見出し画像

心の傘を開いて─さすらい駅わすれもの室「雨傘の花畑」

お知らせ📢「さすらい駅わすれもの室」をkindle出版しました。kindle unlimitedでは0円でお読みいただけます。


傘と心は開いたときが一番役に立つ

傘と心は開いたときが一番役に立つ」は、今井雅子の2本目の映画脚本作品、『風の絨毯』のプロデューサー・益田祐美子さんが英会話のレッスンで出会った例文"The umbrella and the mind work best when open“を日本語にしたものだ。

初めての映画プロデュースでいきなりの日本イラン合作。戸惑うことだらけの益田さんを大いに励ましたこの言葉は、のちにわたしの講演の常連になった。感想アンケートでは「宝物はあなたの中にある。それを宝の山にするのも宝の持ち腐れにするのもあなた次第」(『ブレストガール! 女子高生の戦略会議』より)と一番人気を争っている。

NHKのラジオドラマ、FMシアター「友子とモコ」の劇中のセリフにもなった。

夕張の消防署に勤める友子(モコ)は職場の大掃除で昭和34年の勤務日誌と黒電話を見つける。その黒電話に炭鉱事故の通報が入る。現場は、かつて炭鉱町があった場所。そこで負傷者の看護にあたっている同年代の女性に出会う。「鉱山(ヤマ)のナイチンゲール」と呼ばれている彼女の名も友子だった。同じ名前といのちを救う使命を持った二人の友子は時空を超えて励まし合う。その中に「傘と心は─」のセリフが登場する。

「わすれもの室」にも「傘と心は─」から生まれた話がある。

今井雅子作 さすらい駅わすれもの室「雨傘の花畑」

さすらい駅の片隅に、ひっそりと佇む、わすれもの室。そこがわたしの仕事場です。 ここでは、ありとあらゆるわすれものが、持ち主が現れるのを待っています。 傘も鞄も百円で買える時代、わすれものを取りに来る人は、減るばかり。 多くの人たちは、どこかに何かをわすれたことさえ、わすれてしまっています。

だから、わたしは思うのです。ここに来る人は幸せだ、と。

駅に舞い戻り、窓口のわたしに説明し、書類に記入する、 そんな手間をかけてまで取り戻したいものがあるのですから。

にわか雨が降り出したある日、駅で立ち往生している少年がいました。数歩あるけばずぶ濡れになってしまうほどの大雨なのに、傘を持っていませんでした。

「これを使ってください」とわたしが差し出した傘を見て、少年は驚いた顔になりました。

それは、少年が駅にわすれて行った傘だったのです。

正確には、駅に捨てて行った傘でした。

悪意のある誰かが壊したと見え、何本も骨が折られ、ボロボロになっていました。わたしは骨をつなぎ、破れ目をふさぎ、もう一度使えるようにしましたが、少年が傘を取りに来ることはないと思っていました。

傘は、わすれもの室の置き傘になりました。

ところが、突然の雨が、少年と傘をふたたび引き合わせたのです。

「どうして?」

捨てたはずの傘が、あんなに傷めつけられた傘が、思いがけず目の前に現れ、少年はまず驚き、それから顔をしかめました。傘を壊されたときのことを思い出したのかもしれません。

「わたしが拾って、修理しておきました」
「どうして?」
「修理すれば、まだ使えそうだったので」
「どうして?」

彼は「どうして」と繰り返しました。咎めるように、呆れたように。

「傘は、開いたときがいちばん役に立つのです。それから心も」

少年が遠慮がちに手を差し出し、傘は持ち主の手に戻りました。

それからしばらくして、困ったことが起きました。わすれものを取りに来た人が、わたしが彼の鞄を自分の物にして使っていると勘違いし、とんでもない泥棒だと言いふらしたのです。

わたしが使い込んでいる鞄は、たしかに、男性がなくした鞄とよく似ていました。いい評判はゆっくり伝わるのですが、悪い噂はあっという間に広まります。

わすれもの室は、苦情の電話や心ない落書きにさらされるようになりました。なかには直接乗り込んで、挨拶もなく、わたしに怒鳴りつける人もいました。

わたしは、わすれもの室の扉を固く閉じ、窓という窓を閉め、わたし自身をわすれものとともに閉じ込めました。

わたしを泥棒呼ばわりした男性の言葉よりも、
その言葉を誰も否定しなかったことに、わたしはうろたえ、打ちのめされていました。

わたしが何十年もかけて積み上げて来たものは、何だったのだろう。途方もない空しさに襲われ、涙が止まらなくなりました。

誰も取りに来ない棚のわすれものたちに怒りをぶつけて床にぶちまけ、それを一つ一つ棚に戻しながら、何もかもがつくづくイヤになりました。

この仕事が好きだったわけじゃない。
この町が好きだったわけじゃない。
この町の住人が好きだったわけじゃない。
こんな仕事、やめてやる。
こんな町、出て行ってやる。

幾日か経つうち、閉ざされた扉や窓の外から聞こえる悪口が消えて行きました。人々は、わたしの噂をすることに飽きてしまったようです。

わすれもの室を訪ねて来る人は、いません。
わたしを気にかける人も、いません。
わたし自身が、「わすれもの」になっていました。

さらに幾日か経ったある日、裏庭のほうからざわざわと声がしました。

それは、悪意の感じられない、穏やかな春の陽射しのようなざわめきでした。

誘われるようにカーテンを開け、外を見たわたしは、あっと息をのみました。窓の外、裏庭を埋め尽くすように、色とりどりの傘が開いています。きれいに開いた傘の花が咲きそろって、まるで花畑のようでした。

真ん中の傘に見覚えがありました。いつかボロボロになって駅に捨てられていた傘。わたしが繕った、あの少年の傘です。

傘を差しているのは、あの少年でした。そのまわりを取り囲んでいるのは、彼と同じ学校の制服に身を包んだ少年たちでした。

そうです。
そうです!
傘は、開いたときがいちばん役に立つのです。それから心も。

あの日わたしが彼に贈った言葉、その後にわたしがわすれてしまった言葉を何倍も豊かにして、彼は返しに来てくれたのでした。

この仕事が好きだったわけじゃない、なんて嘘でした。

この町が好きだったわけじゃない、なんて嘘でした。

この町の住人が好きだったわけじゃない、なんて嘘でした。

こんな仕事、やめてやる。
こんな町、出て行ってやる。
そんなの全部嘘でした。

わたしには、他にどこにも行くところなどないのでした。これ以上何も失いたくなくて、心に蓋をして、嘘で鍵をかけていたのです。

わたしは固く閉ざした扉を開け、窓という窓を開け放ちました。外は晴れていましたが、わたしの頬は突然の雨に見舞われました。ひとまわり大きくなった彼の顔をよく見ようとしましたが、涙に曇って見えません。潤んだ瞳の向こうで、色とりどりの傘が、春を告げる花のようにゆれていました。

心の傘は開いたり閉じたりする

どこにも発表しないまま眠っていた「雨傘の花畑」を秋元紀子さんのClubhouseひとり語り部屋で読んでいただくにあたって加筆した。いわれのない攻撃にさらされた「わたし」が、それ以上傷つきたくなくて、心の傘を閉じる。その描写を膨らませた。

この仕事が好きだったわけじゃない。
この町が好きだったわけじゃない。
こんな仕事、やめてやる。
こんな町、出て行ってやる。

「今日のお話は辛かった」

読み終えた秋元さんが、ため息のような深い息をついて言った。

「あえて書きたかったんです」

わすれものとともに、もしくは、わすれものが見つからなくても、落とし主がどこかにわすれたものを思い出させ、取り戻させるのが「わたし」の仕事。どんなわすれものでも、どんな持ち主でもおおらかに受け入れるわすれもの室のように、心の傘はいつでも開いている。

だからこそ、そんなわたしが悪者にされ、攻撃にさらされ、わすれもの室の扉とともに心の傘を閉じ、それが再び開く話を書きたかった。

心の傘は開いたり閉じたりする。「傘と心は─」の言葉を贈った人の傘が閉じてしまうことある。そんなとき、わすれていた「傘と心は─」を、かつてその言葉を贈った相手が思い出させてくれたら。

生きることは、おくりものをおくりあうこと」は絵本『子ぎつねヘレンの10のおくりもの」にサインを求められたときに添えている言葉だが、もし、『さすらい駅わすれもの室』が本になることがあれば、「生きることは、わすれものを見つけあうこと」と書こう。

安房直子さんの「青い花」

秋元さんが「雨傘の花畑」から連想して、続けて読んでくれた安房直子作品は「青い花」。

タイトルに「花」が入っていて、舞台は傘屋さん。傘と花がつながった。しかも、傘を花に見立てるところも通じる。さらに、どちらも仕事への愛着と誇りが迷子になり、それを取り戻す話になっている。わすれもの室の「わたし」は心ない中傷に気持ちを折られるが、傘屋は忙しさにかまけて心を見失う。

安房さんが「雨傘の花畑」を読んで「青い花」を書いてくれたのではと思えてしまうくらい、見事なアンサーストーリーになっていた。

絵本ナビのレビューを読んで、南塚直子さんの絵の絵本を手に取ってみたくなった。

clubhouse朗読をreplayで

2022.8.14 鈴木順子さん

2023.4.7 ひろさん

2023.6.20 金井将明さん(縁寿さん立ち合い)

2023.7.14 鈴木順子さん

2024.2.9 長良真里さん


clubhouseの外で

「さすらい駅わすれもの室」をライブで度々読んでくださった音楽と言葉のユニット「音due.(おんでゅ)」の大原さやかさんが、インターネットラジオ「月の音色」で「雨傘の花畑」を朗読


目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。