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欲望や刺激の虜にされ、虚しさの落とし穴に堕ちないための道標|トリスタン・ガルシア『激しい生』書評

人間の欲望を喚起し、無限なる快の追求に熱をあげさせることが資本主義的な正義だとされている。なかでも私たちが日々経験しているのは「強さ=激しさ」への駆り立てである。そう指摘したのは、フランス現代思想界を牽引しているカンタン・メイヤスーの教え子・哲学者トリスタン・ガルシアだ。「強さ=激しさ」と言われてもピンと来ないかもしれない。ここではひとまず「感動」や「興奮」といったイメージで捉えてほしい。目の覚めるような体験。忘れられない出来事。歴史や社会を変える偉業。恋愛における絶頂。スポーツ観戦でのカタルシス。仕事での成功。技術的なイノベーション等々。ガルシアは、個人レベルでも社会レベルでも高い価値を与えられているものがこれら「強さ=激しさ」だと述べる。そして、私たちは際限なくそれを求めているのだと言う。もちろん、このありようをそのまま続けられるほど個人にも社会にも地球資源にも余裕はない。私たちは「強さ=激しさ」を希求するおのれと上手くつき合わなければならない。しかし、どうやって? これが今回取り扱う書籍『激しい生』の命題である。

強さとは何か? 激しさとは何か?

「強さ=激しさ」は近代に注目を集めるようになり、その後ヨーロッパから近代の社会構造を併せて世界中に広まったとガルシアは持論を述べる。「強さ=激しさ」は、近代以前は人の心を惑わせ平穏を妨げる悪魔の誘惑と見做された。反対に、当時においては「超越的なもの」が大切にされた。だが――現代はそれと様相が異なる。人々は、たとえば仏教的な悟りの境地やイスラーム、キリスト教の救済といった世界よりも「強さ=激しさ」を追いかけるようになった。そして、ここで人間は困難に直面する。

逆説的ではあるのですが、強さ=激しさの絶対的な勝利は、ほとんどすぐ、その敗北を指すようになると思われるのです。強さ=激しさの絶対化はその無化なのです。あらゆる領域で、何かの強い=激しい特徴の認識は、次のような望ましくない効果を表明します。ひとたび特定されるや否や、強さ=激しさはすぐに強さ=激しさとして認識されることをやめる、と。

トリスタン・ガルシア『激しい生』栗脇永翔訳、人文書院、78㌻

つまりこれは、ある「強さ=激しさ」は、認識されるまでは強く希求されるが、認識された途端に人を惹きつける力を失い、「強さ=激しさ」の度合いが無に向かうということだ。この話は、ある対象への欲望を満たした人が、すぐにその対象への不満足感を強めていくことと同型である。あたかも、ある体験で燃えるように感激した人であっても、その体験が同じように繰り返されれば、感動を弱くさせていってしまうようなものである。そうして不満足に陥った人はどうなるか。さならる強力な欲望の満足を求めるようになる。これと同じように、「強さ=激しさ」を求める人も、一度得た「強さ=激しさ」が段々と無化されていってしまうがゆえに、さらなる「強さ=激しさ」を求めるようになる。こうして「強さ=激しさ」の無限の追求が始まる。

変異・加速・初体験信仰で激しさの維持へ

この営みに際限はない。ガルシアは言う。

あらゆる生きられる強さ=激しさはその増加を増やさなければなりません。

同122㌻

そのために取られる手段のキーワードが「変異」「加速」「初体験信仰」である。「変異」とは、いわば諸体験に「抑揚」をつけることだ。人は変化率の激しいものに「強さ=激しさ」を感じるため、体験に抑揚をつけた方が魅惑度が増す。年に数千人の死者を出す自動車事故よりも、一度にたくさんの死者を出す航空機事故の方が(変化率が高く、それゆえ)印象に残るように、起伏の激しい出来事に人は引きつけられる。あるいは、人は定着した確実さよりも不確かな意見の変化の方を好むため、やはり「変化」をつけようとする。または、ある体験から別の体験へと移行しようとする。そうすることで「強さ=激しさ」を見かけ上維持させたようにして体感することができる。

ところが、いつしか変異にも「慣れ」が来る。「変異し続ける」というその継続性が「変化のなさ」として感じられるようになる。そこで人が行うのが「加速」である。「加速」とは、変異がより速く、より強く起こるように働きかけることだ。進歩を促すということだ。人は定期の変化にすぐ馴染んでしまう。だからこそ変化を加速させる、進歩させることで「強さ=激しさ」を手に入れようとする。

だが、加速すら無限に行えないがゆえに、やがて加速にも限界が来る。するとどうなるか。ガルシアは「強い=激しい人間は最も強くあり続け、維持するために増加する必要がないある体験を思い浮かべるようになります」(同113㌻)と述べつつ、それが「初」体験であることを明示する。人は、何かを初めて体験する時にその鮮烈さを強く意識する。初めて口にする料理の味。初めて会った人の印象。ある音楽を最初に聴いた時やある本を初めて読んだ時の感懐等々。その活き活きとした初体験に思いを馳せ、その時の体験に最大の「強さ=激しさ」を付与するようになるとガルシアは言う。

「強さ=激しさ」の果てに至る境地

このようにして「強さ=激しさ」の追求の果てに到達する境地をガルシアはこう表現する。

強い=激しい人間は単に変異と進歩だけでは満足できず、第一回目に、拡張して幼少期に、思春期に、歴史の最初のとき、ないしは原初的な時代に、至高の真理を付与するのです。つまるところ、何ものも開始するものよりも強くは決してなく、進歩し、拡大し、発展するすべてのものは強さ=激しさにおいて損なわれるほかないと見積もるものが「初体験信仰者」なのです。

同115㌻

「強さ=激しさ」はすぐに損なわれる運命にある。そのように見積もる態度は、まるで悟りのようだ。しかし、この境地はまだ「強さ=激しさ」を理想化している点で足りないともガルシアは示唆する。結局人は、「変異」「加速」「初体験信仰」の中で「強さ=激しさ」に駆り立てられたままとなる。その果てに待っているのは、一人の人間にあっては「個人の破壊」だ。虚無だ。欲望の虜になり、満足を常に求める時、人は虚しさにさいなまれることになる。

激しさと適正な関係を結ぶための思考とは何か

では、どうすべきなのか。もしも「強さ=激しさ」が近代のもたらした魅惑物であり、失われることが運命づけられているのだとしたら、求めるべきは近代の外部ということになるだろう。その外部とは? ガルシアはこの文脈の中で仏教の「英知」そしてイスラームやキリスト教の「救済」の考察を行う。その前に、前提として「思考」を吟味する。

英語の「think」に相当するこの「思考」をガルシアは再解釈する。まずはその中身を見ていきたい。

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