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破壊の女神⑤

 5

「――以上が僕の考える生涯学習の今後についてでした」
 頭を下げ、壇上を後にする僕を万雷の拍手が襲った。僕はそれから逃げるように観客から視界を隔てているステージ横の幕の中へと逃げ込んだ。持っていたマイクをスタッフに預け、空いているパイプ椅子に落ち着いたところでようやくため息を吐けた。
 名前が売れ、注目度が上がると要らぬプレッシャーが発生してしまうことを最近知った。あの夢路響の講演だということで見ている側の期待度も勝手に上がってしまうのだ。
 あの拍手喝采は一体どういう意味なのかを考えることだけはしたくない。
「よう、人気者」
 横のパイプ椅子に座っていた男がニヤニヤしながら声をかけてくる。カエルによく似た男だ。
「弦吾君、まずはお疲れ様でしょう」
「え? なんだって? 拍手が大きすぎて全然聞こえないや」
 下手くそな演技で嫌味を継続するカエル。
「勘弁してほしいよ。本当に客寄せパンダだよこれじゃ」
「またまた。困ったふりしちゃって」
 彼はどうやら僕のため息を本当の気持ちの現れとして捉えてくれないようだ。
「どういうことですかね。僕がこの状況を喜んでいるとでも」
「喜んでいないのですか?」
「喜んでない。楽しんでもない。嬉しくもない」
「どうしてこう、立て続けに嘘を申すかねこの男は」
「申してない」
「あの客層を見ろよ、兄貴」
 弦吾君が幕に手を伸ばして少しだけ横にずらす。
「妙齢の女、女、女。こんな堅苦しいだけの講演会にはまず興味のない種族。ありゃ全部夢路響目当てだ」
「偏見だよそれは。どうして妙齢の女性がみな堅苦しい講演に興味がないと考えるのかな。意見があるならその根拠を示さないと。カエルではない、社会学者として意見するなら」
「兄貴は目の付け所がなってないね」
 何故か呆れ果てる弦吾君。
「なんだって?」
「根拠ならあるよ。見ろよあの女ども、全員美容院行ってからここ来てんだよ」
 適当なことを言う弦吾君。
「ははは。なんだそりゃ。勝手な想像でものを言うのはよくないよ」
 僕は一笑に付したのだが、弦吾君は本当に呆れ果てた表情でこちらの様子を窺ってくる。しかもその後、さっきの僕のよりも深い溜息を吐いたのだ。
「じゃあなんで全員あんな濃いめの化粧してんだよ。あんなおしゃれまでしてさ。講演会を見に来ることとおしゃれしてくることに何の関係があるんだよ。下心があるからそういうことしてくるんだろ」
 弦吾君は茶化すでもなく本気で説得するように言ってきた。
「ダメダメ。騙されないよ弦吾君。僕を困らせようとしても無駄」
 すると今度は諦観の視線で僕を見つめてきた。なぜかこちらが責任を感じてしまいそうになるその冷めた視線。
「こいつは姉ちゃんだけじゃないな。旦那も立派な異常者だ」
 はっきりとそう言ってきた弦吾君の声は確実に何かを憂いていた。
「しかも悪いのは全部この男ときたもんだ」
「え? 僕? 何が?」
「結婚していることを公表していない。なのに自分に寄ってくる女の下心も見抜けない。奥さんからしたら危険極まりない旦那だ」
 なるほどと思った。彼の言っていることが間違っていないのならそういう結論になる。
「じゃあ僕はどうすればいいんだい? どうやったら女性の下心とやらが見抜けるようになるのか、ちょっと僕に教えてみてくれよ」
 僕が諮問してみると、弦吾君は持ち前のニヤニヤを見せつけながらこう言った。
「もっと悪意を持って世の中を見ることだね、社会学者の夢路響先生」
「ほう。なるほど。そりゃ言うほど悪くない答えだよ。そういう視点でしか見えないものもたくさんあるからね」
 僕は頷きながら言った。
「真面目かよ」
「いいや、不真面目だから真面目なふりができるんだよ」
 今度はこちらがニヤニヤしながら言った。
「おっと、こりゃ一本とられましたな」
「勉強が足りないね弦吾君。もっと悪意を持って僕を見なきゃ」
「おっと、こりゃ一本とられましたな」
「それじゃ二本になるじゃないか」
「おっと、こりゃ三本とられましたな」
「君、さては算数ができる子だね」
「夢路先生」
 男の声が頭上から降ってきて、僕は思わず立ち上がった。義弟との悪ふざけを楽しんでいた不真面目な時間の中声をかけられると、何故か悪事を咎められた気分になってしまうのだった。
「発表、お疲れさまでした」
 白髪の混じり始めた長めの七三分けが特徴のメガネ男が、どこか皮肉っぽい微笑を浮かべたまま、形式だけの挨拶を述べてきた。
 初老メガネこと斎藤准教授である。きちっとしたスーツを着ているが、体が痩せすぎていて似合うことなど永遠にない。
「あ、斎藤先生。これから出番ですか」
 僕はなるべく腰を低くして話すようにした。罪人の気遣いである。
「ええ。夢路先生のおかげでずいぶんと会場も温まったようですし、あの通り席も埋まってます。非常にやりやすいですよ」
 感謝しているとは思えない侮蔑とも思える視線を突き刺しながらそんな感謝の弁を述べてくる斎藤先生。裏の顔と表の顔を使い分けることを忘れたのだろうか。
 いやいや、悪意を持って見るとそう見えるというだけのことなのだろう。
 ここでアナウンスが入り、斎藤先生が登壇していった。僕は心の中でアナウンスに感謝を述べて再び椅子に座った。
「兄貴、初老メガネの心の声は録音できたかい?」
 初老メガネが去るまで存在感を消していた姑息なカエルが、脅威が去ってから活動的になる何の不思議もない生態。
「あいにく僕にそんな機能は無いので」
「夢路響め。余計な客集めやがって。お前目当てで集まった聴衆どもはどうせ俺様のありがたい話を聞きやしないんだ。相変わらず気に食わない野郎だ。よおし、今度また雑用を押し付けてやる」
「弦吾君。器用だね。メガネのジェスチャーしながらたまに髪の毛を七三に分けるなんて」
 こうなるともう弦吾君自体が悪意の塊である。
「兄貴、つうわけで俺は寝るから」
 いきなり椅子に体の全体重を預けて腕組みをする弦吾君。
「こらこら、君ら学生は発表者の話をレポートにまとめて提出するように言われているだろう。ちゃんと聞かないと」
「いやいや。兄貴がちゃんと話を聞いておけば、後で俺に内容を伝えることができるじゃないか」
「それは非効率的だね。伝聞でレポートをまとめるより直接君が聞いておくべきだよ」
「そうじゃないんだよ兄貴。どうせ真面目に話を聞いたところで俺は眠っちゃうんだよ。アイツの話が面白かったことなんて一度だってなかったじゃないか」
「君ね……」
「だったら初めから無駄だと割りきって寝てしまえばいい。兄貴はこういう要領の良さがないから気苦労が絶えないのさ」
「面白くないかどうかまだ分からないじゃないか。聞いてみないと」
「性善説者め。自分がいかに損な生き方をしているのか、三十分後に思い知るといいよ。お休み」
 そして三十分が経過した。
「おはよう」
 きっちり目覚めるのがカエルのすごいところだ。
 そしてタイミングよく講演を終えた斎藤先生が通り過ぎていった。
「斎藤先生、お疲れ様です」
 僕はきちんと挨拶したはずなのだが、何やらもの言いたげな視線を僕に投げかけ、斎藤先生は去っていった。
「それじゃ、今の彼がどんな発表をしたのか、要約してみてくれよ」
「え、うん……」
「あれ!? 兄貴、なんだか眠くなってない?」
「あ、いや別に。そんなこと全然ないよ」
 弦吾君が素早い動きで幕に手を伸ばし、ちょっとだけ開けてみた。
「おいおい! 今目が覚めましたよっていう欠伸混じりの女がほぼ八割じゃねえか。たった三十分間で何をやったんだか」
「いやいや、全然、そんなことないよ。発表自体はすごく面白いものだったんだから」
「テーマは?」
「え? 現代社会における大学進学の意義」
「なーるほど。睡魔の原因はそれか」
「ええ? とても興味深いテーマじゃないか。だって、今現在、僕の奥さんと君の妹が何をしているのかというと……」
「あ。そういやそうだな。ちょうどこのテーマに関することを田口とかいう先生と喧々諤々(けんけんがくがく)、談論風発しているかもしれないということか」
「いや、うん……」
「なんだよ?」
「いつものように、弦吾君の稚気から出たその二つの四字熟語を否定しようと思ったんだけど……」
「姉ちゃんがその場にいるとなると、無いわけではないと?」
「うん。ただの話し合いにはなっていないような……」
 自分で言っていて不安になる。
「大学進学に意義なんてあるのですか、とか実際に言ってそうだな。コテコテの進学校の教員に対して」
 悲しいことに、僕はその音々さんを簡単に想像できてしまう。
「それじゃあ、俺が今どうして大学に通っているのか、その意義を聞こうじゃないか」
 どこか嘲るような笑みを浮かべて弦吾君が僕に試問してきた。弦吾君も十分姉に毒されていると思うのだが。
 とりあえず僕は先ほどの講演を思い出し、弦吾君のレポートのために尽力することにした。
「斎藤先生が仰った大学進学の意義。まずは就職が有利になること。というか就職に関して大卒がもはや前提になってしまっているということ」
「ほう」
「大企業なんかはどこもそうなってるんだけど、採用条件の中に大卒という項目が入ってきてしまっているんだ。まともな企業に就職したいならちゃんと大学受験に合格し、ちゃんとそこを卒業してこいという社会からの要求みたいなものがあるんだね」
「そいつが真面目に生きてきたっていう証拠がほしいんだろうな。雇う側からすれば」
 悪意のカエルが真実を見抜く。
 要するにふるいにかけるということだろう。若者全てを募集対象にし、そこから使える人材を見分けるための選定作業を行うとなると時間も人員もいくらあっても足りない。ましてや学歴に関係なく人の資質を見抜く目を持っている人間がどれほどいるのだろう。何らかの基準を設けて、その基準に達しない人間をばっさりと切ってしまっても有用な人材の残る確率はそれほど変わらないだろうし、かえってその少数に選定の目を注力することができればそっちの方が良い結果になる、ということだ。
「音々さんならこの大学進学の意義に対してどんなことを言うかな?」
 僕は思わず悪意の弟に訊いてみた。就職に有利という味気ない進学理由に対し、あの異世界の住人はいったいどんな意見を持つのだろう。
「俺に訊くなよ。俺はもう懲りてんだよ。俺がいくら頭を打とうが姉ちゃんと同じ思考になるのは無理だと分かったんだから」
 弦吾君が苦い顔をして僕の疑問に砂をかける。これは相沢氏の著書に対し弦吾君が反論を並べ立てた時のことか。弦吾君のどの反論よりも音々さんのなんでもない感想の方が遥かに毒々しかったのだ。
「今日、帰ったら美琴に三者面談の様子を聞いてみろよ。姉ちゃんがどのようにして大学進学の意義を否定したのか、きっと詳細を語ってくれるはずだから」
 まるでそれを楽しみにしているような顔をしている弦吾君を見て見ぬふりし、僕は続けた。
「あと斎藤先生はこうも言っていたよ。高卒と比べると、大卒の就職の選択幅が広いというのは厳然たる事実としてあるということ。賃金や待遇が良いというだけじゃないんだ。これは人生の幅が広がるか広がらないかという問題だ。少ない選択肢から人生を選ぶより多い選択肢から選んだ方が得でしょ、という感じ」
「何が人生の幅だよ。言いたいことはさっきと同じで、結局は就職に有利だってことだろ。相変わらず面白くもなんともない意見しか言わない准教授だな」
「でも事実でしょ」
「面白くもなんともないってことが?」
「大卒は高卒と比べると選択肢が多いってことが!」
 カエルめ。
「まあ悲しいくらい否定できない事実だよな。学歴社会とはこのことかと痛感させられる。しかしながらその後の離職率の高さはいったい何を物語っているのか」
 嫌味を絶対に忘れないカエル。社会全体に対してもそうらしい。
「弦吾君、そこまでうがった見方ができるのなら、音々さんが何を言うのかも分かっているはずだ」
 またしても僕は弦吾君を試すような真似をした。弦吾君は今度こそ乗り気になったのだろうか、阿呆のように目を見開いて真っ直ぐ前を向いた。
「私、小説家ですけど、小説家は大卒だろうと中卒だろうとなれるのでは? ですので、大卒にメリットなんてありませんよ」
 下手くそな物真似はともかく、音々さんが言いそうなことではある。
「可能性としてはなくはないだろうね」
「いや、当たってると思うよ。今回は自信ある。美琴の報告を待とうか」
 向こうも同じ内容の話になっている保障などないのだが、弦吾君はもうその気になってしまっているようだ。
「他にもいろいろ言っていたよ。資格を取るのに有利だとか。対人コミュニケーションのスキルがアップするとか」
「でも結局どんな資格にしろスキルにしろ職と絡めてくるんだろ。人生を豊かにするとかじゃないんだよ。就職を有利にするため、あるいはそれ自体が就職に必要なため」
「大学進学の意義といったらもはやそれなんだよ。みんな四年後就職するために大学に入ってくるんだ」
「じゃ、今度は兄貴が姉ちゃんの真似してそれを否定してみてよ」
 僕は阿呆のように目を見開いて真っ直ぐ前を向いた。
「私は小説家ですが、小説家に資格は必要ありませんよ?」
「全然違う。絶対そんなこと言わない。あの人はもっと狂ってるって」
 なんという弟だ。
「続いて、聴衆からの質問に斎藤先生が答えるパート」
 僕は数秒前の物真似を闇に葬って話を進めた。
「そんなイベントがあったのかよ。先生、人気者じゃねえか」
「元々そういうプログラムだったんだよ。僕の発表した生涯学習なんかより一般の人と関わりの深いテーマだから」
 といっても時間が無く、二三人しか質問を振れなかった。その中でも意味のありそうな質問は一つだけだった。
「ある女性からの質問。自分は将来、子供を光政大学のような難関大学に入れたい。大学受験を乗り切るにはどうすればいいのか……」
「それこそ聖林の教員にでも訊けよ。うちの斎藤さんの範疇じゃないでしょ」
 弦吾君が冷笑を浮かべて「やれやれ」のリアクションを取った。
「まあまあ、弦吾君。美琴ちゃんに置き換えて考えてみなよ。彼女、来年受験生なんだからさ、お兄ちゃんとしても不安でしょう」
「美琴は光政大学志望なんだっけ?」
「まだ迷ってるみたいだけど、一応はね」
「アイツ、ここ目指せるほど成績良くないって」
「それでも入りたいと思ってたら何をしてやれるのって話さ」
「斎藤大先生はなんと? 僕は大先生の意見に従いますよ。全幅の信頼を彼には……」
「へえへえ。まずは三年間、計画的に勉強をさせてくれる質の良い進学校に入れること。そして家族全員で協力して家庭内でも勉強に集中できる環境を整えてやること」
 とにかく勉強することが第一と言いたいのだ。間違ってはいないのだが……。
「そういうやつが若者の自殺を後押しするんだよ。学校でも家庭でも勉強勉強って。やってることはブラック企業と変わんねえよ。二十四時間、やりたくもない勉強なんつう強制労働をどいつもこいつもさせられてんだから」
 弦吾君は本心から毒を吐いたようだ。大先生の意見に従うのではなかったのか。
「じゃあもし美琴ちゃんが本気で光政大を目指すのだとしても勉強勉強にはさせないと?」
「うちは学校で勉強、家で介護が基本だから」
「こっちもこっちでブラック企業じゃないか」
「先生、美琴が自殺してしまわないように、うちでは勉強をやめさせますね」
 弦吾君がいつのまにか阿呆みたいに目を見開いて真っ直ぐ前を向いていた。
「ま、姉ちゃんの言いそうなこととしてはこんなところですかね」
「あ、わざわざ、ありがとうございました」
 別に頼んではいないのだが。
「今日を境に美琴が一切勉強しなくなってるかもしれないぜ、兄貴」
 そうだといい、みたいな笑みを浮かべて弦吾君がそんな予測を立てる。 
「はいはい。楽しそうでいいですね。とりあえずレポートは自分でやってね」
 だが弦吾君と話しているうちに三者面談の様子が気になってきたのは事実。はやく帰って二人に話を聞いてみたい。弦吾君や僕の物真似なんかよりも収拾のつかないことをしていそうで少し怖い。
 僕は何の変哲もない明日が大好きなのに。

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