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シナトレ1「採点競技にぶっつけ本番⁉︎」

47回やる予定だった「シナトレ」とは

シナリオ・トレーニング、人呼んで「シナトレ」。

と言ってもわたしが勝手に呼んでいるだけで、わたしの2004年9月6日(月)の日記「シナトレ1  採点競技にぶっつけ本番?」に登場している。

今月3日発売の「月刊シナリオ」10月号で「シナリオライターになりたい人のためのコンテンツを用意する」と宣言したので、急遽1回目を書いている。前々からやろうやろうと思っていたのだけど、自分を追い込まないとなかなかやらない。(中略)シナリオライターになるためのトレーニング、略してシナトレ。シナリオにちなんで、めざせ連載47回!?

「シナリオにちなんで、めざせ連載47回⁉︎」とわかりにくいダジャレ(シナ=47)で宣言しているが、飽きっぽいわたしらしく、47回のはるか手前で立ち消えになった。

人知れず埋もれたままになっている「シナトレ」。20年近く経って、発酵したり、熟成したり、はたまた化石になったりしているかもしれないが、コンクールでチャンスをつかみたい人には、今でも参考になったり刺激になったりするのではなかろうか。

というわけで、掘り起こしを引用しつつコメントをつけてnoteで紹介することにした。

いつか誕生する脚本家さんをお祝いして、タイトル画像はバースデーケーキのシールを。

審査にあたったコンクールの授賞式で会った受賞者さんたちに「書き続けてください」のエールを込めて、同じシリーズの鉛筆のシールを贈っていた頃があった。

シナリオコンクールは採点競技

プロのシナリオライターをめざす人たちから少なからず寄せられる「デビューさせてください」メールには毎回驚かされる。デビューは自分でつかむもので、チャンスは転がっている。他力本願で万が一デビューできた後はどうするつもりなのか心配。ただし、チャンスをつかむにはコツが要る。「何度コンクールに出しても落ちます」「どうやったらうまくなりますか」といった質問には、幸運にもデビューできた一人としてアドバイスしようと思う。

そんな老婆心からシナトレは始まった。

アテネオリンピックを見ていて思ったのだが、シナリオコンクールは採点競技に似ている。自分の持てる力を原稿用紙何十枚という舞台でアピールする。そこには「練習で積み重ねてきた力」と「本番で実力を爆発させる力」の両方が必要になる。

「アテネオリンピック」に時の流れを感じるが、「日頃の積み重ねを本番で発揮して賞をつかむ」ところは、今も変わらないし、これからも変わらないと思う。

ぶっつけ本番はキケン

最近シナリオコンクールの審査に関わるようになったが、「ぶっつけ本番でーす」という作品が多すぎる。体操競技に例えたら、「たった今、技が完成」「この内容で演技するのは今日がはじめて」状態で大会に臨んでいるようなもので、これでは勝てない。

もちろん、勢いで書いて賞を獲る人もいる。本人が天才だったり、題材が天才的に面白かったり。そうでない大多数の人は、点を積み上げることと同じくらい減点を避けることが大事。

入選確率を上げるためには、採点競技であることを意識して、自分の演技(作品)を客観的に見ることが必要だと思う。パソコンで打ち終えて出力したままポストへ直行という原稿はケアレスミスの宝庫で、減点の対象になる。誤字脱字ぐらいと侮るなかれ、採点ランクが1つ落ちるぐらいの覚悟で校正したほうがいい。

誤字脱字は、作品から気を逸らしてしまうので実にもったいない。

「単純」が「単順」になっているのが一度なら見過ごせるが、何度も出てくると、いくつ間違えるか数えだしてしまい、内容が頭に入ってこなくなる。

主人公が頭真っ白になった場面、「おつむ真っ白」が「おむつ真っ白」に化けていて、審査員のわたしの頭が真っ白になったことがある。

目の前の料理の味に集中したいのに、お皿が汚れていたら、そちらに意識を持って行かれてしまう。

「お皿やテーブルや床がベトベトでも気にならないくらい夢中で食べてしまう極上の料理」でない限り。

応募者本人も読み返していない原稿を、読む気にはならない。

何より、これに尽きる。初めて作ったのに味見もしていない料理を出されて、食べたいと思えるかどうか。どんな状態でテーブルに出されるかに気持ちが至らない店にまた行きたいと思えるかどうか。

受け取る人に想いを馳せて、届けて欲しい。

誤字脱字出現率と作品の完成度が反比例するのも事実。

誤字脱字は書き手の姿勢も国語力も物語る。慣用句の意味の取り違えがキズになってしまうことも。

「やんごとない事情で出席できなくなった」と言う国文学の教授は、実はものを知らないのか、お茶目なフリをしているのか、はたまた、相手を試しているのか……などと要らぬ憶測を呼ぶと、やはり審査どころではなくなってしまう。

と厳しいことを言いつつ、わたしも日々誤字脱字をやらかしている。それで仕事がなくなることはないけれど「急いでたんだな」と見透かされてしまう。

自戒を込めて、「出す前に読み返せ」‼︎

(2022.5.15追記 このnoteを公開した矢先に届いた仕事のメールの件名が「Re:嘔吐リバース 画像」。嘔吐とリバースがくっつき、さらにRe:と画像がのっかり、「おむつ真っ白」以上の破壊力だった)

身近な人に読んでもらう「0次審査」

わたしはコンクール応募時代、必ず友人や家族に読んでもらい、意見を取り入れて修正したものを出した。自分の主観だけではひとりよがりな脚本になりがちで、人が読むと理解されなかったり誤解されたりする部分が出てくる。

自分が書いたもののアラは見落としがち。作者の頭の中で組み上がっているので、脚本の至らないところを補えてしまう。

何も知らない人が初見で読むと、足りないところ、弱いところ、うまく描けていないところに引っかかってくれる。

子どもの歯磨きの磨き残しを色で知らせてくれる(食べカスが赤く染まる)薬があるが、あれみたいな感じ。すっきりしないところが違和感として浮かび上がる。

誤字脱字のほかに「キャラクターの名前が途中から変わってる」「キャラクターの一人称が途中から変わってる」も気づいてくれる。

時と場合によって「僕」と「俺」が交じることはあるが、「今日から俺」という転機がないのに僕から俺に突然切り替わるのは作者が無意識のことが多い。

さらには「キャラクターのキャラが途中から変わってる」も作者は脳内補正しがち。身近な人に読んでもらう「0次審査」は、独りよがりを修正するチャンスをくれる。

直しを「引き算」ではなく「足し算」に

大事なのは「直すことで作品をパワーアップさせる」こと。「ここ、わかんなーい」「この台詞、なんか違う」と言われたら、単に削るのではなく、もっと面白い代案を考える

わかんないと言われたところは、引っかかりがあるということ。つまり鉱脈。削る選択肢もあるけど、掘ることで面白くなる可能性も。「どうやったら伝わるか?」と工夫することで、脚本の腕も上がる。

この経験は、デビューしてからとても役に立っている。プロの世界では初稿に何度も直しを重ねて決定稿に持ち込んでいく。直しを「引き算」ではなく「足し算」にできるかどうか(原稿的にも気持ち的にも)が、プロに求められるとても大切なことのように思う。

初稿の完成度よりも「直しでどれだけ上げられるか」が問われると日々感じている。コンクールでは「審査員から見たら初稿」が競い合うが、応募までに「当社比でどれだけ上げられるか」の勝負だと思う。

これからコンクールに出す人は、少なくとも自分自身で読み返し(声に出して読むと、台詞のリズムがつかめるのでおすすめ)、余裕があればまわりの人にも読んでもらい、抜かりなくブラッシュアップを。

声に出して読むと、いろんな発見が。とくにセリフは格段に良くなる。動きながら読むのもおすすめ。

大きなコンクールでは何十人もの下読み審査員が手分けして応募作を読み、ふるいにかける。相性はもちろんあるけど、一人で何十作品も読んだりするので、「最後まで読んでもらう(途中で挫折されない)」ことがとても大事。

相性もあるし、運もある。それでも残る作品は残る。応募する前に自分で読み返し、まわりの人に読んでもらい、磨きをかけておいた作品は、コンクールの押し合いへし合いに呑まれず、埋もれず、勝ち上がれるチカラがついている。作品に注がれた「熱量」や「気」のようなものは印刷された原稿からも伝わる。

原稿を応募してしまったら、作者にできることは何もない。何かできるのは、投函(最近は送信で応募完了のコンクールも)するまで。できるだけのものを持たせて、原稿を送り出して欲しい。

実践編「漁師のリカコさん脚本塾」

添削を交えた実践編は、脚本を書いたことのないリカコさんに音声で書き方を指南した「漁師のリカコさん脚本塾」(全6回)をどうぞ。


目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。