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悪魔の子供たち⑦

 7 沈黙の当事者たち
 
 昼休み。俺とハルは高屋さんに会いに出向いた。
教室では高屋さんと萩原さんが同じところに固まって話をしていた。しかも二人ともノリノリで話をしている。どちらかというと萩原さんの方がうるさいくらいだ。
 他のグループはというと、その様子を遠慮がちに遠目から見ているのだった。
 腫物扱い。それに加えて萩原さんよくやるわ、偉いよね、といったところか。それよりもその腫物が意外なほど元気なので、元お仲間さんたちにとってみればそれが安心材料になっているのかもしれない。罪の意識が薄れるという。
 山尾先生に会った後、ハルが一人イライラしていた。見て見ぬふりをしていた体内のモヤモヤがいよいよ臨界点を超えてしまったらしい。
 俺はどのモヤモヤから手を付けてもいいんじゃないかとハルに提案してみた。するとハルは一緒にあなたのお姉さんのフリースクールに行ってみないかと誘ってきた。俺はじゃあ行きますと言った。俺も行きたいと思っていたところだ。
「新聞部としていじめ事件に触れることはできないけど、いじめ事件の被害者と加害者を仲直りさせることなら記事にしてもいいのでは」
 俺はハルのこの大胆な意見に乗ることにした。むしろ名案だと思った。悪徳新聞社が平和友好的報道をするという前代未聞の策。学校側だって木田さんが不登校になっていることを問題視しているのだから、その状況を改善するための記事を無下に握りつぶすような真似はしないはずだ。何でもかんでも俺たちのやることに異議を唱えていればいいと思っている津崎のオッサンもおあずけを食らった犬みたいになるのではないか。
 そのためにもハルは姉のフリースクールへ行っていじめ事件の加害者側の木田さんと会ってみようと提案したわけだ。
 そこで出発前に高屋さんにも声をかけてみようということになったのだ。
 萩原さんが反対側の入口から先生に呼ばれて、何処かへ姿を消した。
 高屋さんは話し相手がいなくなると急激に表情が暗くなった。
 彼女はすぐに教室の入り口にいる俺たちを見つけた。俺は手招きして彼女を呼んだ。
「どうしたの、二人とも?」
 近づいてくる前から目で驚きを示していた高屋さんに早速俺は切り出した。
「今日の放課後ね、フリースクールに行こうと思ってるんだ」
 一瞬、高屋さんの全身に緊張が走った。
「高屋さん、どうする?」
 俺は訊いた。
 ゆっくりと緊張を解いた高屋さんはゆっくりと首を横に振った。
「多分、嫌がられるか怒られるか、どっちかだから」
 彼女は自信なくそう答えた。
「高屋さんの方は嫌ってないの? 木田さんのこと」
 ハルのこの質問に、高屋さんが一瞬だけ沈黙した。
「私が?」
 高屋さんは滅相もないといわんばかりに首を振りまくった。
「そんなことないよ。てか、むしろ逆」
「逆?」
 高屋さんは照れ隠しの笑みを浮かべていた。
「私はリョウちゃんが学校来てないことの方が嫌なのよ」
「同じね……」
 ハルがボソッと呟いた。
 ハルの言うとおり、同じなのだ。あの事件も、あの事件も。罪悪感を抱えているのは加害者側だけではない。被害者側もそうなのだ。この高屋さんのように。
「高屋さんは、木田さんに悪いと思ってるの?」
 俺は訊いてみた。
「うん」
 高屋さんは気まずそうに頷いた。
「もし今回のことで一番傷付いている人が私だったらそんなこと思わなかったかもしれないけど。一番傷を負ってるのって、どう考えてもリョウちゃんだから。むしろ私なんかぴんぴんしてる方よ」
「だから尚更合わせる顔がないと」
 ハルが訊くと、高屋さんは軽く首を縦に振った。
「うん……」
「そのせいで毎日塞ぎこんでいるの?」
 ハルが更に訊いた。今度はもっと微細に首を縦に振った。
「まあ、ね。でも瞳ちゃんが元気づけてくれるよ。今回のことがある前からずっと、瞳ちゃんだけは気にかけてくれていたの」
 そのお陰でだいぶ明るくなった方だという。
「クラスの他の人たちは励ましてくれないんだ。冷てーな」
 俺は小さめの声でそれを口にした。
「私は構ってほしんだけどね。前みたく」
 物寂しそうに高屋さんは言った。
「リョウちゃんに、このままだと面白くないから早く学校来てよって言っておいて」
 そう言い置いて高屋さんは教室の自分の席に戻った。
「高屋さん側からはすぐにでも仲直りが可能みたいだな」
 俺のこの意見にハルも同意した。
「そうね。あとは木田さんがどう思ってるか。それと、仲直りを可能にする環境の整備も必要ね」
「環境?」
「学校。もっと範囲を狭めると、教室。つまりここのクラスの雰囲気」
 ハルの言いたいことはよくわかる。木田さんに戻ってくる意志があったとしても、この教室に彼女たちを敬遠する雰囲気が漂っているのなら本格復帰は難しいということだろう。
「高屋さんの方からだけでなく、実のところクラスの人達だって前みたく彼女と接してやりたいのではないでしょうか」
 ハルが教室の中を見渡しながら言う。
「沈んだ空気を何とかしたいと願っているのは、誰よりもここのクラスの人達でしょうから」
「じゃあ高屋さんに話しかけてあげればいいのに」
「一度できてしまった心の壁を取っ払うのは容易なことじゃないのよ、ノー細胞生物」
 さあ悪口には悪口で言い返そうと思い立った時、ハルが重ねてこう言ってきた。
「高屋さんを包む腫物のイメージのせいで誰も彼女に触れられないのよ。特に前までは無遠慮に思いっきりその腫物を突(つつ)いて遊んでいた人ならなおさらね。このクラスの人達の価値観を変えるのは相当難しいと思うわ」
 腫物のイメージ。
 印象。
 面倒くさい生き物だ、人間とは。
 みなナマケモノの極致、ノー細胞生物になればいいのに。そうすればそんなもの気にせずに済む。一日に七回欠伸をして生きればいいのだ。簡単なことだ。この世に憂うことなど何も無いことがそれで分かる。
 
「あなたが来るなんて、聞いてないわ」
 憂うことが見つかってしまった。俺は会うなり姉に睨まれてしまったのだ。
 問題児の弟は常に姉という存在に警戒されているものだ。それは別に俺だけじゃないはず。特にここはデリケートな子供たちの集まる施設だ。管理する大人が神経質になるのは当たり前のことなのだ。事前通知していたら俺のような雑音など電話越しにシャットアウトされていたことだろう。だから俺は事前に来意を告げなかった。アポなしで突入した方が中に入れてくれる可能性が高いと思ったのだ。
「あれ? そうだっけ? でもまあ、俺はただの付き添いであって、その、何もしないで見守ってるだけだから……」
 と、アホ面をさらしてその場を逃げ切ろうとする俺を姉の冷たい視線はずっとロックオンし続けていた。しかしながらこの姉は、一体俺を何だと持ってやがるのか。
「お姉さま、本当にナツは何もしない、何もできないで突っ立ってるだけのデクノボーなので、どうにか立ち合いの許可を頂けないでしょうか」
 わざとらしく殊勝なふりをするハルが躍り出てきた。俺のためを思ってやっていることのはずなのに怒りが込み上げてくるのはどういうわけか。
 姉はため息を一つ吐き、瞑目、無言で俺たちを招き入れてくれた。これじゃ許可ではなく諦めではないか。
 姉が運営しているフリースクールは元学習塾の居抜き物件をそのまま利用しているだけの簡素な施設だった。二階建ての元マンションにびっしりと教室が入っているイメージだ。中には事務所や図書室としてリフォームされている部屋もあるのだが、大抵の部屋は学校と同じ造りの教室風になっており、職員による授業のようなものが中で行われている。生徒児童は年齢ごとに区分けされているようで、小さな子供だけの教室や俺と同じくらいの青少年だけの教室も中にはあった。
 年齢ごとの子供の数は均一ではなく、年齢が増えていくごとに少なくなっていることだけは確かなようだ。
「不登校になった子供達って、意外なほど大きな自責の念を抱えているのよ」
 思っていた以上に美人じゃないとハルに言わしめた俺の姉は、案内がてら内情を教えてくれた。
「自分だけが何もしていないという虚無感。同世代のみんなが強制されていることから自分だけ逃げてしまった罪悪感。当たり前にクリアされるべき活動から自分だけリタイアしてしまった焦燥感。すぐに何かしなきゃという強迫観念みたいなものが日々襲ってくるのよ。何もしていない自分がどうしようもなく恥ずかしくなるの」
 それを解消する選択肢の一つとしてフリースクールがあるという。
「私たちは何かしなきゃと思っている子供に課題を与えてあげるの。それが彼らにとっての最大の救済になるから」
 姉は普段から感情が薄かった。話をしている時もずっと無表情なのだ。事前にハルには気難しい人だと言ってあるので、実際にその気難しさに直面してもそれほど緊張することもなかったはずだ。だが弟の俺としてはせっかくの美人が台無しだと思っていた。お世辞でもなんでもなく、姉は顔、スタイル共にハルを超える逸材なのだ。格好もレディースパンツにニットというシンプルなものしか使っていないのにモデルみたいに見えてしまう。セミロング気味の髪のサラサラ感と化粧気のない肌のつやつや感はどこかで見たことがあるなと思っていたらそれは俺のすぐ隣にいる女からだった。シャープな目の形やツンと突き出た鼻の形は愚弟とは比べ物にならない一級品だった。だがやはり愛想の無さと表情の無さが大きな減点となっている。
 ゲスの野次馬を自称するハルにしてみれば、この雰囲気だけでも過去に何かあったのだろうかと勘繰りたくなってしまう人なのだろう。そもそも二十代そこそこでフリースクールなんてものを運営しようなどと考える人間なのだから過去に何かあって然るべきなのだ。
 ハルがこそっとそれを訊いてきたので、口元に人差し指を立てて「それはタブー」と告げてやった。女の過去に気安く立ち入ってはいけないということだ。
 姉に案内されたのは図書室だった。木田涼子はここで終日本を読んで過ごしているらしい。あれ、そんな真面目な子だったのかなと思いきや、どうやら話題になったドラマや映画の原作本を読み漁っているらしかった。しかもどれも恋愛ものなのだとか。一日中そんなのものばかり食していて吐き気を催さないのだろうか。好きな俳優が出てる作品ならオールOKなのだろうか。
「茜灯高校の生徒が話を聞きに来るということは伝えてある。断ってもいいと言ったんだけど、会ってみたいと本人が言うものだから」
 ここでまた俺が睨まれてしまった。許可は出すが、お前はその限りに在らずとその目は語っていた。
「木田さん、会うことを迷ってたんですか?」
 ハルが訊いた。姉はそのまま睨むような目をハルに向けた。
「状況を改善したいという意志はあるのよ。それでも怖がるのは、木田さん本人があなたたちにどう思われているかを気にしているから」
 いじめっ子という最悪なレッテル。それは誰だって絶対に嫌だろう。
「追い詰めるようなことは、くれぐれもしないように」
 姉は俺だけに向かって厳命してきた。俺はコクコクと頷きまくっていたが、人を追い詰めるのはいつもハルの方なのにとも思っていた。自分のとこの弟と他人様のお子さんを並べて、前者を卑下して後者をお引き立てするのは、姉にかかわらず日本人の習性のような気もするのだが。
「あなたたちの話に介入するつもりはないけど、一応立ち会わせてもらうわ。木田さんに対する言動が行き過ぎないように」
 姉は「あなたたち」とは言っているものの、どうしてか全て俺一人に向けて言っているように聞こえてしまうのだ。これに関しては姉を持つ世の弟が全員身に着けている習性なのかもしれない。
「それはもう、余計なことは一切……」
「お邪魔してもいいかしら」
 俺が姉に阿(おもね)ろうとした時にはすでにハルの手が図書室のドアをノックしていた。
 中から「ハイ」と声がしたので、「入ります」と言いながらハルが体を向こう側に入れ込んだ。俺と姉もその背中に続いた。
 ドアの向こうにはあまり整理されているとは言い難いぎゅうぎゅう詰めの本棚がいくつも並んであった。入口の真ん前に長テーブルと椅子が設置されてあり、その一席に木田さんは座っていて、そこで本を読んでいた。
 木田さんは女子の中ではかなりの大柄で、しかも色黒でもあったので非常に目立つタイプだった。ロングヘアの前髪はいつもヘアピンでその位置を操作されており、今日はそこから小さめの目と細めの眉が揃ってこちらを覗いていた。
 そこに敵意はなく、むしろ照れ笑いのようなものまで垣間見える程だった。木田さんは本を置いて体の向きをこちらに合わせた。
 俺たちはある程度の距離まで近づき、さっそく彼女に話しかけた。姉はドアの前で見守っていた。
「どうもどうも。うちの親族がこんなとこに木田さんを閉じ込めてしまって」
 姉と距離を置いてすぐに態度がデカくなる弟。
 すると木田さんは白い歯が見えるほどに笑みを浮かべ、それを隠すように口許に手をあてながら小声でこう言ってきた。
「いや、てか白石君のお姉ちゃん、めっちゃ美人だよね。ヤバいよね」
 入り口の方をチラチラ気にしながら、やや興奮気味にこういう話題を口にするあたりが普通の女子高生であることを再認識させられる。本日木田さんは制服などもちろん着ておらず、ジーパンにセーターという普段着丸出しの格好だった。背の高い彼女は制服を着ているよりも普段着の方が大人びて見える。
「お姉ちゃんって今いくつ?」
 まだまだ小声で興奮する木田嬢。
「たしか二十四」
「若っ。じゃ絶対モテるよね」
「無愛想が祟って万年男日照り」
 えー、うそー、もったいねー、などときゃっきゃする様子に、女子高生の生態として何の問題も無いように思える。
 姉の視線が怖いので、そろそろ俺の方からも声をかけてみた。
「木田さん、うーんと、俺たちのことって知ってる?」
 自分を指差しながら俺は訊いてみた。
「普通に知ってるよ。新聞部でしょ。有名だもん」
 あっさりとそう言われると納得したくなくなってくる。いつの間にこんなに知れ渡ってしまったのか。
「どんな風に有名なの?」
「桜井さんが美人で天才的で変人なのと、記事がものすごくふざけているのと、常に色々嗅ぎまわっていること」
 指折り数える木田さんのその一つめがハルの諸々とは。良くも悪くも注目を集める女だ。
「ねえ、学校どうなってる?」
 不意に同じような口調で「学校」について言及してきた木田さん。テーブルに肘を突きとてもリラックスした状態で。
「山尾先生が謹慎になった」
「えーっ! 何それ、どういうこと?」
 オーバーなほどうるさくリアクションしてきた木田さんだったが、これもまた喫茶店や電車内で騒いでいる女子高生のよくある生態の一つである。
 俺は一連の騒動を事情を知らない不登校児に教えてあげた。
「そんなの沖田のせいじゃん。バカじゃないの」
 不登校児はバッサリと切り捨てた。
「私、一年の時沖田と同じクラス。あいつホントうざかった。誰かにちょっかいかけるとしつこいのよ。もうずっとそれやってんの」
 分かりやすく怒ったような顔をする木田さん。どうやら沖田のことをあまり好いていないようだった。
「そんなのさあ、ぜったい山尾先生の方が被害者じゃん」
 ものすごく不満そうな顔で彼女はそれを吐き捨てた。
 これは本音なのだろう。ただの女子高生ノリではなく、彼女の感情が吐き出させた言葉。
 山尾先生は加害者ではなく被害者――。
 自分に重ねたのだろうか。山尾先生を。
「高木さん、実は高屋さんが……」
 ハルが言いかけて、すぐに木田さんの声に遮られた。
「美樹? 美樹はどうしてるの?」
高木さんは肘を突くのをやめて身を乗り出してきた。そしてこの申し訳なさそうな顔。どうやら高屋さんのことを本気で案じているようだった。
「ちゃんと学校に通ってます。でも前まで仲良くしてた人達とは少し疎遠になっているようです。萩原さんがその分をケアしているようですね」
「そう……」
 木田さんは見るからに気落ちしてしまった。自分が感じている責任分、気落ちしてしまったのだ。
「で、高屋さんが木田さんに早く学校来いって、伝えてくれってさ」
 俺がこれを言っても気落ちから回復はしなかった。
「今更もう無理だよ。私、最低なことしたって思われてるし。居場所無いよ」
 頭を抱えるみたいに体を伏せながらそんな弱音を吐いてきたのだ。
「でも、当事者の高屋さんが学校に来てほしいって言ってるんだから、それでいいじゃん」
 俺はこれを強めに言った。
「それに、木田さんだって後悔してるし反省もしてるんでしょ? 十分じゃん」
すると木田さんがボソッと何か言った。
「反省とかじゃないんだよね」
 どこか鬼気迫る一言だった。
「何ていうのかなあ、そういうのじゃもう許されないのよ。こういう立場になって私、初めてそんなことを知ったのよ」
 苦笑しながら彼女は自分の見つけ出した真実を語った。
「でも、高屋さんは許してるって。それじゃ駄目なんだ?」
「美樹だけよ」
 虚ろな目でそう言ってきた。何かを悟って、諦めている目。
 よく分かっているのだ。当事者同士の問題ではないことを。昼休みにハルの言っていた環境とやらがどうしようもないくらいに行く手を阻んでいることを。
「木田さんは実際に高屋さんをいじめていたのですか?」
 ここでハルがいきなり大胆な質問をした。さすがというか、お前黙れというか。俺は姉の視線を気にしたが、まだ止める気はないようだ。腕を組んでじいっとこちらを注視している。プロの格闘家の気配すら感じる。
 木田さんは少し考えてから曖昧に首を振った。
「私としては、全然いじめだと思ってない。思ってないから、今のこの状況がすごく悔しいの。なんで私いじめてないのにいじめっ子扱いされて、こんなとこに閉じ込められているんだろうって。なんかもう」
 現実が嫌になってくる――。
 木田さんは何かに憤りを表しながら顔を歪めてその憤懣を吐き出した。
 聞く人が聞いたらただの無責任発言だ。いじめをやったくせにまだこんなことを言ってるなんて。反省の色無し。死刑相当。
 部外者なら少なからず誰だってそう思うのだろう。あんたが悪いに決まってるでしょと。
 そう、当事者ではなく部外者なら。
「外から見たら木田さんたちのやってることは、やっぱりいじめに見えるとは思わなかったのですか?」
 ハルがこれまたズバッと訊いた。
「今は、思ってる……」
 憤懣の顔のまま彼女は言った。
「結構ないじり方してたってわけね」
 ハルが追及した。姉にさっき追い込むなと言われたはずなのに。
「だって、美樹のそういうところが面白かったから。その、こっちが美樹になんかするたびに美樹が笑える態度を取ってくるところ」
 萩原さんにしてみれば、それこそが高屋さんの厚意に甘えてその負担をかえりみずに、自分たちだけがただ楽しくしてもらっていたという、いじる側の身勝手さとなるのだろう。
「で、どんどんそのいじりがエスカレートしていったと」
 落胆と反省の中間くらいに木田さんは首を落とした。
「うん、そう。美樹の教科書に勝手に悪戯書きしたり。動画で見た簡単なプロレス技かけてみたり」
 たしかに見る人によってはいじめととられるような内容だ。ただ、ハルからもっとひどいことをされている俺には分かる。これをいじめと捉えるかどうかは結局のところ当事者間の問題であり、外っ面の情報だけを知った部外者がいじめと断ずることはできないのだ。
 きっとここが重要なのだろう。事件を結論付けるのは常に部外者一人一人の感想に過ぎないということ。そして部外者というのは表層だけの情報を頼りにした印象批評しかできないという罠があるということ。たとえそれが常識外れな考え方であっても当事者間では納得し合っていることなどきっとたくさんあるはずなのだ。それらはだが部外者には永久に理解してもらえないものの方が多い。結果、付け焼き刃の知識しかない部外者共に印象批評で断罪されてしまう。当事者間でしか理解できないことなどこの世に溢れ返るほど在るというのに。
 俺とハルの悪ノリがまさにそれなのだ。
 俺はハルの性格を良く知っている。ハルも俺の性格を良く知っている。もしハルが俺ではなく、もっと無抵抗な大人しい女子に俺と同じ扱いを続け、その女子が本気でそれを嫌がっているのなら、それはハッキリといじめになるのだ。だが俺は冗談の範囲で済ませることができるし、むしろハルくらいのいじり方をしてこないと全然面白くないし笑えるレベルの冗談にすらならない。俺はそういうやつだ。そして重要なのは、ハルがそのことを良く知っているということ。その冗談に付き合ってくれているということを俺も良く知っているということ。相互に理解があるということ。
 当事者間にこの暗黙の了解がある限り、そして当の俺がいじめられていると思ってもいないし不快でも全然ない限り、その様子を見ているだけの周りの人間がいくらアレはいじめだと糾弾したところでそれは真実にはならないのだ。
 大事なのは高屋さんの気持ち。そしてこの二人の間には友情という暗黙の了解があったのかどうか。それだけの問題。
「木田さんは、いじめていると思ってなかった。これは確かなんですね」
 ハルが大事な確認のように訊いた。
「いじめてない。だって美樹も楽しんでた。私はよく知ってるもん」
 すがるように彼女は言った。
 そんな彼女にハルはまた優しげに微笑んだ。
「高屋さんもいじめられてるなんて思っていないようですよ」
 ハルのこの一言で、木田さんを覆っていた黒い雲は一気に晴れたようだった。
 更にハルは元気づけるように言った。
「高屋さんと木田さんの間にそういう了解がある限り、いくら周りがいじめに見えると言ってもそんなことは全然ない。本当のところは当事者だけが良く知っている。本当はただ戯れてただけの話。そうでしょ?」
 木田さんはまたしてもすがるような目で頷いた。
 過剰にいじめをかばうような風潮は、一方で友情という視点を排除してしまうのだろう。
「ねえ、木田さん。木田さんがここに来るまで、具体的に何があったのか、話せる? 一番最初から全部」
 俺はいじめ事件の細かい顛末を彼女の口から行きたいと思った。他の誰でもない当事者の視点から。
 木田さんは一度目を伏せ、それでも口だけは動かし語ってくれた。
「私たち、放課後の教室でふざけてたの。その時は私と美樹の二人だけだった。いつもはもっと友達いるんだけどね。みんな用事あるとかで帰っちゃったの。で、私が適当な椅子に座って、美樹がその近くの机に腰かけて二人で話してたの。その時私、退屈まぎれに悪ノリしちゃって、足ブラブラさせてる美樹の上履き、両方とも取ってポーンって投げたの。美樹もその時は笑いながらこらーとか、おりれなーいとか言ってきて。私、もっと盛り上げようと思って、美樹の座ってる机揺らしたの。それで下りちゃだめ、立って立って、って囃し立てて」
 その時のことを思い出して後悔するように木田さんは目を瞑って一瞬だけ口を閉じた。
「……そしたら美樹、本当に立って、ポーズきめようとしてさ。落っこちちゃったの。私、心臓止まるかと思った。その時、物凄い形相で萩原さんが入ってきて。あの人、全部見てたみたいで、滅茶苦茶怒ってた。その時のことだけじゃなく、あなたたちはいつも美樹にひどいことしてたって怒鳴られた。今回だけじゃないって。それで私すっかり動転しちゃって。そうこうしているうちに萩原さんは美樹を起こして、上履きも拾って、美樹を保健室に連れて行ってあげたみたい。美樹、手から血出てた」
 言いたくないことはわかりやすく声のトーンが下がっていた。
「その後、たぶん美樹の怪我のことを美樹のお母さんが知って、それですごく怒っちゃって。私の家と、学校と、教育委員会に抗議の電話して。それで……」
 こうして今に至るということだろう。
「今の話を聞いて少々疑問なのは、高屋さんのお母さまは娘が怪我をさせられたことに対し怒ったはずなのに、最終的に問題になってるのが怪我をさせられたかどうかではなく、いじめられていたかどうかになっている点。直通で怪我イコールいじめとは普通ならない。怪我といっても継続的なものでは全然なく、その時の一回きりのもののはず。何故それをいじめと見做(みな)したのか。ここに明らかな飛躍があります」
 ハルが一人冷静に分析する。
「それはきっと……」
 クラスのみんなから聞き取りをしてそういうことになったのだと木田さんは言う。
「なるほどね。学校側としては生徒間のそういう事件は真っ先にいじめと結び付けて考えなければならない。というか、一応はそういう姿勢を見せなければならない。これが世間様に対する態度として非常に重要だから」
 このハルの見解に木田さんも納得しているようだった。
「それで一応確認してみたら、実際に普段からいじめに見える振舞いがあったという事実が出てきてしまったと。訳知り顔の部外者共のイメージ先行の意見によって」
 感情的であっても無表情なハルとは対象に、木田さんは何か言いたげな表情のまま無感情に頷いた。
「そういうこと。クラスのみんなには、私たちの戯れがいじめに見えてたってこと。たぶん、普通に見たらそうなのよきっと。そんなことにも気付かないでバカ騒ぎしてたなんて、ホント、バカみたい、私」
 思い出せば思い出すほど気落ちしていく木田さん。
 高屋さんの話だと、学校側は木田さんのお母さんと取り引きしたらしい。はっきりといじめ問題としてこの件を扱い処理する代わりに、外にはこのことを漏らさない。そういう約束を交わしたのだ。
 そうして処理された女子生徒がここに。
「自分達以外の誰かさんの勝手な印象でいじめだと思われる。いじめたとされる側もいじめられたとされる側も、どちらもいじめだと思ってないのにね」
 ハルがうんざりした顔で独自の感想を述べる。
「実体の無い真実に当事者たちが振り回されている。その真実を振り回しているのはそれとは関係の無い人たちだというのに」
 実体の無い真実。
 それはいわば真実と思われているもの。でも真実ではないもの。
 新聞部が報道機関として打ち負かすべき敵があるとしたら、もしかしたらそれなのかもしれない。
「私が悪いって、思えばいいのかな……」
 独り言のように力なく木田さんはそれを言った。その言い方と表情が、諦めよりも洗脳に近い感じがした。
 姉の動向を注視していた俺は、腕組みを解いた姉がこちらに歩み寄ろうとしている気配を察した。取材はここまでか。そう思った。その時。
「木田さん!」
 俺がよそ見をしている間に、ハルは落ち込んでいる木田さんを揺り起こすように強く両腕を掴んでいた。
「一つ訊かせてください!」
 ハルの剣幕に目を点にしながらも、木田さんはコクと頷いた。
「高屋さんとは仲が良いのね!? 仲良しなのね!?」
 ハルは勢い込んでこれを訊き出しにかかった。
 ハルの質問の意味を飲み込んでから、木田さんは何度も頷いてくれた。
「私はそう思ってる。私は今でも……」
 ――友達。
 いじめっ子の両目から交互に涙がこぼれた。
「それを聞きたかったの――」
 ハルの目が輝き出した。
 姉の動きも止まっていた。同時に、不思議なものでも見るような目をハルに向けていた。
「ハルから悪巧みの気配がするね」
 俺は燃えているハルを冷静にそう分析した。
「で、一体何する気だ?」
 その悪巧みを楽しみにしているような笑顔の男に、ハルはこう言ってきた。
「とりあえず先生方に死ぬ程説教される覚悟だけしておいてくれればそれでいいから」
 ハルがあっさり言い放ち、俺はあっさりOKと言った。
「まあ、それっていつものことだよね」
 なるほど、悪名高いわけだ。
「あのハルという子は……」
 フリースクールを出る時、姉は俺に何かを言いかけてやめた。
 あのハルという子は……アンポンタンなのかしら、とかだったら俺は真面目な弟になってやろうと思う。

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