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[書評]僕らの生活は国際的地位の低い国々の犠牲の上に成り立っている。ほんとうに。

まさに表題のとおりである。日本はいまだ国家的には経済大国だが、わが国の繁栄は多くの国の犠牲の上に成り立っている。……という言い分はたまに聞くかもしれない。しかし、実態を知る人は少ない。このたび発刊された原貫太氏の『あなたとSDGsをつなぐ「世界を正しく見る」習慣』KADOKAWAは、そんな未知の構造――本当は知ろうと思えば知ることができるのだけれど――を丁寧に教えてくれる。僕の読後感は「恥ずかしい」だった。これほどまでに、僕らの国は貧困国を搾取して成り立っているのかとあらためて知ったとき、忸怩(じくじ)たる思いがした。

あなたが持っているスマートフォンが生む悲劇

しかも、僕らがしているのは搾取だけではない。遠く離れた国で起きている紛争や貧困の原因もまた、僕らがつくりだしている。たとえばスマートフォン。このスマートフォンの部品に使われている鉱物の掘り起こしが、掘削の現地で人々を死に追いやったり、現地の生態系を破壊してもいる。本書に以下のような記述があった。

「リチウムを生産する過程でも、様々な問題が指摘されています。リチウムを生産するためには、鉱石から生産する方法に加えて、塩分を含んだ地下水を汲み上げることで生産する方法があります。たとえば南米チリのアタカマ塩湖は世界有数のリチウム鉱床として知られています。そこではリチウムを採掘するために企業が行っている大規模な地下水汲み上げによって、地域の生態系が影響を受けたり、現地の住民たちがアクセスできる水資源が減少したりしていると言われているのです」(『あなたとSDGsをつなぐ「世界を正しく見る」習慣』160㌻)

実はこの話、以前紹介した経済思想家・斎藤幸平氏の『「人新世」の資本論』でも言及されている話題である。

問題意識のないSDGsへの違和感

斎藤幸平氏は上記著作の中で、「SDGsは『大衆のアヘン』である」と書いた。今回ふれている書籍の著者・原貫太氏もまた、ここまでの痛烈な表現ではないにしても「問題意識のないSDGsへの違和感」を表明している。少し長いが引用しよう。

「SDGsの標語や内容に対する認知度は高まってきました。『SDGs経営』を意識する企業や、『SDGs理解』の授業をする学校も増えています。そのような社会の流れ自体は、決して悪いことだとは思いません。しかし、『SDGsに取り組もう!』『貧困や環境問題を解決しよう!』と外から教え込まれたところで、もしもそれに取り組む人たちの自発的な意思が欠けていたとすれば、それは"本質的な社会貢献"とは呼べないのではないでしょうか。私たちがまず初めにやるべきなのは、SDGsの先にある社会問題と自分の繋がりを知り、内から湧いてくる問題意識を持ってSDGsに目を向けることです」(『あなたとSDGsをつなぐ「世界を正しく見る」習慣』11㌻)

ここに、本書の主旨が端的に示されている。

先にリチウムの話をとり上げたが、リチウムと同じくレアメタルのカテゴリーに分けられる「コバルト」もまた、貧しい国への搾取によって得られたものがスマートフォンの製造に反映されている。レアメタルの資源が豊富な国が、自国の資源で儲けられない。これがそもそもいびつな構造だが、そんな「いびつ」を許しているのは、紛れもなく先進国だ。

たとえば、コンゴという国は一度、「コンゴの天然資源はコンゴ人のために使う」と表明した。コバルトの多くは、コンゴで採掘されている。だが、アメリカ率いる資本主義陣営にとって、この話は都合がよくない。そこでアメリカは、当時のコンゴ首相・ルムンバを共産主義者扱いし、ベルギーと画策して彼を暗殺さえした。その後、コンゴには独裁政権が誕生。激しい混乱も続き、アメリカが庇護を放棄すると、そのままウガンダやルワンダがコンゴ紛争になだれ込み、最終的には「アフリカの世界大戦」と呼ばれる大きな戦争につながっていった。

SDGsというめでたい標語は、こういった「立場の弱い国をいいように使う」口実に使われかねない。「地球環境のためだから」といって、レアメタルの搾取をさらに加速させ、現地社会をより破壊しかねないのが、善意の標語の恐ろしさである。

ちなみに、これは斎藤幸平氏が指摘していることでもあるが、レアメタルを使って製造される電気自動車が、ガソリン車から完全に車道における立場を奪ったとしても、世界の温室効果ガスは1%ほども減らない。

「衣服ロス」から考える大量消費社会

善意でなされる寄付が、現地の人にとっては「えらい迷惑」ということが多々ある。その代表が、先進国で集められた大量の古着の寄付である。日本だけでも現在、年間24万㌧(単純計算でTシャツ12億枚分)の古着が外国にわたっている。もちろん表に出る目的は「貧しい国を支援するため」ということになるのだが、現地に送られた古着のほとんどは使われることもなく破棄される(送られてくる衣料品の量があまりにも多いのだ!)。

しかも、送られる側の国々の多くはごみ処理の技術が未発達なので、届いた古着,、余った古着を処分するだけで大変だ、ということになる。加えて、入ってきた古着が現地の衣料産業に価格破壊をもたらすほど「安い」という事実にも注意が必要だ(ウガンダでは、古着1枚、大体6円ほどで売られているが、これは当然ながら現地の衣服よりもはるかに安価である)。大量に送られる"善意の"古着のせいで、現地で裁縫産業などに携わっている人たちが、職を追われたりしている。寄付が、めぐりめぐって現地の経済的自立を邪魔している、という事態につながっているのだ。

「先進国からタダ同然の古着が大量に輸入されれば、現地の消費者はそちらに流れてしまい、地元の繊維産業が成長することは妨げられてしまう」(同33㌻)

「衣服ロス」をなくす、というと聞こえはいいが、そのために、いいように貧しい国が使われている。彼らの国は、さしずめ「衣服ごみの最終処理場」状態だ。では、なぜ貧しい国を先進国は「使おう」とするのか。ふたたび、著作から引用しよう。

「背景には、大量生産・大量廃棄の仕組みがあります。安く作るために一度に大量に生産し、いらなければまとめて廃棄すればいいという、資本主義が生み出したシステムです」(同61㌻)
「新品のまま衣服を廃棄してしまう衣服ロスの話を聞けば、『せめてセールで売ってくれればいいのに』と感じる人もいるかもしれません。しかし、アパレル企業には、たとえ新品の衣服でも廃棄せざるを得ない事情があります。(中略)特に近年は、値段の安い服を大量生産・大量販売することで売上を拡大しようとするファストファッションが台頭してきました。ファストファッションでは、1着当たりのコストを抑えるためにも、最初から余ることを前提にして服を大量生産するため、結果として在庫も多くなってしまうのです」(同68㌻)

他にも、本書ではアパレル産業が抱える大量廃棄の原因が指摘されている。そこはぜひ、この本を手に取って確認してほしい。産業構造のいびつさに、息をのむかもしれない。

貧しい国に対する「あるべき支援」とは

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と、ここまで書いておいて心配になったので念のため確認だが、著者の原貫太氏は国際人道支援自体を否定しているわけではない。否、むしろ彼自身は積極的に支援に関わっている。彼が問題にしているのは、支援の仕方がほんとうに相手のためになっているのか? という点だ。アフリカ支援について、彼はこう書いている。

「もちろんすべての援助が無駄と言っているわけでは決してありません。しかし、それ以上に必要なことは、アフリカの人たちが自らの力で立ち上がろうとする意思を尊重し、その自立をサポートすることではないでしょうか。(中略)本当にあるべき寄付や援助というのは、現地の人たちの周りの環境を整え、彼らが本来持っている力を十分に発揮し、未来を切り拓くための可能性を取り戻せるように手助けすることではないでしょうか」(同56㌻)

彼は、それを老子の格言「授人以魚 不如授人以漁」を借りて別言する。魚をたんに与える、まさに「寄付」のようなことであれば、瞬間的には現地の人が喜ぶこともあるだろうが、長期的に見れば、それは刹那的な支援にしかならない。与えた魚は、食べてしまえばそれで終わりだからだ。そこで老子はこう言った。「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えるべきだ」と。そうすれば、釣り方を覚えた人は、以降、自ら魚を得て食べ続けられるようになる。この老子の言は、国際協力の世界でもよく聞く言葉だそうだ。

その上で原貫太氏は、もう一歩踏み込んだ提言をする。

「先進国側の人間が一方的に考案した釣り方を教えるのではなく、現地の人たちの中に眠っている釣り方を"引き出す"サポートをする。川と魚がある所なら、現地の人たちは釣り方を知っているはずです。(中略)アフリカの人たちを一時的な施しの対象として、無力な存在として見てしまうのではなく、彼らにも未来をつくる力があるのだと認めた上で、一緒に魚の釣り方を考える。彼らが魚の釣り方を体得できたのであれば、私たちはそこから立ち去り、同じ地球に生きる同じ人間として、対等な立場で関係を築いていく。そのような姿勢こそが、本当の意味で困っている人を支援することに繋がるのだと私は思います」(同58㌻)

このことを原氏は、「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を"引き出す"べきだ」と表現した。

本書にはさらに、「では、こういった国際問題について、私たちは何から始めたらいいか」の具体策も書かれている。非常に示唆に富んだ内容だ。ぜひご一読をお勧めしたい。最後に、ふたたび原氏の言葉を引用して結語とさせていただこう。

「善意というのは、時に悪意よりも恐ろしいものになりえます。なぜなら、善意によって行われる行為は、それが誰かを苦しめることに繋がっていたとしても、そのことに自分では気づきにくいからです」(同42㌻)


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