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[書評]ポスト資本主義を語ることは嗤い草? 「否」を突きつけ未来の可能性示す斎藤幸平さん。

資本主義の「次」を語ることがはばかられる空気がある。本書の指摘どおり特にリベラルでそんな風潮が根強い。ましてそれが「脱成長」をいうもので起点をマルクスに置くとすれば、嗤う人もいるかもしれない。私自身、ポスト資本主義的言説に警戒感を抱かないと言えば嘘になる。しかし『人新世の「資本論」』は、それを丁寧に地で行く。私も、ポスト資本主義の空中戦こそゴメンだと思う一方で、論じる必要性、一歩を踏み出す必要性は感じていた。本書に手が伸びるのは自然だった(後輩からも推された)。恥ずかしながら、斎藤幸平氏のご著作は初だ。

正直、本書冒頭で私はイラっときた(詳細は本文で述べる)。けれどこの本にはそんな感情を簡単に吹き飛ばす威力がある。読んだ即日の書評ではあるが少しおつき合い頂ければ嬉しい(斎藤幸平さんに後日インタビュー。「現代ビジネス」に掲載されました。リンクは最下方)。

「SDGsは『大衆のアヘン』である」に違和感。だが…

私が何にイラっときたかを書こう。該当個所は上記見出しのフレーズである。「SDGsは『大衆のアヘン』」は本書冒頭、まさに「はじめに」の副題として現われる。私は企業人として実務で、何なら業界のパイオニア的存在にとの思いでSDGs(=気候変動などに対応するための2030年に向けた開発目標)に携わり、気候変動に関する諸活動も広く支援してきた。その私にとってこの言葉は感情をさかなでするものだった。

とは、いえ、だ。読後の感想としては率直に「SDGsを夢想で終わらせたくない人にとって必見の書である」と表現するのが最適だと私は思った。この本はSDGsに私が感じてきた違和感をズバリ言葉にしてくれていた。実際、SDGsはある種の信憑、信仰に支えられている。ポイントは以下のとおりである(以後「SDGs」は主に気候変動に関わるものを指す)。

・気候変動の危機が先進国に及ぶようになれば人々は本気になるだろう。
・諸企業が参入してSDGs自体をビジネスの動力にすれば世界も動くだろう。
・「気候ケインズ主義」よろしく莫大な公共投資も始まるだろう。
・今後も続く(であろう)技術革新もSDGs達成を支えるはずだ。
・これらによって気候変動が引き返しのきかない臨界点(ex.プラネタリー・バウンダリー等)に至ることも防げるに違いない(…弱気)。

これらは本書でことごとく否定される。以前はポスト資本主義を語ることが夢想とされたが、「今はSDGsを手放しで信頼することこそ夢想だ」と、そういう構えで気候変動と向き合おうというメッセージが本書から伝わってくる。私も以下の引用どおりの気持ちを抱いていた。

「現在の地球環境においては、まさに(緑の経済成長といった)この時間稼ぎが致命傷となる。見せかけだけの対策に安心して人々が危機について真剣に考えることをやめてしまうのが、一番危険なのである。同じ理由から、SDGsは批判されないといけない。中途半端な解決策ではなく、石油メジャー、大銀行、そしてGAFAのようなデジタル・インフラの社会的所有こそが必要なのだ。要するに、革命的なコミュニズムへの転換が求められているのだ」(354頁、強調・(  )は引用者)

「社会的所有」や「コミュニズム」といった語に慌てるかもしれないが、これらの語はひとまず横に置く。確認したいのは、SDGsはただの目標だということだ。それが達成できたとしても気候変動が止まるとは限らない。し、そもそもSDGsは上掲5項目のような妙な"性善説"に依拠して語られやすい。性善説は別にいいのだが、SDGsだけでは根本的な解決につながらない可能性が非常に高いし、SDGsが、達成見込みが示されることで人々が安心し、気候変動と真剣に向き合う動機が奪われてしまうことがある。人々の目を問題の本質からそらしかねない。まるで、かりそめの"天国"を示し人を釣る紛いものの宗教のように。だから斎藤氏はマルクスの「宗教はアヘンである」に倣ってSDGsを批判する。SDGsに携わる人は、この瑕疵に目を背けてはいけない。

故・加藤典洋の声に耳を傾けたい。

「社会が新たな様相を示し、そこで『生』の条件がこれまでとは異なる困難のふたしかさのなかに置かれるようになり、生きることがこれまでとは別種の経験になりつつあるということは半世紀以上も前からさまざまに指摘されてはきたけれども、そのことが地球の有限性と結びつけられ、結合された視野のもとに、人の生き方まで届く射程をもって考えられるということは、ほんの十数年前までついぞなかったことだったのである」(※1)

この"長き射程の語り"が本書だ。本書は「生きることがこれまでとは別種の経験になりつつある状態」から、より進んで「別種の経験が可能となる思想と仕組みの議論」へフェーズを移すことを促す。

社会主義批判の武器にされた性善説を逆活用

マルクスといえば「社会主義」「共産主義」を想起する人も多いだろう。両者は実は、性善説に則るがゆえに失敗したとしばしば批判されてきた。その批判をデフォルメして換言すれば、「社会主義は『皆に平等に与える仕組み』をとるので、サボっていようが懸命に働こうが"国家"からもらえる量は同じになる。では、社会主義下で人はどう振る舞うだろう? 『サボる/真面目に働く』どちら?――この問いに対し、社会主義者は『ちゃんと働く』に信を置いた(これが性善説)。が、実際は皆がサボったためコケた」となる。

そもそも「マルクスはマルクス主義者ではなかった」と言われるように、この性善説をマルクス出自のものとするかには賛否がある。ただ、仮に性善説が元にあったとしても"それなら性善説を『資本主義の超克』『民主主義の刷新』『社会の脱炭素化』のプロジェクトに活かそうじゃないか"と発想の転換を迫るのが『人新世の「資本論」』である(個人的には、この"性善説"の逆利用がスリリングで興味深かった〈本の中では明示されてはいないが〉)。

本書では、新しい発想が述べられている。その起点となるのが、先の「社会的所有」「コミュニズム」という語であり、その換骨奪胎である。

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「人新世」と『資本論』。危機と資本主義

まず、確認。「人新世」という一般に聞きなれない語について説明したい。これは、人間の活動・営みが地球環境に致命的変化をもたらす年代を指す。気候変動はその最たるものだ。あえて断言するが(これは、必要なことなのだ)気候変動は実際に起きている。それも、人為によってだ。気候変動は地球の生態系を破壊し、海面上昇によって世界の都市を住めない場所に変え(東京・大阪などの都市もかなり冠水し、約1,000万人が移住を余儀なくされるかもしれない)、加えて大災害を頻発させ、文明を切り崩す。サンゴの死滅で漁業に被害がでるし、熱波などで作物もうまく育てられず、耕作地自体が海の底になる。深刻な食糧危機や水不足が到来すれば、世界は修羅の巷となるだろう。

これは極端な表現ではない。このまま放っておけば確実にそうなる。現に一部で(仕組み的には全体で)そうなっている。

この問題に対応するのに、SDGsでは足りない。なぜなら、相手は「資本主義」だからだ。SDGsは資本主義の継続を前提する。経済成長維持を前提にしている。それは無理筋なので、本書は「資本主義を止めよう」と本気で訴える。無責任に訴えるのではなく、マルクスの知恵を借りつつ本気で止める道を示そうとする。

ではマルクスの知恵とは何か。実は、マルクスは近年、日本でちょっとしたブームになっている。なぜなら、マルクスが資本主義の欠点等を的確に言いあてていたからだ。マルクスが書いたことは社会主義的な話だけではない。マルクスの骨頂は資本主義批判の確度の高さと射程の長さ、思想的なカバー範囲の広さが圧倒的なことにある。

マルクスの資本主義批判をデフォルメして説明する

以前わたしはメディア寄稿で以下のように書いた。

「資本主義社会の競争は熾烈だ。カネをめぐって人が争い、敗者が置き去りにされる。『私が欲しいもの』は広告が教えてくれて、その『私』は刺激されるままに消費に走る。グルメガイドに促されて流行り物を頬ばり、増えた脂肪はメタボと指摘されダイエットで燃やす。『コレステロールは害』と喧伝されればサプリメントを口にし、老後が不安となれば保険に財を投じる。そんな欲望人を量産することが『是』とされるので、欲望を刺激するコンテンツが街にあふれる――。これを『デフォルメしすぎだ』と感じる人もいると思う。だが、的外れと嗤うこともできない」(※2)。

資本主義は、無限に成長し続けられることを当然としてはじめて成り立つ。だが、地球資源に限りがあるのに「無限に成長」できるだろうか。現時点でそれは無理とされる(というか「無理とわかる」)。地上が枯渇しても宇宙の資源を使えばいいといったトリッキーな意見も出ているが、マルクス主義以前の、まさにマルクス自身が無限に成長するなどあり得ないと指摘していた。

ここで『人新世の「資本論」』であまり触れられていない、マルクスの資本主義批判のフレームを紹介しよう。

資本主義は、資本家に生産手段を独占させるよう仕向ける。インフラの管理も独占させるよう仕向ける。そして労働者は分業のもと労働時間を"商材づくり"に割く。その労働力自体も商材になる。

ここで大切なのは、資本主義の暴走の種が、この商材の価値を労働力によって増大させられる点に注目することだ。たとえば原材料100円のものを労働によって200円の商材にした時(木と鉄でハンマーを作るように)、100円がプラスとして残る。そこから、労働者が体力等の回復に必要とするお金(≒給料)50円を差し引きすると、残りが資本家の利益になる。

商材200円 - 原材料100円 - 給料50円 = 50円

これがマルクスの言う価値増殖の基本メカニズムで、繰り返すように残りの50円が資本家のベネフィットになる。そして、当然ながら資本家は「利益」つまり「プラスα」をさらに増やそうとする。剰余価値を求める。しかし「剰余」は労働者の労働時間からしか生まれない。そのため資本家は労働者を酷使するようになり、営利を搾取する。少しでも労働者が価値生産的になるよう仕向ける。機械も導入する。現代ならITも導入する。分業も資本主義的効率化(生産力増強)の申し子だ。マニュアル化も進められる。これらによって労働現場はシステム化され、働き手は、たとえば「自分の仕事なのだけど、自分の仕事でないような」組織の歯車感に疎外され、苦しむ。当の資本家も、資本家同士の競争にさらされ、淘汰されていく。資本家は血眼になって競争に勝とうとし、搾取を激化する。それでも利益は一部資本家に集中するようになっていく。資本家の中から負け組も出る。それゆえそこかしこに格差が生まれ、無限に拡大していく。世界で最も富裕な26人と、貧困層38億人(世界人口の半分)の総資産が同額という現在はその行き着く先として必然だった。だが、"ここ"は終着駅ではない。

この行き方、永遠に続くと思いますか?

これがマルクスの疑義だ。『資本論』におけるマルクスのモチーフは「自由な選択に基づく等価交換で成り立つ経済がなぜ格差を生み、人間の支配・隷属を可能にするのか? そのカラクリを解明しよう」と要約できる。分析内容は現代においてもビビッドだ。これに加え、さらに現代では、ボードリヤールが指摘したような「無限の差異化の強制」が起きている(※3)。人、そしてモノに、だ。"ブランド"が好例で、ブランド物のバッグとそうでないバッグの"大したことのない記号(ロゴが入っているか否かとか)の差"があたかも高尚な違いとでもいうかのように人々に幻想を抱かせ、人をブランドに殺到させる。"本来"に立ち返れば「それ、必要?」と思えるようなちょっとしたデザインが幾万円の貨幣価値に換算される。この暴走っぷりを描いたのが、本節冒頭、拙稿の一節である。

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「ITやグリーン政策で解決」はナンセンス

資本主義を永遠に続けることはできない。地球資源は有限だからだ。経済成長と気候変動への配慮は両立し得ないからだ。そして気候変動は待ったなしのところまで来ている。

温室効果ガス削減と聞いた時に、自動車の排気ガスを減らすことを想起する人もいるだろう。ガソリン車がすべて電気自動車になれば削減は成るのではないか?――答えは「否」である。なぜなら、走行による二酸化炭素排出量が減るかわりに製造工程で生まれる二酸化炭素の排出量が増えるからだ。

「IEA(国際エネルギー機関)によれば、2040年までに、電気自動車は現在の200万台から2億8000万台にまで伸びるという。ところが、それで削減される世界の二酸化炭素排出量は、わずか1%と推計されている」(90頁)

グリーン技術は、その生産過程にまで目を向けると、それほどグリーンではない。「IT化ですべてをデジタルに」といった話も、コンピューターやサーバーの製造や稼働などのコストを考えると、気候変動への貢献はあまり期待できない。バイオマス・エネルギーや電気自動車などのTech系が革命的に貢献することはないと見ていい(ただ、斎藤幸平氏の構想などに活かすことはできる)。SDGsを市場原理に組み入れることも問題の本質を解決しない。これらは楽観的すぎる期待である。

こういった"幻想"の幻想さを暴きつつ、斎藤氏は述べる。

「私たちの手で資本主義を止めなければ、人類の歴史が終わる」(118頁)

繰り返し言うが、これは大げさな話ではない。むしろ「大げさだ」と感じる感覚に修正を迫った方がいい。

弱くされている国からの搾取で成り立つ私たちの生活

今回の新型コロナウイルス感染拡大でも明らかになったとおり、災害時のしわ寄せは、まず弱者に行く。気候変動による負の影響も、貧困層から過激になっていく。世界の富裕層10%が世界の二酸化炭素の半分を排出しているというのに。そして、先進国が見た目上まだ安閑としていられるのは、貧しい国への搾取によってだというのに。

クリーンなイメージのある先の電気自動車にはリチウム電池が欠かせない。が、そのリチウムはアンデス山脈沿いの地域などから採掘している。リチウムを含む鹹水をくみ上げ、水を蒸発させてリチウムを取り出している。こうして膨大な量の鹹水=地下水を吸い上げれば、どうなるか。もともと乾燥地帯だった同地域の貴重な水資源が枯渇していく。生態系も破壊される。先進国で排気ガスを出さない車を走らせられるのは、そういった貧困層への搾取ゆえである。

いま資本主義は、搾取の対象をグローバル・サウス(=グローバル化によって先に被害を受ける領域や住民のこと。南半球に多い)に移行することで成り立っている。先進国内で利益を増殖させるには限界があるので、現代は「弱くされている国々」から搾取をしているのだ。私たちにとって身近なパーム油も、たとえばインドネシアやマレーシアで生産されているが、パーム油の原料となるアブラヤシの栽培面積の急拡大に伴い、現地では熱帯雨林が急減し、生態系が壊れ、土壌侵食が起き、肥料・農薬が河川に流れ出して川魚が減っている。そのため、たんぱく源を得にくくなった人々がお金を稼ぐためにオランウータンやトラなど絶滅危惧種の違法取引に走っている。

あなたが今日食べるであろうディナーも、多くの搾取の上に乗っかった形でそこに「ある」ことができる。

ちなみに、先のリチウム電池はノートパソコンやスマートフォンにも使われている。グローバル・サプライチェーンの反対側にいるテスラやアップル、マイクロソフトのトップたちはおそらく、リチウム搾取の実態を数値的に知っている。そんな中で、涼しい顔をして「SDGsを技術革新で推進しよう」などと言えるだろうか。

マルクスの新資料からエコロジカルな理論転換を明示

マルクスはこれまでも数多と解釈されてきた。本当に、数多と解釈されてきた。にもかかわらず、そこに新たに何を付加するのか? 新しいマルクス解釈は必要なのか? という問いは、マルクスを読み、翻訳されたアルチュセール等のマルクス理解を渉猟し、それなりにマルクス解釈に触れてきた私も抱いたことのある疑念だった。

実は近年、新しい『マルクス・エンゲルス全集』の刊行が進んでいるらしい。全100巻を超える壮大な編集プロジェクトで、そこには以前の全集にはなかった『資本論』草稿やマルクスが書いた新聞記事、手紙、研究ノートなどの新資料が掲載される。この新しいテキストから斎藤幸平氏は、「生産力至上主義」や「ヨーロッパ中心主義」といったマルクスへの既存の批判的ラベルを剥ぎ、マルクスにエコロジカルな理論的転換があったと説く。その変化は

「一昔前に流行ったルイ・アルチュセールの表現を借りれば、『認識論的切断』といってもいいほどの変化である」(196頁)

らしい。新しいマルクス全集に私は触れていないので、ジャッジこそできないものの、本書を読み、その具体的主張に唸らせられたことは告白したい。そして、そのキーになるのが「社会的所有」と「コミュニズム」というターム、もっと言えば「新しい社会的所有」と「脱成長コミュニズム」である。

市場の価格メカニズムは希少性に基づく

少し学術的な言い方になるが、マルクスが語った「資本主義の不可能性」は「普遍交換と普遍分業、そして普遍消費」という継続不可能な状態でしか成立しないという意味である。特に普遍消費、つまり、みなが常に"買うモード"に入っているという前提が崩れると、資本主義は一気に崩壊する蓋然性が高くなる。なぜなら、誰も何も買わない(買えない)社会は、資本主義において死を意味するからだ。

そのため資本主義は、多くの人たちを「都合よく欠乏」させて消費を喚起する。また、先ほどのブランディングのように、些細な違いに人を熱狂させ、消費を喚起する。決して「皆が満たされてはならない」という不文律に従う。そしてそれは「希少なもの」と「その他」というフレームワークがあってこそ成立する。たとえばフェラーリは、持っている人が希少だから価値あるものとして見做される。もし街中がフェラーリだらけだったら、フェラーリがフェラーリたる意味も失われる。そう、誰もが享受できるものごとはウリにならないのだ。だから斎藤幸平氏は

「市場の価格メカニズムは、希少性に基づいており、『潤沢さ』は、このメカニズムを攪乱する」(230頁)

と述べ、もっと先に進み

「資本主義こそが希少性を生み出すシステムだ(と考えるべきである)」(231頁、(  )は引用者)

とまで言い切る。確かに「コンパクトな乗り物で速く移動できる」という自動車の使用価値と凄まじくかけ離れたフェラーリの魅力を再考すると「そうだよなぁ」と思う。

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では、どうしたらいいのか。斎藤氏はさまざまな具体案を提示している。私はその中でも特に柱たる役を担う「新しい社会的所有」と「脱成長コミュニズム」を簡単に解説して本稿を締めくくろうと思う。

「脱成長コミュニズム」と「新しい社会的所有」

まず、資本主義に欠かせないのが脱・成長だ。永続的な経済成長は資本主義にとって大切な要件である。そこから脱するという発想自体がこれまでは嗤いの的になってきた。しかし、本当に一笑に付して済ませていい話なのだろうか。斎藤氏はそこに「No」を提示し、本書に事由を書き連ねている。内容は本を手に取って確認してほしい。

個人的に関心をひかれたのは、斎藤氏が「コミュニズム」「コモン」に注目している点だ。これはマルクス解釈のキー概念でもあり、一時期流行したアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『〈帝国〉』の中でも語られた「共」の意を持つ語でもある。経済学的な文脈でいえば、コモンとは、社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことを指す。また、哲学的な目線でいえば、コモンは国家といった上からの強い力でもなく、市場原理という万人が巻き込まれるような広がりを持つ力でもない、そのあいだで潤滑油のように機能する中間的共同体をも意味する。

いま必要なのは、脱成長を志向するコモンであり、水や電力、住居、医療、教育といったものを「国有化」するでもなく、あるいは「民営化して商材にする」でもなく、公共財として市民が民主主義的に管理する「人と人とのつながり」「共同」「機能」を創成することだ。これは、斎藤氏のご著作の眼目的主張でもあり、すでに今ソーシャルワーカーなどが創成に傾注している「アソシエーション」を賦活することでもある。今ある手持ちのリソースを有機的に結ぶことで、これらは十分運動化できる。

斎藤氏は事例を提示する。

かつてはGMやフォードなど自動車産業の中心地だったデトロイト。しかしやがて、同産業の衰退により人がいなくなっていった。ところが同市は今、街なかで有機農業を始めることで再活性化の一歩を踏みだしている。地域の有志やワーカーズ・コープが中心となって都市農業を開始し、都市に緑の風景を創造している。また、コペンハーゲンでは誰もが無料で"食べていい"とされる「公共の果樹」を市内に植えることを決定した。

「これは、現代版の入会地であり、『コモンズの復権』といっていい」(295頁)

そもそも農地はいま疲弊している。その要因の一つに、自分たちが作った作物の大部分が、自分たちの住んでいない「都市」で消費されているという事態がある。かつてであれば作物はその土地土地で消費され、食べられた後は次の農業生産に(たとえば堆肥などとして)活かされた。しかし、消費の場と産地が離れていれば、肥やしになる食後のモノは産地に戻らず、結果、作った分だけ農地が痩せていってしまう。その意味で、「都市に農地」という発想をもとにコモンズを作ることには大変意義がある。奇しくも私がかつて取材したポケットマルシェ代表・高橋博之氏の「都市と地方をかきまぜる」という思想、彼らが提供する「生産者と消費者がつながるプラットフォーム」サービスは、典型的な「コモンズの復権」といえる(ことにさっき気づいた)。

そして、コモンズの運営に外せないのが、先にも書いたとおり、「水や電力、住居、医療、教育といったものを『国有化』するでもなく、あるいは『民営化して商材にする』でもなく、公共財として市民が民主主義的に管理する」という「新しい社会的所有」だ。これもまた同じ拙稿で紹介したeumo(ユーモ)に通じる発想である。試みに引用しよう。

「驚くべきはeumo(=eumo経済圏の電子通貨)の特徴だ。eumoは貯めることができない。貯蓄できない通貨である。否、正しくは『期限がくると経済圏共通の“サイフ”に吸収されてしまう通貨』である。お察しのとおり、これは『貯められる悲劇』を生みがちなカネの性質を踏まえた設計である」(※2)

いわば皆で財布を共有するような発想だが、資源を共有財産にし、共同管理していくという考えが本書の案と似ている。日本でも、まさに斎藤幸平氏が提唱するようなコモンズ、アソシエーションの萌芽が成長してきているのだ。また、もう少し抽象度の高い目線で見ても、「働き方改革」などを気候変動に適応するための手段とするなら

「『使用価値』を生まない意味のない仕事を削減し、ほかの必要な部門に労働力を割り当てる」(306頁)

いや、もっと踏み込んで斎藤氏自身が

「現在高給をとっている職業として、マーケティングや広告、コンサルティング、そして金融業や保険業などがあるが、こうした仕事は重要そうに見えるものの、実は社会の再生産そのものには、ほとんど役に立っていない。デヴィッド・グレーバーが指摘するように、これらの仕事に従事している本人さえも、自分の仕事がなくなっても社会になんの影響もないと感じているという。世の中には、無意味な『ブルシット・ジョブ(クソくだらない仕事)』が溢れているのである。(中略)『使用価値』をほとんど生み出さないような労働が高給のため、そちらに人が集まってしまっている現状だ。一方、社会の再生産にとって必須な『エッセンシャル・ワーク(「使用価値」が高いものを生み出す労働)』が低賃金で、恒常的な人手不足になっている」(315頁)
「だからこそ、『使用価値』を重視する社会への移行が必要」(316頁)

と説くように、国家的プロジェクトである働き方改革がここまで見据えたレベルの取り組みになれば、社会は変わるかもしれない。ぜひそこに私自身、貢献したいと思うし、行動したい。

加えてこの本では「コモンの潤沢さ」というワードを使いつつ

「生活そのものを変え、そのなかに新しい潤沢さを見い出すべき」(231頁)

とも提案している。この考えには、哲学や宗教も寄与できるかもしれない。社会学者・見田宗介氏は、「成長しない日本社会」で明るさを開くには「感受性の解放」が必要だ、と説いた(※4)。思想家ジョルジュ・バタイユが朝陽に照らされ刻一刻と変わる街の色彩に震えるほど感動したとつづったように、朝陽一つに心底から感激できる感受性をとり戻すことが、社会の明るさにつながるし、コモンの潤沢さを涵養すると私は思っている。感性の足場となる言葉のフックを日常に添えられるのが哲学等だろう。

さて、斎藤氏のこの構想は夢想と感じるだろうか。夢想と思う方はぜひ本書を手に取ってほしい。夢想と思わない方も、斎藤幸平氏が引いてくれた脱成長コミュニズムの補助線を知り、議論と着想の基盤を作って協働するために読んでほしい。本稿でピンとこなかった方は、絶対に読んでほしい。それが私の今の願いである。

ピンとこなかったのは私の筆力不足のせいかもしれないが…。

(※1)加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』新潮社、2014年
(※2)ダイヤモンド・オンラインの拙稿

(※3)ボード・リヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司ほか訳、紀伊國屋書店、1995年
(※4)2015年5月19日付「朝日新聞」


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