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私の「金閣寺」(1)

特別に読書が好きなわけではない、中でも「文芸作品」と呼ばれるものは読んだことがなかった私がこんな題名で文章を書くのはとてもおこがましいことです。

しかし、今、書かずにいられない気持ちなのです。

2年ほど前に三島由紀夫という人物に関心を持ち、その作品を読み始めるにつけ、三島由紀夫に関連した過去の多くの出来事が思い出され、それらについて初めて知ることも多く、そして、何よりも、三島文学の美しさに惹かれ始めているからです。

三島由紀夫が壮絶な最期を遂げたのが今から52年前の1970年11月25日であることは私が書くまでもないことでしょう。
読書にも政治にも関心がなかった中学3年生の私には「今どき切腹なんてする人がいるんだ」という程度の出来事でしかありませんでした。
また、その「人」についても「有名な人らしい」ということ以上の気持ちを持つこともありませんでした。

それから50年が経った2年前。
記録モノが好きであることもあり、ケーブルテレビの番組表で偶然見つけた「三島由紀夫 vs 東大全共闘」という映画を見て、衝撃を受けたのでした。

思想が真っ向から対立する三島由紀夫と学生たち。

その1,000人の学生たちの前に単身乗り込んで行った三島由紀夫。
それがいかに大変なことだったかを知るには、その当時の社会背景を知っておいたほうが良いでしょう。

学生運動、新宿騒乱、全学連、全共闘、東大安田講堂、日本赤軍、あさま山荘、などなど。

こういった言葉に馴染みのない方は、以下の動画をご覧になってから、この文章を読み進めていただけたらありがたいです。

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030082_00000

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030036_00000

これが50年、60年前の日本の姿なのです。
日本でこういうことが起こっていたのです。
これらの運動、「武力闘争」と称していましたが、の中心となっていたのが大学生でした。
このような過激な学生たちの前に、護衛もつけずに一人で乗り込むというのは相当な覚悟が必要だったでしょう。
この映画を観て、一気に三島由紀夫という人、作家に関心を持つようになったのです。

なお、本題から外れますが、この映画を観て、感じたことの一つ。
それは、思想が対立する両者とはいえ、相手の話を最後まで聴くという姿勢です。
どんなに自身の考えに反していても、それを遮ることなく、最後まで聴いた上で、自分の意見を述べています。
論客と呼ばれる人は自己の主張を述べるだけでなく、相手の話も聴くから、論点がずれない議論ができるのでしょう。
最近の政治討論などでは、相手の話が終わっていないのに、それを遮って自分の意見を言い始めて、怒鳴り合いになり、果ては論点が分からなくなる場面がよくありますが、こういう点は当時の学生を見習って欲しいものです。

閑話休題。
そんなことから、三島作品を読んでみようという気持ちになり、最初に読んだのが「潮騒」でした。
これは「初心者」にはちょうど良かったかもしれません。
あまり苦労することなく、読み終えることができました。
ただ、サーっと読んでしまったので、使われている言葉やその表現の美しさを味わいながらもう一度読みたいと思っています。

そして、「金閣寺」。
難解です。
この1年ほどでも何回挫折したことか。
今、何度目かの挑戦です。

「今度こそ最後まで読もう」との思いから、この投稿を書くことにしました。
美しいと思った文章や理解しにくい文章をここに書き留めながら、ときには、それらに対する自分の思いを加えて、メモをしながら読み進めてゆけば、最後まで辿り着くのではないかという気持ちでいます。

と、前置きが長くなってしまいました。
では、今日読んだ部分について。

『学校を怠けている時間の、下ろしたてのシャツのような肌ざわりが、周囲の日ざしや微かな風のそよぎから感じられた。』

主人公の溝口が、最近親しくなった柏木に誘われて初めて大学の講義を怠けたときのこと。
何度も行ったり来たり読み返しながら、この文章の表現するところを考えました。
「下ろしたてのシャツのような肌ざわり」とはどんな感触だろうか。
初めて授業を怠けたことに対して、罪悪感や後ろめたさではなく、むしろその「初体験」の新鮮で爽やかな気持ちを表しているのではないかと思いました。
これまで読んできた中にも、醜悪なもの、嫌なもの、否定的なものを「美」と表現しているような文章がありました。
この文章もそういうことなのではないかと感じています。

さらに思考を巡らせると、何故「シャツ」なのか。
汚れのない真っ白なシャツが初めて人肌に触れる。
そこに処女性の喪失という「美」を表現しているのではないか、とも思うのです。
講義を怠けるという「初体験」をそこにまで結びつけるのは飛躍しすぎかもしれません。
ただ、この少し前の部分に、柏木が童貞を破ったときのことを回想する場面があるので、こんなふうにも考えました。
この柏木の童貞喪失の場面は何度読んでもいまだに理解できていません。

『そして見る俺は、仮象の中へ無限に顚落しながら、見られる実相にむかって射精するのだ。』

単に女性と交わったのではなく、相手は老婆なのです。
ですので、「相手」と書いて良いのかどうか、分かりません。

この部分も含めて、私は三島由紀夫の文章の随所に「性的な耽美」を感じます。

例えば、太陽が雲にかげっている様子をこんなふうに表現しています。

『雲の一部分が、多くの重ね着の襟元にほの見える白い胸のように白光を放ち』

「襟元にほの見える白い胸」だけではなく、そこに「多くの重ね着の」が加わっていることで、より一層、艶(つや)やかさを感じるのです。

こうして一文一文についての思いを書いていたら、読み終えるのはいつのことやら。

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。