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シモの言葉を上品に言い表してみた先に

ポケ森を始めたことを前に書いた(ポケ森の風景を480字で伝えたつもりになっていた)。つい長居してしまうので、最近は森の中で英語を使うようにしている。

おねだりした魚や果物をもらえたときや、びっくりしたとき、動物たちが口にする感嘆語が気になった。

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"Omigosh“

オミゴシュってなんだ?

あ、O(オー)mi(マイ)goshか。

留学時代、ホームステイ先のひとりっ子、当時8歳だったAlIisonが"Oh my God"と言うたび、神様って気安く口にしちゃダメ、"Oh my gosh"か"Oh my goodness" と言いなさいと英語教師だったホストファーザーにたしなめられていた。"Oh my gosh"が縮まってomigosh。そういや"OMG" もあるけど、これだと"Oh my God"の略にもなってしまう。

ポケ森の動物にはそれぞれ口癖があり、"My goodness"を好んで使う動物もいる。

語尾に「フル」をつけると明るくなる

口にしにくい言葉と言えば。

広告代理店時代、メディア局に菅原さんというぶっ飛んで面白いおじさまがいた。還暦を祝うパーティー(何かにつけパーティーをするのが好きな会社で、ええ歳になった人の誕生会も年中開かれていた)もイケイケで、祝辞が「菅原さんがいかにおかしな人か大喜利」大会になっていた。強烈に覚えているのが、

《放送禁止語に「フル」をつけると口に出して言える》ことを菅原さんが発明した。

というものだった。英語の接尾辞、カラフルやビューティフルやワンダフルのフル(ful)。それを語尾につけると隠語がひなたの言葉になるという。

「ライト足りてない」と誰かが言うと頭頂部が反射板になっている鉄板三人組が進み出てウケを取るという外資系代理店らしからぬオヤジノリで笑いの地熱が温まっていたところにシモネタフルが連呼され、爆笑に沸く会場から「お腹よじれる!」「やめて!」と歓喜の悲鳴が上がった。

(ちなみに菅原さんは読売テレビのプロデューサー時代にレジェンド演出家の鶴橋康夫さんとドラマを作られていた。わたしが学生の頃から愛読していた「月刊公募ガイド」の鶴橋さんの連載に菅原さんの名前を見つけて、びっくり。「菅原さんが出てます!」と興奮を伝えたら、鶴橋さんが会社に訪ねて来たときに紹介された。「あの原稿って下書きしてないですよね? 勢いで書いている感じがします」と言うと、「わかる?」と笑ってもらえた。「脚本に興味あるなら書けばいいのに」と言われ、「脚本ってテレビ局の人間じゃなくても書けるのか」と知り、のちのコンクール応募とデビューにつながった)

口にするのをはばかられる言葉が、ちょっと言い回しを変えるとチャーミングに化ける。「うんち」が「うんちフル」になると、ひらひらした可愛さをまとえる。フリルみたいな語感のせいもある。意味的には「うんちいっぱい」になってしまうけど、ワンダフルのような賛美ニュアンスも加わる。

コピーライターだったわたしは、コトバンク(コピーの種を貯金しておきなさいと教わった)に「語尾のフル」をしまった。

娘がオムツをしていた頃、うんちを「うんチョス」と呼んでいた(そのうち「チョス」になった)。あれもフルと同じ効果があった。

と下書きしているところに、ひとつ前のnote(「みんなと違う」はヘタクソじゃない)を読んだ友人から「ヘタクソ」について指摘があった。

可愛らしいアイドルさんや、美人なタレントさんが「ヘタクソ」などと普通にブログに書いているのを見るにつけ、「下手糞?」「糞?」とガックリします。

たしかに漢字にすると「下手糞」ってインパクトがある。すっかり流通して無意識に使ってしまっているけれど、憧れの人に「糞」と口にして欲しくない気持ちはわかる。その友人は続けた。

自分が子供の頃「へたっぴ」と言っていましたが、方言なのかな?「へたっぴ」の方が発音が可愛らしく感じます。

大阪では「下手っぴ」はあまり聞かなかったけど、こっちのほうが断然可愛い。ぱぴぷぺぽがつくとポップになる。そんな映画がありまして、ハ行にちっちゃい◯をつけたパコダテ語(函館は函°館に。北海道は北°海道に)が流行る『パコダテ人』(前田哲監督)。わたしの映画脚本デビュー作。

子どもの言い換えに学ぶ

大阪のおばちゃんみたいに「あんた前にこんなことあったやん?」と頼んでないのに過去投稿を引っ張り出してくるfacebookが、少し前、これを出してきた。

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「うんちを上品に言い換えると何?」

何気ないおしゃべりの中で大した返事を期待せず投げかけた問いの答えが、

大腸からの便り

略して大便。座布団一枚。

大便は口にしにくいけど、便秘なら言える。これもぱぴぷぺぽ効果か。

大腸からの便り、定期便で届いていますか。

そう言えば、娘が生まれて初めてのお通じ(これも上品な言い方)があったとき、助産師さんに言われた。

「おめでとうございます。入口と出口がつながってますね」

なるほど、口に入ったものがつっかえることなく体を通り抜けた証なのか、だから「お通じ」なのかと合点した。あれは大腸からの最初の便りだったわけだ。まめに便りを寄越されて困ることもあったが、便りが途絶えると、それはそれで困る。ただごとでない激しい夜泣きに、ただことでない病気ではと青ざめて夜中にタクシーで救急外来に駆け込んだら、溜め込んだ便りがどっと届いて一件落着したこともあった。

子どもの言い換えは面白い。幼児期はとくに面白い。大人よりうんと少ない語彙で言い表そうとすると、思いがけず秀逸な喩えが生まれる。娘の言葉では、ハイヒールを「ぼうのついたくつ」と呼んだのが、とくに気に入っている。骨董屋さんを「むかしやさん」と呼んだのも好きで、映画『嘘八百』の小説版で使わせてもらった。

こちらの本。評価がやたら低いけど、その倍ぐらいは面白いと書いた本人が言ってます。

子どもの言い換えで、もうひとつ、すごく気に入っているものがある。高校時代の同級生のMちゃんと当時中学生だった娘ちゃんのエピソード。同級生(いくつになっても)女子会で集まったときに披露してくれた。

「娘と二人で歩いとったとき、ラブホテルの前を通りかかって、うわ、気まずってなってんけど、何するところか知ってる?って明るく聞いてみてん。そしたらな」

「そしたら?」

大人女子一同が前のめりになったところで、Mちゃんが続けた。

「男の人と女の人が うすごろも着て 確かめ合うところ」

一同、しばしその調べを味わったのちに復唱。何これええやんロマンチックやんとテーブルが恍惚に包まれた。「ラブホテル」のカタカナ5文字にこんな文学のかほりのする説明を当ててくるとは、天才ちゃうか。娘ちゃん絶対国語の成績ええやろ。うん、本は読んでる。わかるわぁ。

音読みがなく訓読みで紡がれている佇まいが良い。古式ゆかしく御簾が似合いそう。「うすごろも」(漢字で「薄衣」と書くと天ぷらっぽいのでひらがなが好み)も「確かめ合う」も奥ゆかしくて品がある。お互いを慈しんで、少しずつ先へ進む繊細さが感じられる。裸で激しく抱き合っているよりもドキドキする。

尊い。尊いってこういうときに使うべきでは。

中学生の言葉にハッとさせられ、性の営みの崇高さを教えられた。欲望にまかせる荒々しい性描写に興奮して情緒が置いてけぼりになっている人たちに届けたいほど素敵だ。保健体育の教科書に太字で載せたい。

最高齢助産師のあっけらかん表現の根っこにあるもの

一気に年齢を飛ばして、去年、日本最高齢95歳の現役助産師が引退された。坂本フジヱさん。93歳のときに出版された一代記『産婆(さんばば)フジヤン』の聞き手をわたしが務めている。「毎日朝ドラを見るのが楽しみな先生を朝ドラのヒロインにしたい!」という編集者の松本貴子さんの願いから生まれた本。こちらはレビューも高評価(当社比)。

和歌山県田辺市にある診療所に通い、聞き書きをまとめた。何事にも大らかなフジヤンは、性についてもあっけらかんと語った。「セックスは究極の男女共同参画」なんてすごいセリフをさらりと言う。大正13年生まれの92歳(取材当時)助産師が口にする「セックス」は、サバサバしたフジヤンの気質のように、余計な湿り気も粘り気もない、明るくひらけた響きがした。

中高生向けの思春期教育について語ったくだりにフジヤン節が冴えている。

ばあちゃん助産師(せんせい)が「セックス」いう言葉を口にしたら、生徒さんらは最初は「えっ」とびっくりした顔をするけど、何度も言うてたら、ごはんみたいに自然なもんなんかなという感覚になってくる。食べることも本能、セックスも本能。性を見つめることは、生を見つめることなんです。
「セックスがなかったら、あんたら誰一人生まれてへんし、人類はとっくに滅びてる。汚いもん、いかがわしいもんやないんやで」
大人が真面目に、逃げずに、ちゃんと性と向き合う姿を示す。これがほんまの思春期教育とちゃうやろか。

「性は生、生きること」と言うフジヤン。性を大事にすることは、相手を尊ぶこと。命を重んじること。性に敬意を持っているかどうかで、性にまつわる表現は下品にも上品にもなる。「シモ」だと思っている時点で、言葉を取り繕っても品良くはならないのだろう。子どもの喩えに清々しさを感じたのは、「汚いもの、いかがわしいものをきれいに言ってやろう」という下心が透けて見えないせいかもしれない。

大事なのは敬意があるかどうか。つまり、下に見ていないかどうか。

これ、シモネタだけじゃなくて、タブーとされている物言いや議論全般に当てはまるのでは。批判と誹謗中傷が入り混じり揚げ足取り合戦になりがちなタイムラインを眺めて、そう思う。

緊急事態宣言が出される前、映画館で最後に観たドキュメンタリー映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』の言葉と言葉の殴り合いが思い返される。三島を潰してやろうと息巻く全共闘1000人が待つ敵陣に単身で乗り込み、野次や挑発をしなやかにかわして終始礼儀正しく真摯に向き合い、「諸君の熱情は信じる」と語りかけ続けた三島由紀夫にうたれた。三島の弁だったか、ナレーションだったか、「熱と敬意と言葉」が必要なんだというメッセージが強烈に残った。

熱と敬意と言葉。

感染リスクが高まる中、この作品はつかまえておかねばと客席を埋めたマスク姿の観客の静かな興奮が場内を満たしていた。もう一度観たいし、未見の人にはぜひ観て欲しい。そして語りたい。熱と敬意を持って。

と、サムネイルに表示された映画タイトルが『三島由紀vs東大全共闘 50年目の真実』になっていることに気づく。

三島由紀夫と三島由紀。一字あるなしで大違い。

やっぱり語尾大事‼︎



目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。