用を足し終わったので、すぐ横の洗面で伊吹がさっと手を洗いを終えると、
「はじめまして、砂川多香子です」
ポロシャツに動きやすいパンツスタイル、訪問看護ステーション所属の看護師が、コンパクトにまとめられた看護バッグを相棒に、きびきびと動き出した。

「前任者からひと通り聞いてますが、面倒臭くても問診には答えてくださいね」
看護師は慣れた手つきで体温計を啓一の腋に挿し、同時に瞳孔や体の浮腫をチェックしながらメモもとる。
「お薬は飲めてますか?」
「飲んでなかったらとっくに死んでる」
「睡眠時、夢は見ますか?」
「死ぬ夢なら何度も見た」
「それ、甘えたがりの男性に多い傾向です」
啓一がムッとしても看護師は気に留めず、ややあって伊吹に視線を移した。
「一番下の伊吹ちゃんね?えっと、今」
「……大学生です」
「ちゃんと学校行けてる?」
知らないのか。伊吹は曖昧に頷いた。

看護師は啓一の手足に触れたり動かしたりして、病状を確認してはノートに細かく書き込んでいる。チラッと見えたのだが、今日ここで書き込む前に、かなりの予習がしてあるようだ。
「では駒田さん、確認していきますね。悪性関節リウマチを約三十年前に発症、五年前に悪化してからは四肢不全麻痺。一年の入院を経て自宅療養。指定難病の医療費助成は利用出来ていますか?」
啓一が何も答えないので伊吹が答える。
「……そういうのは、母がちゃんと」
「奥さん、去年亡くなったんですってね」
そこは当然予習済みか。伊吹は素直にそう思ったが、啓一は答えないというより、天井を見つめ続けるという行為に切り替えた。

「公的なサポートは出来る限り利用してくださいね。介護を受ける人だけじゃな
く、介護する人も。駒田さん、そろそろ伊吹ちゃん、学校に戻してあげましょうよ。男の子だったらどうだった?」
伊吹はウッと息が止まりそうになった。休学してること、知ってたんだ。
自分は女だから介護要員にされてしまったのか?父親はそういう世代だもんな。
どっちにしろ、こんなこと言われたのは初めてだった。
「今は男の子も女の子も、あなたみたいに家族の介護をしている子のことをヤングケアラーっていうの」
これも初めて聞く言葉だった。

「伊吹ちゃん、よかったら検索してみて」
伊吹は素直に看護師の言葉に従う。スマホを操作すると、子や孫など家庭での若い介護従事者を「ヤングケアラー」といい、学業や仕事に差し障るため、全国的な実態調査とサポートの充実を求める動きが広がっている、そんな記事が並んだ。
「あなただけじゃないのよ」
「……砂川さん」
なぜか、名前で呼びたくなった。私のこの日常も、ちゃんと名前があったのだ。

すると突然、砂川さんが言った。
「ねえ駒田さん、たまにはお外に出ましょうよ」
「この体でか?」
「他にどの体があるっていうの? たぶんそう言われると思って、いいもの持っ
てきたんです。ちょっと待ってて!」
砂川さんは一旦部屋の外に出て行くと、すぐにリクライニング車椅子を両手で押して戻って来た。そのままベッドの啓一を抱き起こすと、プロの所作で素早く車椅子に乗せてしまう。リクライニングといっても、ほとんどストレッチャー状態だ。
「た、頼んでもないことをするな!」
「行きますよ、駒田さん!伊吹ちゃんも!」

外といっても玄関前の道路。寝たままの男と若い女と四十くらいの女が立っている。ジリジリと照りつける夏の太陽が、アスファルトに三人の濃い影を作る。もう
何も感じないと思っていた父親が暑さで汗をかいていた。たったそれだけのことだけど、私たちはまだ光の中にいる、伊吹はそう思った。 《終》


#2000字のドラマ

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