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双極性障害のこと 【とめて欲しかった】

物騒なことを書きます。

「希死念慮」という言葉があります。
「きしねんりょ」と読みます。
意味はご推察いただけることと思います。
私はこの思いが強くなり、実行しかけたことが、過去に2回あります。
1度は10年ほど前、そしてもう1度はつい最近です。

辛い日々を送っていたさなかに、この病気が生涯治らないということを知ったとき。
「こんな思いを一生続けるのか」と思って絶望したとき。

人間関係がうまくゆかず、それがこの障害のせいなのかは分かりませんが、自分に対する嫌悪感が強くなったとき。

駅のホームの淵に立ったものの、その駅は日本一乗降客が多く、すべての電車が停車することに気づき、やめたのでした。
間抜けですよね。(笑
笑いごとじゃありませんが、それほど正常な精神状態ではなかったということでしょう。

いずれの場合も、決行する前に、そのときに最も信頼し、親しくしていた一人の友人にお別れのメールを送りました。
(別の人です)

本気でする気なら、そんなことせずに、誰にも何も言わずにやればいいのに、そういうことをしたのは何故か。
それまで励まし続けてきてくれてきたその人たちに黙って消えるのは申し訳ない、という気持ちもありました。
しかし、それ以上にあったのは「とめて欲しい」という気持ちではないかと思うのです。

そして、その「期待」通り、すぐに返信や電話をくれました。

それで気持ちが落ち着き、それ以上のことをするのは思いとどまりました。

何故、それで気持ちが落ち着いたのでしょう。

人にはいくつかの欲求がありますが、そのうちの一つは「帰属欲求」だと聞いたことがあります。
自分が帰ることができる、あるいは、自分が所属している「社会」が欲しいという欲求だそうです。

これがないと不安になったり孤独感を持ったりする。
そして、その「社会」は集団であることもあれば、相手と自分という二人だけの「集団」であることもある。

あのときの私は、その人と私という「社会」を感じたから落ち着くことができたのではないか、と思うのです。
その人たちとは個別に親しくしていましたので、仲間意識はあったはずですが、何もないときにはそれを意識することもなかったのでしょう。
しかし、自分が危機に瀕したとき、それを実感することができた。

「自分が帰れる場所があるのだ」と。

それで気持ちが落ち着いたのだと思います。
そして、その「社会」を感じていることが、今も落ち着いた気持ちでいられる理由の一つだと思います。

私たちは他人と関わらずに生きてゆくことはできません。
どんな人も必ず何らかの、複数の「社会」「集団」に所属しているはずです。
家族であったり、職場であったり、趣味の仲間であったり。
SNSでのつながりもその一つと言えるのでしょう。

そして、さらに、あのときの私の場合、その「社会」は常に私を受け止めてくれる、受け入れてくれる、そういう「社会」だから、そして、それを感じることができたから、極限まで昂った気持ちを一瞬にして鎮めてくれたのだとも思います。
これは「帰属」の次の欲求段階である「承認」なのかもしれません。

また、これまでに受けたカウンセリングや心理療法でおこなったことの一つも、広い意味でこの「帰属」意識を持つことなのではないか、と思っています。
それは、例えば、身の回りにある「赤いもの」を探す、あるいは、じっと耳を澄まして何が聞こえるかを意識する、といったことです。
とかく、気持ちを落ち着かせるというと、目を閉じがちですが、この場合はそれとは異なります。
目をしっかり開けたり、耳を澄ましたりして、周囲に注意を向けるのです。
人とのつながりではありませんが、外とのつながりを感じることで気持ちを落ち着かせるということなのではないか、と思います。

自分を安定に導いてくれる「つながり」。
大切にします。