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[書評]伊藤亜紗『手の倫理』――「わかるよ」の相づちが凶器に変わるとき。

「触り方が、いや」という言葉を、たぶん、多くの人が人生で一回以上は見聞きしたか、あるいは発したと思う。

実は、触覚にまつわるもの、たとえば「さわる」「ふれる」に、私たちは礼儀のようなものみている。コンビニで買ったものを店員さんから受け取るときに、相手の手からわずかにふんだくるようにしたら、それだけでもその場には違和感がただようだろう。手のしぐさから、「そんな触れ方は、ないでしょ」といった倫理的なメッセージが伝わってしまうからだ。そのことを、伊藤亜紗さんは近著『手の倫理』で、やさしく丁寧に記した。そこには――紋切り型の話にはなるけれど――私たちがコミュニケーションをするときに、思っている以上に「言葉以外のもの」に頼り、触覚に支えられていること、また、手触りなどの触覚が前面にでてくるコミュニケーションが現にあり、しかもそれが豊穣な場でもあることが示されている。ここで少し、解題したい(「倫理とは何か」という問いは、ここでは横に置く)。

言葉ではない、触覚によるコミュニケーション

伊藤さんは、コミュニケーションで使われる「言葉」「文字」や、たとえば道路標識、ロゴなどの「アイコン」「象徴」等を「記号的メディア」として、また、さまざまなものを媒介しながら触覚等を伝えるもの(直接的な神経的反応も含む)を「物理的メディア」として本書で紹介している。両者は、同時的に行われることが多く、伊藤さんも、まずはストレッチの仕方を手取り足取り教える場面を具体例としてとりあげている。

「『上に伸ばすっていうより脇を伸ばす感じにするのがコツ』などと言いながら、バンザイした相手の手を支えて引っ張ろうとするとき、伸ばすべき方向や力加減は、体の直接的な接触を通して伝えられます。教える側が理想的な位置まで強制的に引っ張る場合もあれば、相手の体の様子を見て調節しながら少しずつ引っ張る場合もあるでしょう」(『手の倫理』115頁)

この場面では、記号的メディアと物理的メディアの両方が使われている。くわしく検討すれば、言葉より物理的メディア → 身体的な接触のやりとりの方が前景化しているといえそうだ。

これは、実はモノを介した場合も同じである。伊藤さんは以下のように例を示す。

「スープの入ったボウルを相手に手渡すとき。いきなり手を離してしまっては落としてしまうでしょうから、相手がボウルの重さをちゃんと引き受けたか、スープが熱ければそれに耐えうる覚悟ができているか、事前に確認してから手を離すことになります」(同頁)

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この、「熱ければそれに耐えうる覚悟ができているか」という心象の確認作業は、「これ、熱いから気をつけてね」という事前の声かけ以外にも、渡すときにボウルから伝わってくる「相手の『つかみ』の感触」、ボウルの安定・不安定さなどをもとにした類推によっても支えられている。場合によっては、このシーンで相手のおぼつかない「つかみ」を感じ、配慮として"事後的に"「あ、これ、熱いから気をつけて!」とつけ加えることもあるだろう。

ブラインドランナーと伴走者のやりとりに驚き

本書で紹介されているこういった事例の極致と私が感じたのは、全盲のランナーと伴走者のロープを使ったやりとりだ。目が見えないブラインドランナーと目が見える伴走者は、互いにロープをつかんでやりとりしている。直接的に身体が接触しているわけではない。しかし、このロープをメディア(媒体)にして、両者は、私が想像する以上にコミュニケーションをし、もっと言えば想像だにしなかった次元――それこそ言葉依存のコミュニケーションではかえってわからないような次元――の意思疎通をも可能にしている。

全盲の女性ランナー・ジャスミンさんの率直な感懐をまず紹介しよう。

「ロープを持って二人で走っていると、『共鳴』するような感覚があるのですが、お互いの調子があがってくると、はずむようなリズムが伝わってきて、楽しい、こころが躍る感じがします」(同156頁)

彼女は、相手の振動を感じることで、ランニングの動きが増幅していくという。また、ベテラン伴走者のリンリンさんは、"ロープ伝い"のランニングには、一人で走るときとは違う相乗効果が「ある」と語っている。彼女は伴走のベストランについて以下のように述べている。

「どっちかがキツいということもなく、かといって楽しているわけでもなく、お互い全力を出し切ってゴールしました。彼(ブラインドランナー)は自己ベスト、私も伴走のなかではベストのタイムが出てゴールしてからもお互いキツくない」(同158頁、(  )は引用者)
「ほんとにリズムよく走っていると、お互い気持ちよくなってどんどん走れちゃいます」(同頁)

タイムが最も速いときのランニングは、どちらかというと疲れていそうなものだが(シロウト考え)、彼女のそれは違った。また、それとは別に、以下のようなことも起きるという。

「逆に相手がものすごく苦しそうなときだと、いっしょにゴールした途端、私もヘロヘロになっていたりします。私としてはたいして速く走っていないのに、です。何か、同調しちゃうんです」(同頁)

言葉なしに伝わる、体調、気分、心の変化、指示

ロープから伝わってくるのは、相手の走りだけではない。体調、気分、たとえば緊張しているのかリラックスしているのかといったことも、伝わってくる。ブラインドランナーのドラさんはこのように語っている。

「伴走者の『判断』が伝わってきますよね。いつも一緒に走っている伴走〔者〕ほど、それほど言葉で説明してもらわなくても、手から伝わってくることから、そうとういろんなことが感じられます。たとえば、『さあこの辺からスピードを出していこうか』という『思い』のようなものが、お互いに、手を通して通じあう。あるいはこっちが『ちょっと飛ばしたいな』と思っても、相手が『前が詰まってるから待ちなさい』といったことも伝わってきます」(同162頁)

また、リンリンさんいわく、こんなケースもあるという。

「子どもが飛び出してきたけれども、大丈夫かなと思って特に言わないでそのまま行こうとすると、『いまの子どもでしょ?』って(ブランインドランナーから)言われます。ものすごく微妙な動きでも読まれてしまいます。私の精神状態や体調も読まれますよ。この前も風邪をひいていたら『気管がおかしい』と言われました」(同164頁、(  )は引用者)

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もちろん、ロープが絶対的なコミュニケーションを生むわけではない。たとえば、緩やかなコーナーにさしかかったとき、それはロープによってブラインドランナーにしっかり伝わる。その一方で、緩やかとは違う、折り返し地点のUターンや、90度まがる、といった場合には、ロープによるコミュニケーションとは別に「あと10メートルで90度右折」といったかたちで言語的に補足がなされる。

もちろん、両者の相性が悪く、"ロープ伝え"のやりとりがうまくいかないこともある。

私たちのやりとりは非言語的なことでも成立する

一時期、ノンバーバルコミュニケーションという言葉が流行った(今はあまり聞かない?)。非言語コミュニケーション、つまり、言葉以外の、表情や声のトーン、ジェスチャー等の情報を用いたコミュニケーションだ。人間の五感によって「感じる」コミュニケーション方法で、第一印象にも大きく影響するといわれている。

この言葉がビジネスシーンで流れていた時、「話し手が聞き手に与える印象のうち、話している言葉そのものが影響している部分は全体のわずか7%で、その他93%はノンバーバル(非言語)要素である」という「メラビアンの法則」をよく見聞きした。

言葉以外が占める部分が93%がどうかは、私自身はソースにあたっていないのでわからないが、それとは別に、非言語がコミュニケーションにとって大事だという知見は重要である。伊藤亜紗さんはその具体例を同書で示している。

「ものを買う場面を考えてみましょう。コンビニで、ポテトチップスとお茶と洗剤を買ったとします。レジに並び、会計のタイミングで、店員さんが、『別にしますか』と訊いてくる。それに対してこちらが『あ、いっしょで』と答える。ここでは『話し言葉』というメディアが使われていますが、それだけではないはずです。その証拠に、こうして文字に起こしてしまうと、ほとんどその意味が伝わりません」(同117頁)
「店員さんが『別にしますか』と言ったとき、彼/彼女が言わんとしていたのは、『ポテトチップスとお茶は食品だが、洗剤は食品ではなく、摂取すると危険な場合がある。それらを同じレジ袋に入れてもよいか、それとも別にするか』といことでした。そのことを示すために、彼/彼女はおそらく、洗剤を手に持ってこちらに見せたり、カウンターに置かれたそれを手で指し示したり、レジ袋もう一枚取り出すふりをしたり、何らかの非言語的な動作を同時にしているはずです。さらに、動作をするだけではなくて、こちらに視線を送ったり、問いかける表情を作ったり、話しかけるタイミングに配慮したりもしているでしょう」(同頁)

上記のように、表情や声のトーンといったもの以外にも、状況や文脈などがコミュニケーションに影響している。だが、多くの人はそれが意識化されていない。あたりまえになっている。普段はそれでいいのだが、たとえば今回のコロナ禍のような例外状態に出遭うと、その「あたりまえ」が崩れて、自身がどう振る舞ってよいかがわからなくなったりする。オンライン会議やオンライン呑み会に「何かが欠けている」と私も、そしてたぶんあなたも思っているだろう(これは私のオジサン思考だろうか。これこそ紋切り型の話、価値観かもしれない〈汗〉)その「何か」は、ノンバーバル要素である可能性が高い。

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Zoomの会議で最下方に表示された上司と社員の悲劇

新型コロナウイルスの感染拡大で、私たちの生活の一部が半ば強制的にオンライン化された。先行して"オンライン化"してきた人たちも、ソーシャルディスタンスやロックダウンなどの物理的な制約を受けて、追加の、そしてそれまで想像だにしなかった形でのオンライン化を余儀なくされた。そのため、たとえばビジネスでは、Zoomの会議でおかしな事態も出た。

Zoomは、会議に「入った順」で顔が表示される。もし上司が最後に会議に入ってきたら、必然的に上司は一番下になってしまう。それを指摘する上司、マズイと思った社員は、なんと、一度全員をZoomから退室させ、上司を一人にしたあとで再度、全員を入室させる、ということを促したのだ――。ちょっとした笑い話として私のところに届いたこの話は、しかし、こういった意識化されないことがらがコロナによって鮮明化したという事例としてとらえることができる。おそらく、物理的な会議であれば、上司に対する態度や会議室内での位置関係には非言語の"約束"があっただろう。

コロナ禍において大切にしたいのは、そうした「無意識に当然視してきたノンバーバルな世界」が可視化されたときに、「そんなの知らなかった」という態度に居直って、現実を無理やり「以前のまま」にコントロールしようとしたり、コミュニケーションを雑にしてしまうのを防ぐことだ。「人事」を扱う界隈では、「画面を通した面接官の顔は、怖い」と言われている。「採用面接をするときに画面越しの相手から自身がどう見えるか」という意識・認識に「改め」を加えて、「相手には怖く映る」ということを前提して、より丁寧にやりとりをしなければならないのだ。

そういった事態が、そこかしこに、生じている。

そのときに大事なのが、「わからないといってテキトーにする所作」ではなく、「だからこそ丁寧に」という心根と所作である。

「さわる」「ふれる」のノンバーバルな世界を教わる

『手の倫理』は、そうしたノンバーバルな世界を、「さわる」と「ふれる」という二軸を立てた話から展開し、繊細で、微妙で、それでいて時に筒抜けにすらなるような「手」による触覚コミュニケーションのありようを教えてくれる。これは、私たちがコミュニケーションにおいて普段「あたりまえ」と思っていることをも明らかにしてくれる。そして、コロナ禍においてのやりとりについて、内省も促してくれる。

特に、人生の根幹を揺るがすような悩みを画面越しに聞くことが多くなった私は、以前にもまして「わかるよ」と言ってしまいたくなる衝動への警戒感を高めている。相手の気持ちなんて、ほんとうはわからないのに、同調してしまうこと、それが時に失礼になる。相手を傷つける。画面越しなら、もっと、もっと、相手のことはわからない。ノンバーバルな面が捨象されてしまうから。そんな環境下にあっては、ディスプレイに映るデジタル表示の相手に、より「耳」を傾け、「手触り」に通じる物理的メディア――オンラインコミュニケーションにもそれはあり得るだろうか――を丁寧にあつかっていこうとする構えが大切になる。

レヴィナスやブーバーの他者論は、「どうしようもなく知りたくて知りたくて、でも他者のことがつかめない」という前提から出発している。それは、上記のような「丁寧さ」を要請する。倫理的に、静かに。なぜなら、「それでも知ろう」という興味関心の志向こそが「他者を他者たらしめるゆえん」だからだ。

「お前のことはもうわかった」「君のことなんてすべてわかるよ」と言われたら、人はイラっとする。なぜなら、「お前/君、の新たな側面への関心は、もう無い」というメッセージが「わかった」という言葉にそなわってしまうから。相手を目の前にしながら、その人の脳内には他者としての「お前」「君」が存在しない。そういうかたちで、わかったつもりで「わかるよ」という言葉を発したとき、その「わかるよ」が、苦悩する友の心を裂く凶器にさえなることがある。

心にも、手触りがある。それが私の経験知である。

手の倫理を知って、コミュニケーションの倫理に思いを馳せよう。

興味を持たれた方は、ぜひ、『手の倫理』を閲読してほしい。

(この本は、プラスチック製買い物袋〈レジ袋など〉有料化の前に書かれたのかな……。)



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