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教育は次世代へのギフト。ギフト性を最大化させるには?|『GIEFに生きる』

本連載の主題「GIFTに生きる」は「見返りを気にせず誰かや社会のためになることをやり続けていくこと」を意味する。人から人へ、良いコト・モノをギフトする行為は、めぐりめぐって、自分自身にも返ってくる。この連環が社会をより豊かにすることを、実践家・石丸弘と、「退職学™️」研究家・佐野創太と共に学んでいく鼎談(ていだん)、今回は「学び/教育」について深堀りしつつ語り合った(過去記事リンクは最下方

教育は洗脳? 教育とは待つもの。時間がかかる

正木 本日のテーマは教育です。教育もまたギフトの一つのかたちです。企業研修では新しいメンバーに働きやすいスキルやマインドを伝えますね。企業としては将来的な売り上げの見返りを求めているとはいえ、新人の能力を向上させるという意味ではこれもギフト? になり得ます。また、学校教育も社会で生きやすくするための知識を伝えるという意味でギフト? です。これらには見返りを求める部分があるので、ギフトの語のあとにあえて「?」をつけましたが、教育はギフト化することができます。将来世代のためにいま僕らが何かを後輩に伝え、残したとしたら、それが教育的なギフトになるんです。

佐野 僕はいま子どもを育てていますが、子育ては「子どもからもらう」ギフトですよね。一方で教育というと、皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか。僕は、正直「怖い」って思っています。たとえば、子育てって子どもにとって影響が大きいじゃないですか。あまりにも大きい。僕の関わり方一つで、良くも悪くも子の生き方や価値観が変わってしまう。その責任を思うと戦慄します。僕は子育てについては、子どもに何の見返りも求めていません。けれど、だからといって無責任に「どう育ったって自由」という風には考えられない。僕は教育には責任が伴うと思っています。そう考えると、責任重大で怖い。

正木 あー……別の意味でいま、僕は「怖さ」を連想しました。教育って、洗脳と言ってしまえば洗脳ですからね。洗脳というと僕なんかはオウム真理教を思い出しますが、何を洗脳するのかって考えると、責任はやはり重大。いちど洗脳されてしまうと、子どもはそこからなかなか抜け出せません。ただ、人間は社会的動物でもあるので、現代社会で上手に生きていけるようにある意味で"洗脳"する必要はあります。たとえば「起立! 気をつけ! 礼!」みたいな感じで、身体的な"訓練"を教育という名で推進し、きちんと挨拶ができて、演壇に立っている人(先生)の言うことをじっと聞ける、というところまで人を育てなければいけない。もちろん、その訓練に適応的でないからといって、イコール「悪」ということではありませんが……。

「GIFTに生きる」を教育することはできるか

石丸 次世代に豊かな価値を継ぐということ自体が、やっぱり教育の根幹だし、ギフトなんだと思います。そこに"洗脳"的な要素がある――"洗脳"という言葉は強すぎますが――ことは事実です。ただ、教育って、時間がかかるんですよね。人を変えるっていう取り組みだから。人を変えることって基本、できないじゃないですか。変えられるのってあくまで自分であって、だからもし、教育する相手に態度変容を求めるにしても、それは長い長い時間がかかるでしょう。僕は以前、ギフトに興味がまったくない人にギフトを教えたことがあります。やっぱり幾年も幾年もかかりましたね。

佐野 その時は、どんな教育をされたんですか。

石丸 いや、「教育する」みたいな意識はほぼなくて、ただただ自分がギフトに生きて楽しそうにしている姿を見せて、ギフトのおすそ分けをしたりしていたんですね。いわば「僕の姿を見て勝手に学んでねー」という職人の世界みたいな感じです。でも、感化されて主体性がでてきた人って学ぶんですよ。結果的に、その人への接し方は教育になっていました。育てようなんて思ってないんです。ほんとうに、勝手に学んでくれたんですよね。

正木 まさに、ギフトの本義です。「GIFTに生きる」は「見返りを気にせず誰かや社会のためになることをやり続けていくこと」という意味ですけど、教育には、つねに「将来的にこうなってほしい」「こういうリターンになって、本人や周囲が喜ぶような環境が生まれてほしい」みたいな見返りが入り込む余地があります。でも、ギフトは見返りを求めない。だから、ギフトの教育という話題になれば、最終は「勝手に学んでくれていた」みたいなかたちになるでしょうね。「勝手に学ぶ」は究極の自主性です。これは「自主性を引き出す教育」の模範になるかもしれません。

教育と聞くと変に構えてしまう人が多い

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石丸 いま、佐野さんは教育について「怖い」と言って重たいイメージを抱かれていましたけど、僕はそうじゃないんですね。教育って別に特別なことじゃなくて、それこそ日常のすみずみにまで学びのチャンスというか「きっかけ」はあるので、人の営為すべてが教育になり得るんですよ。もちろん子育てに関する緊張感とか、学校教育に対する悩みとか、いろいろあって特別視しなきゃいけない部分があるのはそうなんですけど、どこかで、「自分以外みな師匠」「すべての環境が教室」みたいな価値観は持っておいた方がいいと思います。

佐野 なるほど。僕、完全に子育てに対して構えていたし、特別視していましたね。

石丸 それが悪いわけじゃないんです。ただ、日常のさまざまなことが全て教育だと思った時に、僕、子育てについては「いつも最後、全力で子どもに謝るつもりでいる」っていう考えに行きついたんです。いつもこの考えを持っています。

佐野 え? え? どういうことですか。

石丸 育ったあとに「オヤジのせいで俺はこうなったー!」って子どもに言われたら、「ごめん! 俺も当時未熟だった!」って全力で謝ることを想像しているんです。ちゃんと「潔く」謝るってことですね。だって、子育てについても教育についても完璧なんてないじゃないですか。大人がまず未熟なんだから。でも、愛情はこめて育てているので、親としての未熟な部分は潔く謝って、でも等身大の自分で育てようっていう開き直りみたいな気持ちは持っていますね。そうすると、心が軽くなります。

正木 僕も、その価値観に近いものを持っています。子育てを例にとると、実際として、じつは「育てる側/育てられる側」みたいな区別ってないんじゃないかって思うんです。大人だって子育てを通じて成長しているんですよね。というか、子どもに育てられている面だってある。だから、僕、子どもに言うんですよ。「親孝行なんて、しなくていいからね。パパはもうたくさんのものをお前たちからもらっているから、むしろパパに生涯『子孝行』されてくれ」って。いま僕の子は小学生ですけど、一生分の愛を子どもからすでにもらってるんです。だから、子孝行がしたくてたまらない。

「教える側/教わる側」という関係性を壊そう

正木 で、ですよ。ちょっと僕が昔から思っていたことを言っていいですか。

佐野 どうぞ(笑)。

正木 もし仮に教育に「教える側/教わる側」という区別がないとして、です。その前提を踏まえて確認したいのですが、教育の現場には、そもそも必須な情熱ってあると思うんです。それは、伝えたいこと、体現していることに自分自身が「しびれている」ということなんですね。以前も紹介しましたが、哲学者プラトンの『メノン』という本に、近づくものをしびれさせるシビレエイの話がでてきます。それが象徴しているのは、たとえば、「教わる」にしろ「学び取る」にしろ、本人の「しびれ」が相手にしびれとして伝わる、そのようにしてしか教育は成り立たないということなんです。教師と生徒でいえば、教師が伝えたいことに心底しびれていないと、子どもたちは「どっちらけ」になっちゃう。

石丸 それって超大事ですよね。「GIFTに生きる」の素晴らしさを伝えたいって思っていても、それを実践している僕自身が「でもな、ほんとうのところ『GIFTに生きる』ってどうなんだろ?」って迷っていたり、しびれていなかったら、もう「GIFTに生きる」なんて広まらないですよ。

正木 僕、以前300人くらいの前で読書について講演をしたことがあるんです。子どもに読書への興味を持ってもらうというのがその趣旨だったんですけど。その時に、僕はゲーテの『若きウェルテルの悩み』っていう本を紹介しました。僕はその本が大好きで大好きで。で、結局その講演では読書論についてはほぼ触れず、ただただ『若きウェルテルの悩み』の感動を語ることでトークが終わっちゃったんです。

佐野 マジですか(笑)。大丈夫だったんですか。

正木 でも、これがおもしろかったんです。僕が『若きウェルテルの悩み』を熱っぽく語ったら、講演会場の最寄り駅の駅前にあるデッカイ書店から、講演後『若きウェルテルの悩み』が消えたっていうんですね。在庫も含め、「全部売れました」って。でも在庫がなくなっても、それを知らない僕の講演の聴講者が次から次へと「『若きウェルテルの悩み』置いてないですか」って来るわけです。その時に、ああ、伝えたいことに自分自身がしびれてるって大事だなって思いました。

伝えたいことに心底しびれている人が良き教師

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佐野 そうやって「しびれている人」が身近にいるって大事ですよね。

石丸 やっぱり心から楽しんでいる人から学ぶのっていい。

佐野 僕は「退職学™️」という学問を立ち上げていますが、退職にもいろいろあるんです。いまの職場に不満があって辞める人もいれば、前向きなキャリアアップのために退職をする人もいる。で、後者の場合に大事になってくるのが、まさに身近に「キャリアを自分でつくれる自信があって、ビジネスにしびれている人」がいることなんですね。

正木 ああ、ロールモデルが近くにいると違ってくるっていう話ですね。

佐野 そうです。ただ、ロールモデルが社内にいないという現実も多々あるので、ここは難しいところですね。尊敬できる人が自社内にいない、みたいな。それは「このままこの会社に居続けているんだろうか」という悩みに直結します。ただ、この悩みにも良い悩み方とあまり良くない悩み方があるんです。ロールモデルって、どこか「神」みたいに崇め奉る対象みたいになりがちなんですけど、「崇める」的な依存体質では、たとえロールモデルを求めて次の職場に行っても、結局「新しい会社にもすごい人がいない」ってなって、結果ジョブホッパーになってしまうんですね。

正木 確かに、そうなりがちだ。

佐野 大切なのは、まず、自分が自分の働き方にしびれることなんです。いろいろ思うことがあるにしても、今いる場所で奮闘する自分自身のビジネススタイルにはしびれていたい。そうやって自分自身のマインドを高めていないと、転職後も幸せでいられる転職ってできないんです。転職できたその瞬間だけ幸せな転職はたくさんありますから。いや、転職できないというか、少なくとも「難しい」とは言えるでしょうね。だからこそ、自らが「キャリアを自分でつくれる自信があって、ビジネスにしびれている人」になることが大事だと思います。青い鳥はいなくても、青い鳥に自分がなろうって。そういう時の転職はやっぱりうまく行きやすい。

石丸 教わる側になるにしても教える側になるにしても、自分自身が自らのあり方や学びにしびれていないと、教育自体は十全に機能しないのかもしれませんね。その意味でいっても、良き教師って、伝えたいことに心からしびれている人なんだなあって改めて思いました。

ギフトについて次世代に伝えていきたいこと

佐野 ギフトを徹底している石丸さんが、次の世代に伝えたいと思っていることって何かありますか。

石丸 僕的には、「GIFTに生きる」がふつうになってほしいなって思います。そこかしこに「GIFTに生きる」人がいるって状況になったらいいなと。僕はその面でも教育に貢献できればって考えています。単純に、僕の生き方を見聞きして「おもしれー」って思ってくれた人が真似っこしてギフトを始めて、僕にギフトが来れば僕もまた次の人にギフトしてって、そういう循環が始まると、みなの生活が豊かになるはずなんです。僕は、「GIFTに生きる」っていう生き方をとることそのものが教育になるなって思っています。

正木 おおー。

石丸 僕の生き方に勝手に感化される人が出てきたら、それで僕的な教育は一つ階段を上ったことになるんです。しかも、「GIFTに生きる」は必ずしも僕が起点でなくてもいい。僕以外にも、今すでに「GIFTに生きる」人が幾人もいるので、みなで感化し合い、輪を広げながら「GIFTに生きる」圏域を広げていきたいです。

素敵な人の生きざま自体が教材

石丸 「GIFTに生きる」以外にも、そもそも素敵な生き方をしている人っていますよね。そういう人の生きざま自体が、実は教科書というか、教材なんです。「こんなおもしろい生き方があったのか!」って気づきを与えられる人っているので、そういう人がどんどん出ていって、みなに良い影響を与えられたらいいなって思います。それに資するように、僕は素敵な人たちの応援がしたいし、その人たちに実際にギフトをしています。

正木 石丸さんが、ですよ。仮に小学校とかで教壇に立って「こういう生き方していて、めちゃくちゃハッピーです」って話をしたら、子どもたちは度肝を抜かれますよね(笑)。「あ、そういう生き方もしていいんだ」って、ある意味の既成観念もぶっ壊れるかもしれない。

佐野 こんな生き方、存在するの!? ってなりますね(笑)。

正木 佐野さんだって、新卒の時に仕事や転職がうまくいかなくて、そもそも次の職場を探すこと自体が困難になったじゃないですか。それで体調を崩したり。そんな絶望から、いま独立して「退職学™️」にかかわる本すら出版しようとされているんですよね。子どもたちからしたら「うわあ、そんな人生あり得るんだ」って驚きになる。僕は、そういった図抜けたおもしろさを持った大人たちに子どもを触れさせることが教育にとってポイントになると思っているんです。

佐野 会社員時代、週4で「会社辞めたい」って思ってましたからね。会社に「何とかしてくれ」って、依存していました。

正木 ほとんどじゃん(笑)。でも、石丸さんはじめ皆の生きざまが、最高の教科書になり得ますよね。高校・大学に行って新卒で就職して、そこから社内で役職を獲得して――なんて生き方は、人生で選べる生き方のごくごく小さい選択肢の一つに過ぎない。でも、子どもたちの中には、それしか選択肢がないくらいに思っている人がいるわけです。

佐野 いるいる。

正木 そんな子たちに石丸さんの生きざまを伝えたら、衝撃でしょうね。たとえば、社会の既存のレールに乗って大企業に就職した人たちが新幹線の乗客だとしたら、彼らはすさまじいスピードで移動しているわけです。一方の石丸さんはその新幹線のレールの周囲に広がる田園の中を夕日をあびながら「歩いて」いる。レールに乗ってすらいない(笑)。で、石丸さんは新幹線に乗っている人たちに「おーい」って手を振っている。でも、当の新幹線に乗っている人たちはきつそうにしていて、一方の石丸さんは歩いているのにめちゃくちゃ幸せそうなんですね。この対比を実感した人たちはそれこそ「私の生き方って何なんだろう」ってラディカルに問い返すかもしれない。

石丸 そういう教育効果があったらいいですね。

生き方は、もっと多様でいい

佐野 石丸さんと話していて思いますけど、生き方に決まりはないなって思います。石丸さんって、いわゆるサラリーマン的な労働って一切してないじゃないですか。でも生活は何とかなっている。というか、何とかなるどころか誰よりも豊かに生きている。人生、いろいろな生き方があるって知るだけで、それを聞いた人って豊かになりますよね。

正木 それこそ、ニートで集まって働かないコミュニティをつくって生活している人たちもいますからね。山奥ニートと呼ばれている人たちです。

僕の友人の中にも、家は自分で作って、トイレ風呂は川でって自由に生活している人がいます。完全に自給自足している友もいれば、何にも労働せずに年収5億くらい稼いでいる人もいます。それぞれに、それぞれのおもしろい生き方があって、それぞれが充実している。少なくとも彼らを見ていて思うのは、「いざとなれば労働しなくたって人生、何とかなる」っていうくらいの心の余白ができるといいよねってことなんです。

石丸 凄い人たちがいるな(笑)。

正木 こういったことを伝えて、聞き手が自分の生を肯定できたら、それで教育って成功だと思うんです。生の肯定ってほんとうに大事で。というのも、倫理道徳を基礎づける価値が「生の肯定」だからです。

佐野 えっ。興味深い。

正木 たとえば、倫理的な究極の命題として「人を殺してはいけない」というものがありますね。これ、究極的には「殺してはいけない理由」ってないんですけど、ないなりに強固な話として「人にされて自分が嫌なことは、他人にもしてはいけません」というテーゼを機能させて道徳は何とかやってきたわけです。でも、このテーゼを一発で無効化できる言葉があります。それは「いや、俺、殺されてもいいと思ってるんで」「死んでもいいって本気で思ってるんで」という言説です。こう言われたら、ぐうの音も出なくなりますよ。生きることは無価値だと本気で思っている人に「人を殺してはいけない」という道徳を教えるのは無理ゲーです。でも、「生きることって素晴らしいよね」と生を肯定できるようになれば、その人の中で「人を殺してはいけない」という倫理的判断が育ちます。これって理屈じゃないんです。生って素晴らしいっていう感覚が、「人を殺してはいけない」をはじめ、道徳や倫理を基礎づけるんです。だから、教育にしても何にしても、生を肯定できるよう促すことが大事です。ここが崩れてきているから、日本はいま閉塞していると思うんですけど、教育に関わる人が活き活きして生を肯定できるようになれば、世の中には「捨てたもんじゃない」ムードが広がると思うんですね。

[参考文献]

[アーカイブ]



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