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「身近なコミュニケーション」としてのスピーチ

前回、英語スピーチの授業の後学生用に書いたまとめコメントを、「スピーチではもう一人の『自分』を創ろう」と題してnoteにまとめました。ありがたいことに、多くの方々に読んでいただきました。記事が少しでも「スピーチ」を捉え直すきっかけになってくれていたら幸いです。

先ほど26名の英語スピーチの録画を確認し、出してもらったレポートに朱入れを終えたところです。あらためて「スピーチってコミュニケーションだという発想が大切だよね」と思いながら、その点を確認すべく、もう一つ書くことにしました。しばしお付き合いを。

Too dramaticなスピーチ?

私が子どもの頃、成人の日に「青年の主張」という番組がNHKで放送されていました(若い方は知らないだろうな)。20歳を迎えた人たちがスピーチされるのですが、内容的にはとてもいい主張が多く、先生から見なさいと何度か言われた記憶もあります。

私自身も小学生のころお話し大会(お話しを語ってみせる)や弁論大会に出た(出された?)ことが幾度かありますが、通常こういうスピーチには「原稿」があり、それを完璧に「暗記」し、何度も何度も練習して再現性を高め、本番で見事に「演じ切る」ことを求められます。そう、台本があり、その台本をただ覚えて読むだけでなく、しかと演じて「見せる」、まさに「演劇」の感覚に近いわけです。場所も「舞台」の上ですし。つまり、スピーチは普通「演劇」のように捉えられているわけです。

演劇とは英語でdramaと言います。演じて見せることは、play a dramaです。上の「スピーチ=演劇」のイメージと重なります。このことは、私たちが普通「スピーチ」するときの「語り方」が、日常での普通の「語り方」とは乖離している、ということを意味します(逆に、日常生活が演劇だという捉え方もありますが)。何か「特別感」というか、かしこまったというか、そういう「非日常なふるまい」になりがちなのがスピーチです。

すると、まさに「青年の主張」がそうで、身振り手振りがオーバーになり、語り掛け方も含め、全体的にとても・・・「ドラマチック」になりがちです。ある意味、too dramatic。

もちろん、日常生活でそんなミュージカルの主人公のような語り掛けを私たちはしません。両手を横に広げて、「君は一体どこに行っているんだい?」(キリッ)なんてことはないわけです。するとスピーチでそんなに振り切れない人はどうするか。

結果「棒読み」になります。友達と騒いでるときには、「えー、昨日Mステに〇〇出たのー!?」とか「俺、今日全然集中できないや!」なんてことを表情とともに豊かに語っているのに、スピーチという「特別」な舞台になると、高い音と低い音の差がなくなり、フラットな言い方になり、動きを「ジェスチャーを入れないと」という強迫観念から、ここでこう入れようかな?というぎこちないものになりがちです。

以上の(1)「ドラマチック」なスピーチと(2)「棒読み」のスピーチは大いにかけ離れていますが、その前提にはどちらも「スピーチ=演劇」「台本の忠実な再現」といった考え方があります。だからこそ両極に振れ、その中間点に落とし切れないわけです。

ことばが私たちに求めるもの

こうしたドラマチックなスピーチ観(とその失敗としての棒読み)には、実は私たちの母語の影響もあります(決定論ではありません)。

例えば、「敬語」文化。もちろん英語はじめ西洋の言葉でも丁寧な言葉はあり、TPOでそれらを使い分けます。ですが、日本語では尊敬語、謙譲語、丁寧語の区別があったり、相手次第で言葉遣いを大きく変える必要があります。正確には、日本語を話している限り、日本語が相手によってどの言葉を使うかの選択を私たちに迫ってくるのです。

英語ならWhat do you want to eat for lunch, Professor Suzuki?と言えるところを、直訳して「鈴木先生、あなたはお昼に何が食べたいですか?」とは言いませんね。日本語では目上の人に「あなた」なんていいません。そこには指をさして「あなた!」という刺々しさが付きまとっており、先生向かって「あなた」なんていうのは尾崎豊ぐらいです(「卒業」より)。普通は「鈴木先生は・・・」のように主語を表現したり、「鈴木先生、お昼は・・・」と主語を省いたりして、指さした指をおさめようとします。また、上記の文は「鈴木先生、昼何食べる?」と訳しても意味は通じますが、私たちは「失礼」だからそう言いませんね。

日本語ではそのシステム上、相手と私の人間関係、特に上下関係を探りながら言葉を選択していくことが私たちに求められます。特に役職だったり年齢だったり、特に学校文化のなかで1歳違いの細かい差異を読み取る訓練をしています。そして、相手が後輩やタメとわかった瞬間、言葉をがらりと変えたりするわけです。

このような縦関係に敏感な私たちは、その関係性のルールを破らないように「正しく」「きちん」とふるまう必要があります。「きちんと」文化と言ってよいでしょう。もちろん、きちんとする美徳はありますが、それゆえ「原稿」が「正解」となり、そこからはみ出ないよう徹底的にそれを内面化しようとします。だめなら、原稿を立派に「読む」か、原稿を見ないで「棒読み」するかになる。それはスピーチコンテストの多くの優勝者のようであり、政治家の記者会見であったり校長先生や来賓の式辞や祝辞のようであり。

*補足 なお、コンテストや原稿を書いて行うスピーチには「教育的意義」はあるので、原稿を書いたり、覚えたり…という一連の作業自体だめということではありません。野球の基礎練習や空手の型練習のように、見本や基本的な動きを理屈ではなく身体にしみこませるべく繰り返し練習することは、一つのやり方としてありです。ただ、「傾向」としてですが、「日常」と「非日常としてのスピーチ」の間の断絶ゆえに、このやり方では「日常としてのスピーチ」になかなか届かないのです。まるで、英単語や英文法を覚え、それらを繰り返し練習したものの、だからといって英語を自由に使えかというと・・・といった現状のように。

先に日本語の影響について言及しましたが、逆に、私が担当している英語スピーチの授業では、英語の持つ質感が影響します。英語は日本語よりも関係性が相対的にフラットなので、IはI、YouはYouで表します。兄弟・姉妹もあえてelderとかyoungerとか使わずにbrother、sisterでOK(これは日本で誰が長男か次男かということが社会的に重要な意味を持っていることとも関係しているでしょう)。

前回の投稿で書いたように、私はそういう日本語の特質はすでに内面化しているとして、英語によるスピーチを練習することは、新たな自分やコミュニケーション、他者との関係性の築き方を開拓することにつながると考えています。

踏み込んで言うと、スピーチの練習は、日本語でよりも英語を挟む方がそういう練習がしやすいとさえも思っています。

日本語でスピーチをやっていると仮定してみてください(今日のトピックは去年起きた一大イベント)。みなさんならどういう風に話しますか。おそらく多くの方が、「私の昨年の一大イベントは~です。」という「ですます調」で話すのではないですか。すると丁寧だけど、聞いている人との距離が空くんです。すると一方向のコミュになりやすい。英語だと「ですます」、「だである」の区別がないので(丁寧な言い回しがないといっているわけではない)、そういう意味では英語を挟む方が双方向のコミュニケーションの関係を作りやすいんです。

前回投稿「スピーチではもう一人の『自分』を創ろう」

スピーチを「身近なコミュニケーション」と捉えてみよう!

まとめると、

  1. 私たちはついスピーチを日常から乖離した「特別なもの」、具体的には「演劇」のように捉えがちであり、その失敗として「棒読み」の発表になってしまう;

  2. 原因の一つとして、日本語が持つ他者関係の相対的重要性(特に縦関係)を私たちが内面化しているために、「きちんと」話すことが求められ、儀式的になってしまうことがある;したがって、

  3. むしろ英語の身体性を利用し、フラットな関係性でスピーチを捉えてみよう;

ということです。そして、ここで前回の投稿の結論に行きつきます。すなわち、「スピーチとはコミュニケーションである」(Speech is/as Communication)という結論に。

スピーチを特別なこととみてしまうことでdramaticになりすぎたり、その失敗として「棒読み」になってしまうためその中間がない、と書きました。スピーチをコミュニケーションと考えることは、スピーチをそんなに「特別視」しない、ということを意味します。そうではなく、私たちの日常のコミュニケーション、例えば家族や友達と普通に話すときのような対等な関係でのコミュニケーション、その延長にあるつもりで捉える、ということです。

日常的に学食で友達と話をするときに原稿はないし、前もって決めたジェスチャーもありません。目線も意識せずとも、相手を見て話をします。そんな「日常」での当たり前の構えや作法を大切にすることが、まずはコミュニケーションとしてのスピーチへの第一歩です。このように、スピーチを「身近な」コミュニケーションとして捉えてみましょう。

その範囲を徐々に拡大するごとに、公共性が上がります。日本では「公」というと、国家とか権威的なものをイメージしがちですが、「公」とはそもそも私たちの社会、つまり人が複数集まってルールの中で暮らしている社会的空間のことです。スピーチ同様、「公」だってそんな「特別」なことではないのです。

友達に自分の考えを率直に話してみるように、「公」でも、自分はこう思う、あなたはどう思う?、なぜ?、なるほどあなたはそういうわけでそう思うのね、私はそれに対してこう思うよ…と話してよいし、むしろそういう自分を創っていくことが社会的に求められます。本来はこうした双方向で不断のコミュニケーション、それが「スピーチ」を公的なものとして捉えた姿なのです。私たちが通常イメージする「一人が多数」に語っている「スピーチ」とは、たまたまその一部の発言を切り取って、独話のように捉えたにすぎません。

英語にはpublic speakingという言葉や授業があり、「話す」際に「公共性」を意識する訓練が日常的に行われています。その意味では、ここに書いたことは、スピーチをpublic speakingとして捉えましょうという提言です。ぜひ、スピーチを特別視しすぎず、身近なコミュニケーションの延長として捉えてみてください。そういうスピーチの練習と体得が、私たちをドラマチックな演技者や台本の再現者ではなく、「市民」としての成熟に導くのです。

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