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風の舞(短編小説)

女は、わたしも踊りたいと言った。隣に立つわたしと同じぐらいの歳の女はそう呟いたように聞こえた。9月、富山で行われている、おわら風の盆の夜は静かな熱気にあふれていた。
息の長い唄に合わせて、顔を隠すように深くかぶられた編み笠の女たちが、たおやかに腕を振る。灯りは灯篭のみである。ずっと来たいと思っていた風の盆を目の前にして、わたしも少なからず隣の女と同じ思いでいるのだった。
来るなら一人で来たいと思っていたけれど、本当に一人になるとは思わなかった。去年離婚してから、ふいに風の盆を思い出した。
額から汗が流れる汗を拭うのも惜しいくらいに、わたしは食い入るように踊りを見つめた。見る人、踊る人、楽器を奏でる人の数は多いのにも関わらず静かである。胡弓の音が三味線と重なってどこまでも伸びていく。
――見たさ 逢いたさ 思いが募る
もっと早くどうして来なかったのだろうと考え、夫はわたしが一人で旅行するのを許すような人ではなかったのだったと、思い出した。十年以上、一緒に暮らしていたのに、この一年、思い出すことはほとんどなかった。生活に精一杯だったせいもあるだろうけれど、過ごした日々の意味を考え、虚ろな気持ちになった。
踊りはゆっくりと通り過ぎていく。ときおり、風が頬を撫で、ふっと音が遠のく瞬間、自分の一部が一緒に溶けてゆくような感覚になった。あの編み笠の内側に入り込み、また抜けて浴衣の袖に払われ、薄暗い闇に落ちていく。胡弓の音が高まり、喉元まで何かがこみ上げてきそうになるのを必死でこらえた。おわら風の盆は「聞く踊り」なのだと誰かが言っていた。わたしは目を閉じてみる。女の唄声、三味線、じっとりとした土の匂い。
隣の女が大きく息をつき、また息を吸い込んだのがわかった。泣いているのかもしれないと思った。
さっき踊りたいと思ったけれど、やっぱり違うと、わたしは目を開けた。舞う指先を目で追いかけながら、なぜこの踊りが風の盆と呼ばれるのか、わかったような気がした。
台風を治める願いがかけられているらしいけれど、そればかりではないのだろうと思えた。通り過ぎていく踊りと胡弓の音を聞きながら、何気なく隣を見た。女はもういなかった。
はたと音が止み、動きが止まる。わたしは何かを振り切るように空を仰いだ。

(900字程度 課題 女はわたしも踊りたいといった、で始める)

#小説 #短編小説 #風の盆 #踊り #ショート

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