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[書評]人を殺すことを訓練された兵士が真に"戦争"から離れられる時――。

戦争は、終わらない。歴史をひもとけば、火を見るよりも明らかだ。日々のニュースには必ず戦争の情報がでているし――少なくとも私のiPhoneには――戦火の最前線では銃をかまえた兵士たちが発砲射撃を続けている。地球上の銃声にもまた、ピリオドは、ない。

戦争から帰ってきた兵士を襲う別様の"戦争"

戦争は、終わらない。国家間の争いも。テロリストとの闘いも。そして、違った意味での、知られざる"戦争"も。その"戦争"は、少なくとも日本ではほぼ知られていない、兵士の内面に関わることだ。戦火の中にいる兵士たちは、特殊な訓練を受けている。しかし当然ながら、彼らも私たちと同じ人間だ。人を殺すことを責務とする彼らが戦争から戻った時、すぐに安穏な生活に「平気で」戻れるだろうか? 答えは「否」である。

「今世紀[20世紀]に入ってからアメリカ兵が戦ってきた戦争では、精神的戦争犠牲者になる確率、つまり軍隊生活のストレスが原因で一定期間心身の衰弱を経験する確率は、敵の銃火によって殺される確率より常に高かった」(リチャード・ゲイブリエル『もう英雄はいらない』)
「最悪なのは、戦闘が60日から90日ものあいだ持続し、そっこから抜けられないという状況である」「このような場合には98%の兵士が精神的戦争犠牲者になる」(デーヴ・グロスマン『「戦争」の心理学』)

戦争の後に、あたかも戦争前のごとく涼やかな日常に「すぐに」戻れる人は、わずか「2%」にすぎない。

"戦争"の傷を癒すための「もがき」「あがき」

今回とりあげる『帰還兵の戦争が終わるとき』(トム・ヴォスほか、木村千里訳、草思社)にも、こうある。

「アメリカでは1日に20人もの復員軍人が自ら命を絶っている。その大半が50歳以上とはいえ、『1日に20人』という統計値の一因となった50歳未満の復員軍人の数は、着実に増えている」(『帰還兵の戦争が終わるとき』)

なぜ、帰還兵は死を選ぶのか。たぶん、ここまで読んだ読者のみなさんはおわかりだろう。彼らは、心的外傷後ストレス障害(=PTSD)、悪夢、フラッシュバック、不眠、解離、トラウマ、嘆き、悲しみ、屈辱感、罪悪感、自己嫌悪、憎悪、後悔、強迫行為、破壊衝動、希死念慮、病的なレベルの孤立感などを抱えている。ふつうに道を歩いていても、停まっている車が爆発しないか、と恐れるほどだ。なぜなら、戦争から帰還後も、彼らは"戦争"を続けているからである。帰還兵たちは葛藤を抱え、トラウマにうなされ、「精神的戦争犠牲者」と命名される(この語は、本書ではなく前掲2書の語)。これが「"  "」付きの"戦争"だ。

傷は、簡単には癒えない。カウンセリングも、薬物療法も、時間さえも、癒しにならないことが多い。『帰還兵の戦争が終わるとき』の題にある「戦争」は、主にイラク戦争を指す。イラクから戻ったアメリカ兵たちの「内的葛藤」や「苦悩」を癒すための「もがき」「あがき」が、本書で描かれている。

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癒しを――アメリカ横断の旅、4345kmを歩みだす

内容は驚きものだ。なんと、帰還兵のトミー・ヴォスとアンソニー・アンダーソンの2人が、「徒歩で」アメリカを横断するという企画である。彼らはミルウォーキーの海ぎわ・ウォーメモリアルから、高速道路の標識が「サンタモニカ66――トレイルの終わり」と謳うゴールの地まで、4345kmを歩く。熱波のはげしい砂漠も、凍てつく雪景色の中も――正確にいうと、嵐によって生命の危機に陥ったコロラド州プエブロでは550kmを車で移動した――歩いている際中、彼らは「癒し」をさまざまなかたちで感じた。

準備のシーンを読めば、わたし自身もワクワクさせられる。少し長いが、引用しよう。

「私とアンソニーは知恵を出し合い〔中略〕思いのままに目標を策定した。そして熱にうかされたように一気に行動を開始した。まず、ウェブサイトを立ち上げる、だろ。それから、Facebookページを開設、と。メクウォンまでひとっ走りして、例の献金してくれそうな人物に会おう。アンソニーはアンソニーでリュックが必要だから、俺用のリュックを手に入れなくちゃな。寝袋、靴下、水を運ぶ手段を確保する、と。スポーツ用品店に顔を出して、スポンサーになってくれないか聞いてみよう。〔中略、それから〕クラウドファンディングの出資者特典を某氏と一緒に考える〔中略〕クラウドファンディング用の動画も制作しないとな」(同、〔  〕は引用者)

しかし、物語は意表を突いてくる。死ぬような思いで旅程を踏破し抜いた彼らを待ち受けていたのは、意外な感情であり、そこから新たな悩みがヴォスらを苦しめる。この点については、直接本書で確認してほしい。おそらく、多くの人にとって想像だにしない展開だと思う。

一言いえるのは、帰還兵の「癒し」は、ほんとうに困難であるということだ。しかし、癒しは不可能ではない。本書は、そう言う。絶望するにしては、帰還兵のあなたはいつも「まだ早い」。

「兵士と化す」ということ。胸が痛むエピソード

ここで一つ、エピソードを紹介したい。

トミー・ヴォスには、キミーという恋人がいた。ヴォスが出兵する前の48時間、彼はキミーとの時間を過ごした。本来なら、セックスとディナーと酒と「最後にもう一度」があふれる時間だ。しかしヴォスは、戦争地帯に送りこまれるという事実から目を背けることに努めるしかなく、楽しむはずだった「彼の中の彼」はすっかり引っ込んでしまう。彼はそのとき、すでに「戦争に向かう戦士、義務感に心を奪われた戦士」だったのだ。

「驚くほどあっさりと愛は脇へ退き、刻々と近づいてくる戦闘に道を譲った」「キミーは青い瞳を私の瞳から逸らし、悲しげに微笑んだ。その微笑みを私は知っていた。まだ私を見限ってはいないのだ。自分の完全無欠な愛さえあればなんとかなるんじゃないか、と依然として信じている。私が向こうで何をし、何を目撃しようと、今微笑むか、キスするか、触れるかしておけば、私の一部を永遠に無垢な状態にとどめられる、とでも思っているのだろう」「しかし私は、まだイラクの国土にブーツで踏み入ったわけでもないのに、もう私のひとかけらを彼女に捧げるつもりはなかった。というより、できなかった」(同)

まぎれもなく、ヴォスはキミーを愛している。しかし、自身の気持ちの変容はどうしようもない。

ヴォスがイラクから帰ってきたあと、キミーは失われた時間を取り戻さんばかりに一生懸命に二人の関係修復の努力をした。彼に頻繁に電話をかけ、「ちょっと出かけない?」と誘った。だが、ヴォスはそれに応じなかった。「いいよ」と返事をしながらも、一度も顔を出さなかった。むしろ、キミーと約束をしても、それをすっぽかして友だちと出かけるほどだった。そのたびにキミーは泣いたが

「どうやったらその声を受信できるのか分からなかった。キミーが泣いているときに私ができるせめてものことといえば、何かを感じたいと願うことくらいだった」(同)

本書では、恋人のキミーとヴォスがSkypeでやりとりをするシーンがでてくる。もちろん彼は戦場のテントの中だ。一方のキミーは、友だちたちと飲み会をしている。画面の向こう側とこちら側の温度差は、あまりにも激しかった。別れを告げて、テントの中でパソコンをログオフし、耳の中でこだまするキミーの笑い声を感じながら、ヴォスはおぞましいほどの孤独感にさいなまれたのだった。これは、仲間の頭が銃弾で打ち抜かれ、体がグニャリと曲がるようにして倒れる情景を見ているヴォスにとって、酷でしかない。

この話はアメリカ兵だけに起きていることではない

あまりにも悲しく、寂しい物語だ。しかしこの物語は、今も世界中で生まれている。誰もが、戦争は嫌いだ。いや、好きな人間がいたとしても、大多数の人は戦争が嫌いで、このような帰還兵に自分がなることも、またそういう兵が生まれることも、願ってはいない。だが、人類全体でみると、多くの兵士が母国に帰還している。現地で死した友を残して。

そしてそれは、アメリカ兵にも起きることだが、イラク兵にも起きることである。「帰還」というかたちではないかもしれないが、イラク兵にはイラク兵の、悲しみの物語、寂しい物語がある。そんな両陣営の悲劇大量生産の果てに、何が残るのだろう。互いが望まぬ物語を縦横にからませて、どんな悲惨な編み物ができるだろう。

人間は愚かだ、と、言うのは簡単だ。

この修羅のらせんから降りることは、できるのだろうか。

理屈上はできるかもしれない。だが、情理の段になると、どうしても、できない。それでも、少なくとも個々人が、本書のような話に触れ、戦争を捉え直すことは、戦争になびく人類の力学を幾分か変えるだろう。その希望だけは捨てないようにしたい。


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