「愛」について語るときが来たらしい
愛かあ。
今までそれについて語って来なかったことに深い理由はない。避けていたわけでもないが、語る機会に巡り合わなかっただけのことだ。
けど、語るときが来たらしい。
「愛」ってものが一体自分にとって何者なのか、そろそろ見定めないといけないみたいだ。
いまの僕にとっての「愛」
とりあえず、この記事を書き始める時点での愛についての僕の考えを一言で書き記しておく。
僕にとっての愛は
、、、正直わからない気持ちもあるが、とりあえず書いておくと
『人を憂う』ことかなあ。
人の悲しみや怒りを自分のことのように嘆き、反対に人の喜びを自分のことのように味わえることが愛なのかと思っている。現状では。
こんな風に思える人を僕は「愛している」って感じるのだと思う。
この表現は下書き無し。素直な気持ちだけれど精巧じゃない。
ここからは自分の「愛」を細かく見て書き出していこうかな。
「愛」を感じるとき
さあ、仏教とか哲学とかに答えを求めてもいいけど、それはあんまり面白くない。これを読んでる君は僕っぽい答えが欲しいんだろうから。
真理なんかが知りたいわけじゃないんだろう。
だから帰納法的に愛を描いていこうと思う。
僕が愛を感じてきた瞬間を羅列してみよう。
感じたって言うのは、受け取ったのも送ったのも含むぜ。
・親の弁当日記を見つけたとき
・母親が父の誕生日にうどん屋さんごっこをしていたとき
・昔の恋人に手紙とかプレゼントをもらったとき
・本を読んでいて、「あの人に読んでほしいなあ」と思ったとき
・雨が降った日に、昔の恋人の自転車を軒下に入れておいたとき
まだまだありそうだけど、キリがないから少なめで。
こうしてみると、僕にとっての「愛」の特徴がいくつか見えてくる。
1.自己犠牲ではない
誰かのために何かをする、ってのはアリだけど、あくまで自分がやりたいことをしているときに愛を感じる。自分を変えたり犠牲にしたりするのは自分への愛が欠けていると感じてしまう。
2.プラス志向
マイナスをゼロにすることに愛をあまり感じないのだろう。それは愛というか、慈悲とかに分類される気がする、自分の中で。
3.遅れてやってくる
僕が愛に鈍感なだけかもしれないけど、時間がたっても感じられる人道的な美しさに愛を感じている。その場限りの行動にはあまり愛を感じていないように思う。
こんな感じだろうか。僕が愛を感じるタイミング、意外と見えてきたかもしれないぞ。
自分が何に「愛」を感じるか
自分にとっての「愛」の特徴は
1.自己犠牲ではない、
2.プラス志向、
3.遅れてやってくる
このあたりなんだけど、これを書いていてじんわりと愛を感じさせる文章があることに気が付いた。
これだ。これなんだと思う。僕がしてきた中で一番愛ある行動はこれなんだよ。
別にやらなくたって構わないよね、この行動。もともと濡れているはずのサドルが濡れているってだけなんだから。
だけど、僕はこの行動をできた自分を誇らしく思っている。
これは愛にあふれた行動だと胸を張って言えるよ。
きっと僕が愛を感じるのは、
「やらなくてもいいことだけど、あなただからやってあげたい」
って気持ちなんだろうと思う。
弁当も、うどんも、手紙も、本も、きっとこの気持ちがあるからだよね、俺が愛を感じてたのは。
改めて、「愛」ってなんだろう
僕にとっての愛は、
「やらなくてもいいことだけど、あなただからやってあげたい」
って気持ち。
キリスト教のアガペーとか、仏教の無分別とかとは全然違うみたいだね。これでも僧侶のはずなんだけどな。
ものすごく個人的だよねえ。社会的善とか全く興味ないって感じで面白いし、自分ぽい答えが出たなと思う。
もちろん、「あなただから」の「あなた」を広げていく努力は必要だと知っている。じゃないと冷たい人間になっちゃうし、なにより今いる「あなた」を悲しませちゃうだろうから。
けれど、やっぱり僕にとっての愛は
「やらなくてもいいことだけど、あなただからやってあげたい」
なんだよね。
目の前のあなたと、僕とがいるここで新しい幸せを一つずつ作っていく試みなんだぜ。俺にとっての愛ってのは。
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